もう一つのプロローグ

もう一つのプロローグ

 ――彼は暗い夜の書斎で本を読んでいた。

 書斎といっても、厳密には彼のものではない。それはここに二人が来てから一年ほどで亡くなってしまった、ある老人の使っていたものだった。平屋の小さな家と同様、簡素で質朴な造りになっている。

 その部屋を使っているのは、今では彼一人だった。けれど老人がいなくなってからも、その配置はほとんど変わっていない。座卓の上の筆記用具の位置さえ。まるで、老人が明日にでも帰ってくるとでもいうように――

 蛍光灯の明かりは消されて、卓上ライトの光だけが暗闇に浮かんでいた。水道の蛇口をしぼったみたいに、時間はゆっくりと流れている。ようやく目を覚ました暗闇たちが、洞窟に住む小人のように部屋の隅からひっそりと様子をうかがっていた。

 不意に、襖をそっと叩く音が聞こえる。砂で作った城を静かに壊すような、そんな音だった。彼はゆっくり、顔をあげる。

「――入っていいよ」

 声をかけると遠慮がちに襖が開いて、彼女が姿を見せた。かつて小さな女の子だった頃とは違って、彼女も今では成長している。そのまなざしや面影は、あの頃と変わってはいなかったけれど。

「おにいちゃん、まだおきてるの?」

 彼女の声は不自然なほど幼く、頼りない感じがした。

「ああ、起きてるよ」

 彼はそのことに気づきながら、いつも通りに返事をする。

「わたし、うまくねむれなくて」彼女はきちんと靴紐を結べない子供みたいに言った。「だから、ほんをよんでもらってもいい――?」

 まるで、子供の要求だった。お化けが怖いから手をつないで欲しい、というような。少なくともそれは、彼女くらいの年齢の人間が言うことではない。

「いいよ、もちろん」

 彼はけれど、特に気にした様子もなくうなずいてやる。

 その言葉を聞いた途端、彼女はぱっと顔を輝かせた。絵本を抱えたまま、いそいそと部屋の中に入ってくる。襖が閉められると、まるで模様替えでもしてみたいに部屋の様子はさっきまでと違っていた。

 彼女は敷いてあった布団の上に寝ころがると、持っていた絵本をそこに置いた。そうすると、まるで絵本のほうでも早く読まれるのを待っているかのように見える。

 本を閉じると、彼は卓上ライトを持って彼女の横に座った。枕をどけて、絵本が見えやすい位置に明かりを置く。暗闇は礼儀正しく脇へと退き、その尻尾みたいな影だけがわずかに残っていた。

 彼は絵本の表紙に手をあて、そっとページをめくる。それは彼女が例の施設から持ちだした、唯一の所持品だった。施設で暮らしていた当時から、お気に入りの一冊だったものである。

 積み木をそっと積んでいくみたいに、彼は本を読みすすめていった。かつて子供の頃、そうしていたのと同じように。

 絵本の内容は、ある小さな星に一人ぼっちで住んでいる子供が、自分の名前を探しに旅に出る、というものだった。星にあった古いロケットを修理して、その子供は出発する。旅先では、その子供はいろいろな物事や人物と遭遇する。でもその子供は、自分の名前を見つけることはできない。そしてある時、自分がとても大切なことを最初の星に忘れてきてしまっていることに気づく。それが何なのかはわからなかったけれど、もう燃料が尽きて戻ることはできない。どこにも行けなくなった宇宙船は、最後に太陽の何千倍も大きな恒星の中へと突入する。

 船も体も燃えつきてしまうと、その子供は神様の前に立っている。その子供はすべてを思い出す。そして神様に向かって、一つの願いを叶えてもらう。その願いとは――

 ――絵本はそこで終わる。結末が存在しないのではない。一番終わりのページが破り捨てられているからだった。彼女はその内容を覚えていない。その子供が何を思い出して、どんな選択をするのかを。

 だから彼は、彼女のためにこんな話を作ってやる。

 その子供は神様に船と体を元に戻してもらい、始まりの星へと帰る旅に出る。今までの旅で、何が一番大切なことかがわかったから。そしてその子供は自分がもう、名前のない子供などではないことに気づく――

 彼が絵本を読み終える頃には、彼女はもう眠ってしまっていた。とてもきれいなものを、海の底深くに沈めるみたいに。

 その寝顔を確認してから、彼は音を立てないようにそっと絵本を閉じた。それから襖を開けて、彼女の体を両手で抱える。書斎から漏れる明かりを頼りにして、彼女の部屋へと向かった。廊下をほんの数歩あるくだけのその距離が、変に遠く感じられる。

 年頃の少女としてはひどく飾りけのないその部屋で、彼は彼女を布団に寝かせてやった。彼女はまだ、何も書かれていない白紙のページみたいな安定した眠りの中にある。

「…………」

 あの絵本の本当の結末を、彼は知っていた。施設にいた頃、何度も彼女に読んでやったその話を。

 でもそのページは、すでに破り捨てられていた。あの日の夜、彼の手によって。それをさせたのは、世界のほうではあったけれど。

 薄闇の中で、彼はまだ夢を見ることのない彼女の顔を見つめる。彼女の本当の笑顔を最後に見たのはいつだったろう、と彼は考えてみた。緑でいっぱいの白詰草の上に寝転んで、世界中の幸福がみんな集まってきたように笑う彼女。

 ただ、自分がそこにいることが――

 ただ、世界がそこにあることが――

 どうしようもないほど美しく、いとおしく思えるような笑顔。

 やがて彼女の顔に、かすかな苦痛の兆しが現れはじめる。星の巡りが乱れ、月の光が不吉さを帯びはじめるみたいに。何かが、彼女の魂を浸潤していく。

 彼は大切なものを土に埋めるようにそっと、彼女の額に手を触れた。そして、その頭の中にある文字のいくつかを書き換えていく。それは彼女を含めてまだ誰にも知られていない、彼の魔法のもう一つの使いかただった。ほんのささやかな、記憶の一部分だけを忘れさせてしまう魔法――

 少しして、彼女の顔からは苦痛の歪みが消えていった。どこかの危ない崖の縁から、誰かがさっと捕まえてくれたみたいに。

「……本当は、何もかも忘れてしまったほうがいいんだ」

 と、彼は誰にともなくつぶやいた。夜さえそれを聞きとれないような、静かな声で。

 この世界で彼が優しくなれるのは、彼女に対してだけだった。

 だからそれ以外のものに対して、彼はどれだけでも残酷になることができた。例えそれが、この世界そのものを今すぐに消してしまうようなことだったとしても――


 次の日の朝、彼女は何事もなかったかのように、いつもと同じ挨拶をした。

「おはよう、お兄ちゃん。今日もいい日になりそうだね」

 彼女の心は、もうとっくに壊れてしまっている。あの時、あの場所で。時計の歯車がいくつか欠けてしまったみたいに。

「ああ、そうだね」

 それを知りながら、彼は同じようにいつもの笑顔を浮かべる。そうすれば少しでも、時計の狂いを修正できるとでもいうふうに。

 彼女の記憶は、時々混濁する。仮留めされただけの時間と場所が剥離し、別の時間や場所と混ざってしまう。違う種類のパズルがいっしょくたになってしまったみたいに、彼女の記憶は不揃いのピースによって構成されていた。

 彼女は段々、壊れていく。それは確かなことだ。流星が、その身を砕きながら光を放つのと同じで。誰にも、それをとめることはできない。

 だから、こんな世界はもう終わらせるべきなのだ。それも、できるだけ美しく。この無意味で無価値な世界を。


 ――誰かが、この不完全な世界を美しく死なせてやるべきだった。

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