7:酸っぱいブドウ

 リビングのテーブルにつき、オレンジジュースを飲み干して、僕は乾いていた喉を癒した。疲れた体に甘い酸味が丁度良い。テーブルにグラスをゴトリと置き、眼鏡を外す。右肘をついてやや前傾姿勢になる。

 正面に座す小来さんと目線を揃えた。つるりとした冷たさを持つその奥を、引っ掻くように覗き込む。小来さんがたじろいで少し身を引いた。

「端的に、誤解を承知して言えば、僕は赤色が見えない。だから、赤色と青色の明滅も、見えない」

「それってなにかの病気?」

「違う」

 ほっと彼女はオレンジジュースのグラスへ息をつく。それから、やはり意味が理解出来なかったのか、首を傾げた。

「病気じゃないのに赤が見えないの?」

「よしよし、良い子だ。赤が見えないってどういうこと? とか聞かれると説明がまどろっこしいからな。君が物事を手前からしか考えられない馬鹿で良かった。これは病気じゃない、遺伝的な問題だよ。少なくとも、日本人男性の四.五パーセント、二十二人に一人は先天的に見えない色がある。女性でも六百人に一人はいる。僕はまあ、つまり、二十二人に一人の、よくいる、平凡な日本人男性だった」

「だった?」

 小来さんは僕の言葉尻をとらえるように呟く。

「ぶどう膜炎って言うんだ」

 瞼を閉じて、自分の眼球の具合を思う。天空で鈴なりに実った酸っぱいブドウはいくらあがいても届かない。なのに、体内に巣くうブドウにもまた、手を施せない。今この瞬間も、つぶつぶとした得体の知れない物体が、体内を自由に行き来し蝕んでいる。

「僕の目を見て」

 意を決して瞼をしっかりと持ち上げ、彼女に僕の眼球を突き出した。うっすらと蛍光灯を吸い込んだ瞳が僕の要求に応える。

 微かな蒙古ひだの向こうにある、ねっとりとした筋肉の束が、細い血管の数本走る白い眼球を動かし、焦点を合わせた。プラズマがうごめくようなつるりとした角膜と虹彩の中心で、瞳孔がきゅっと大きくなる。彼女の、放射状に光の筋が走る角膜と虹彩をきれいだと思った。それは僕に集中しているのか、ぴくりとも動かない。ただ停止してスターターピストルの音を待っている。きっと動き出せば、地面をえた陸上選手のように、世界のありとあらゆる色をかき集めるのだろう。

 互いに詰めた息が苦しくなってそろそろ限界が来る、と脳裏に閃いた頃、「ひっ」という悲鳴と共に、彼女の虹彩が揺れた。

「ブツブツがある! なにそれ……」

「見えた?」

 僕は瞼を下ろして眼球をしまう。

 僕の眼球、正確には角膜と虹彩の奥には、白っぽい膿が斑点となっていくつも溜まっている。

「気持ち悪い?」

「少し」

「素直な返事だ」

 言って、僕は笑ってみた。ここは何でもなさそうに爽やかに笑ってみせる場所だろう。

「血管が集まるところにね、炎症が出来るんだ。自己免疫疾患のひとつで、自分の健康を守ろうとして自分自身を攻撃してしまう、狂った免疫機能が原因なんだ」

 べ、と口を開けて舌を出す。

「この舌にも白いつぶつぶが見えるだろ?」

「見える」

「血管が集中して集まる粘膜にならどこにでも出来る。多分、僕の腸や胃にも出来てる。全身がこんな状態なんだ。わかるかな? 全身にモンシロチョウの卵をどんどん植え付けられていく気分って言えば」

 返事はなかった。答えに窮しているのだろう。目を開き僕は姿勢を元に戻す。

「これは眼球の表面の問題じゃない。もっと奥の方、心臓とつながるぶどうの房みたいに枝分かれした血管で起こってる炎症なんだ。ベーチェット病とも言うんだけど、」

 僕はそこで言い淀む。喉の奥に熱くて硬い塊がこみ上げ、鼻の奥がつんと澄み切って痛くなり、声を出そうとしても、舌がもがくだけで音を結ばなかった。怖いのだ、これから自分が言うことが。空唾を飲んで、無理矢理音にした。

「失明するんだ」

 言ってみるとそれは、ひどくやわな存在として僕たちの間に落ちた。彼女にとってその事実は荷が勝ちすぎたのか、唇の端を噛んで何かを噛みつぶしたみたいな表情をしている。

「僕の体はぶっ壊れ続けているんだ。じわじわとね、潰れて行く。真綿で首を絞めるように、機能を失っていく。こういう表現はしたくないけど、わかりやすいから使おうか、僕は健常者のように生きられない。常に喪失の恐怖にさらされている」

 首を伸ばして空を見上げた。テーブルのわきに置いておいたカラーチャートをたぐり寄せる。

「それが人間なんだよ。僕たち人間の限界値。努力なんて所詮は幻想で、何かを出来るようにはしてくれない。才能って奴だよ」

「あのね、あたし、それは違うと思う」

「なにが、どう」

 張り裂けそうな否定の言葉に聞き返した問いは、温度のない低い声をしていた。

「諦めるんじゃなくて、出来るようになろうって思うの。そうすれば、出来るよ。ほら、病は気からって」

「治る病の話をしてるんじゃないんだよ」

 苛々と僕は反論を遮った。単語帳式に片方をリングで留められたカラーチャートをパラパラとめくり、”濃紅”と書かれたカードを彼女に示す。

「これは何色に見える?」

「赤」

 微妙な色の表現など考えもしない小来さんは端的にそれを赤色と評する。

 それに頷き返し、邪魔なカードを親指で跳ね上げて、用意していた別のカードを示した。”darkolivegreen”――ダークオリーブグリーン。

「緑」

「さっきのと同じ色には?」

「絶対、見えない」

 ”絶対”に強いアクセントを置いて答える彼女に、パチンと指を鳴らして褒めた。

「よろしい。君は正解だ」

 頬を緩めて喜んだ顔をするから、僕はその頭を押さえつけて額をテーブルに叩き付けてやりたくなった。やらないけども。

「君は正しい。だけど、僕から見たら正しくない。さっき言ったよね、僕は赤色と青色の明滅が見えないって。それはここにつながるんだ」

「じゃあ、あなたの正解ってどういうこと?」

 誘導したタイミングに質問を投下した小来さんに、オレンジジュースを勧めて――彼女はふとした時に食べることを忘れてしまう所がある――こう切り出した。

「ひとつ、とある男の子の話をしよう」

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