3
東屋の中には、アキが一人でいた。ほかの全員は、外からそれを囲んでいる。
アキはヴァイオリンを持って、〝ウロボロスの輪〟のそばに立っていた。ちょっとしたコンサートのような雰囲気だったが、あながち間違っているわけでもない。
まわりに向かって一礼したのち、アキは左肩と顎先でヴァイオリンを押さえた。調子を見るために何度か弓を動かし、空気を音に馴じませるように弦を振動させていく。音が響くほど、あたりは静かになっていった。アキは最後に、空気を整えるみたいに一音だけ長く弾いた。
それから弓を離して、十分な静寂が戻ってくるのを待つ。
――やがてアキは、例の曲を弾きはじめた。
ヴァイオリンは正確に音を連ねていく。文字が文章になり、文章が物語になるように、音は旋律になり、旋律は曲へと変わっていった。それは楽譜通りの、やや単調で面白みのない音楽だった。甘く歌うことも、悲しく叫ぶこともない。どちらかといえばそれは、子守唄のような静かで穏やかな曲想をしている。
アキは曲にあわせながら、魔法の揺らぎを作っていった。ちょうど、来理との訓練でイメージしたような感覚で。揺らぎは〝ウロボロスの輪〟に伝わり、次第にそれを活性化させつつある。訓練の成果は十分に発揮されているようだった。
演奏自体は、一分もかからずに終わってしまう。最後の一音を響かせると、アキはその行方を見届けるようにしてゆっくりと弦から弓を離した。
魔術具に変化が起きたのは、そのすぐあとである。
ガラスの輪が支柱からわずかに浮きあがり、緩やかに回転をはじめる。輪の中に光の濃度の違いが生まれ、シャボン液にでも通したような膜が張られていた。魔術具が活性化されるのは、一定時間だけである。ここからは、あまりのんびりはしていられない。ほかの四人も東屋の中に入って、〝ウロボロスの輪〟の前に立った。
ウティマが、五人に向かって最後の忠告ともいうべき言葉をかける。
「念のために言っておくが、牧葉清織を倒すことは不可能じゃぞ。あやつには〝完全魔法〟と〝ソロモンの指輪〟があるからの。それがあるかぎり、あやつは文字通りの不死身じゃ。あの指輪には、向こう側で永遠を手に入れる力があるからの」
五人は了解したというふうにうなずいた。ナツでさえ、さすがに軽口を返すことはしない。
〝ウロボロスの輪〟に入る順番は、事前に決めてあった。サクヤ、ハル、ナツ、フユ、アキの順である。サクヤが最初なのは、戦闘能力を考えて。アキが最後なのは、魔術具の効果が切れたときのことを考えてだった。
手はず通りに、まずはサクヤが回転する光の輪の前に立った。
「――いってらっしゃい、サクヤちゃん」
と、アキの母親である幸美が声をかける。ここ数日、彼女はサクヤを連れまわしてご満悦だった。もちろん、彼女はサクヤの生命がもう尽きようとしていることなど知らない――
サクヤは幸美のほうを見て、けれど何も言わずに頭だけを下げた。擬態した昆虫みたいにわかりにくかったが、感謝の気持ちを込めた表情を浮かべて。
そしてそのまま輪をくぐると、サクヤの姿は手品のように消えてしまう。彼女の体は完全世界のある向こう側へと、移動したのだ。
次に、ハルがその前に立った。
「――ハル」
と恭介が少年に向かって声をかけている。
「用が済んだら、なるべく早く帰ってくるんだぞ」
ハルは少しだけ笑って、答えた。
「――うん、いってきます」
そしてハルは、光の膜を通り抜けた。
変わった感じは、どこにもない。
気温も、気圧も、湿度も、光量も、臭気も、音響も、触感も、時間も、重力も、光の速さも、およそ変わりはない。
ただ、そこには――
――宮藤未名が、いた。
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