5
それから、一時間ほどあとのことである。
屋敷には一人の人間がやって来ていた。階段の下に車を停め、ドアを開けて地面に足を降ろす。仕事ではないので、白衣は着ていない。
階段の途中で待っていた清織は、軽く手を挙げて合図をした。その人物はちょっと目を細めるようにして相手を確認してから、そちらに向かって足を運ぶ。
「わざわざすいませんでした、季早さん」
と、清織はその人物に向かって声をかけた。
結城季早は清織の少し下で立ちどまり、かすかに笑ってみせる。朝日に消えかける月の光みたいに。
「いや、構わないよ」
「まだ勤務中だったんじゃないんですか?」
「まあ、そうなんだけどね」季早は苦笑気味に笑う。「無理を言って、早退させてもらった。今さら評判を気にするほどでもないしね」
もちろんそれは、例の手術のことを言っているのだろう。
「……彼女は連れてきてくれましたか?」
清織はそのことについては触れずに、代わりに肝心なことを訊いた。
「もちろん、そこにいるよ。助手席のところにね。確認しておくかい?」
「いえ、あとでいいでしょう」
清織は大切な絵の具を使わずに、とっておくような言いかたをする。
「これから季早さんにやってもらいたいことを、全部説明しておきますから」
「――わかった」
二人はそれから、階段を昇って屋敷の敷地へと入っていった。
建物の中には入らず左に折れ、庭園のほうへと向かう。庭の造作はあちこちが壊れ、焼け焦げた跡が刻まれていた。さすがに煙まではあがっていなかったが、戦闘の名残りはしっかりと刻まれている。
「ずいぶん派手にやったみたいだね」
季早はあまり感心しないという顔つきであたりの様子をうかがった。
「僕としても、ことを荒だてるつもりはなかったんですけどね」
清織はもう何なのかもわからなくなった、黒焦げの花に手を触れた。それはせめてもの抗議でもするみたいに、何の抵抗もなく崩れていく。
「あの子たちにしてみれば、納得のいくことではないでしょうから」
「鴻城希槻のほうは?」
「彼女を確保した時点で、勝負はついていました」清織は淡々と言う。「それにあの二人は、完全世界に限りなく近いものを手に入れられたようです」
「そうか――」
季早は背後にある屋敷のほうを向く。その場所がどれほどの時間、文字通りたった一人の人間のために守られてきたのかを思いながら。
「例の魔術具があるのは、こっちです」
言われて、季早は清織のあとを追って東屋へと入っていく。
庭園に埋もれるような格好のその東屋には、清織が確認したのと同じ姿で魔術具があった。戦闘での損傷はどこにも見られない。
「これが、例の〝
「ええ――」
清織は無感動にうなずいた。使い古した玩具でも見る子供のように。
「やはり、向こう側へ行くのかい?」
季早はやや、ため息を含むような声で言った。
「僕の望みは変わっていません」
「でも、彼女は――」
と季早それを言うべきかどうか迷うように、一瞬言葉を切った。言う資格があるのかどうかを。けれどやはり、言っておくことにした。「――彼女はそれを、望んではいないんじゃないかな?」
その言葉に対して、清織は怒るだろうか、と季早は思った。二人のことについて、他人がとやかく言う資格などなかった。例えそれがどんなに正しく、間違いのないことだったとしても――
けれど清織は、雨降りの日に傘を差すくらいの当然さで答えている。
「そのことは、知っています」
「なら――」
季早の言葉を遮って、清織は言った。
「それで澄花が救われるわけじゃないことは、わかっています。彼女が必ずしもそれを望んでいない、ということも。でも、例え僕が彼女のためにその望みを捨てたとしても、やはり僕はこの世界を許せないままでいるでしょう。そうでないことはありえないんです。だから結局は、遅かれ早かれこうなっていたんだろうと思います」
季早はいくつかの言葉を箱の中に戻して、そのまましまっておくことにした。鏡の向こう側に絶対に手を触れられないのと同じで、彼に対して言うべき言葉など、あるはずがないのだ。少なくとも、季早自身には。
「とりあえず、僕はそのあとで、君に言われたとおりにやればいいんだね?」
と、季早は確認のために訊いた。清織は無言でうなずいて、その不可思議な装置のほうを見つめる。
「方法はお任せします。とにかく、僕が戻ってくることはもうありませんから」
「遠慮はいらない、か」
「ええ――僕はそろそろ、彼女を連れてくることにします」
言葉通り、清織は車のほうへと歩いていった。とても静かな、人が葬儀場でよくするような歩きかたで。
「さて――」
その場に残された結城季早は、最後の約束をはたすための道具を探しにいくことにした。屋敷の中に入って、適当な道具を物色する。主人を喪った建物は、目に見えない何かが剥がれ、音もなく死にはじめているようだった。
季早はマントルピースの脇に火かき棒のようなものを見つけて、それを使うことにした。強度的には十分だろう。清織の話によれば、あれはガラスでできているそうだから――
実のところ、結城季早にはそこまで清織に協力するいわれはなかった。宮藤晴に関する一件でも、必ずしも清織の一存で事が運んだというわけではない。結社を紹介してきたのは彼だったが、それにしても特別に義理を感じる必要はなかった。
けれど――
季早には何故か、それを見とどける義務があるような気がしていた。世界を美しく死なせるという、彼のことを。世界がそれに対してどんな答えを出すのか、その結末を見とどける義務のようなものが。
(いや、違うな……)
と、季早は思う。あるいはそれは、願望のようなものなのかもしれない。
道具を持って季早が戻ってみると、そこにはちょうど清織がやって来るところだった。彼は彼女を――牧葉澄花を背負って、歩いてきた。まるで幼い兄が妹を抱えて家路に着くみたいに。彼女の瞳は閉じられ、眠っているように身動き一つしていない。
その髪には、白詰草のようなもので作られた花冠が載せられている。
「まさか、この〝エウリュディケの花冠〟をもう一度使うことになるとはね」
季早は少しだけ、感慨深そうに言った。
「皮肉な巡りあわせだと思いますか?」
と、清織は訊いた。
「いや――」季早はどこか遠い目をして言う。「少し、悲しい気持ちがするだけだよ」
澄花を背負った清織は、東屋のほうへと向かった。後ろからついていく季早には、何だかそれがひどく古代的な情景のような気がしている。
〝ウロボロスの輪〟の前に立った清織は、季早のほうを振りむいて言った。
「あとのことは、よろしくお願いします」
「ああ、間違いなくやっておくよ」
それから二人は、輪の向こう側へと消えた。
さよならも、元気でも、そこにはない。そんな挨拶は、もちろん不要のことだった――これから世界は、完全になるのだ。
「……それじゃあ、僕の仕事を終わらせることにしよう」
誰にともなくつぶやいて、季早はそのことにとりかかった。
火かき棒を振りあげ、〝ウロボロスの輪〟に叩きつける。
ガラスでできた魔術具は、あっけないくらい簡単に砕け散った。手を滑らせた花瓶を割るのと、何も違わない。そこにどれほどの価値や、秘密があったとしても、世界が気にしないのと同じで。
季早は念のために、大きめの塊をさらに細かく砕いておいた。もはや、それはほとんど原型をとどめてはいない。
そうすることで、輪の向こう側がどうなっているのかはわからなかった。ただこれで、もう誰も向こう側へ行けなくなったことは確かである。
――おそらく、彼の望む完全世界が実現するまでは。
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