ハルが学校から家まで帰ってくると、玄関の鍵が開いていた。

 一瞬、ハルは躊躇して考える。家の鍵は、父親が閉めたはずだった。かけ忘れたのだろうか。それとも、何かの都合で早めに帰ってきたのか、あるいは――

 念のために、〝感知魔法〟のペンダントを取りだす。あの日以来、来理に言われて習慣的に所持しているものだった。手に巻きつけるようにして、ドアノブへと近づける。

 反応はない。魔法の揺らぎによる痕跡はなかった。だからといって、ほかに鍵を開ける方法がないわけではなかったけれど。

 少しためらってから、ハルは慎重にドアを開けてみた。玄関にはいつもと違った様子は見られない。子羊の血で赤い印がつけられているわけでも、死の天使がその辺をうろついているわけでも。

 そもそも、ハルたちと魔法委員会に直接のつながりはなかった。結社と委員会が争っているからといって、それに巻きこまれるような理由はない。

 けれど――

 それがこの不完全世界と魔法使いに関係したものである、というのも事実だった。

 ハルはできるだけ音を立てないように、靴を脱いで廊下に上がる。家の中の明かりはつけられていなかった。誰かが無理に押しこんだような薄暗がりの中を、ハルはゆっくりと歩いていく。

「――父さん?」

 居間に入るところで、ハルは声をかけてみた。そこに誰かがいるなら、どちらにせよ避けてとおるというわけにはいかない。

 ハルがそっとのぞいてみると、そこには確かに誰かがいた。

 ただしそれは、父親の宮藤恭介でも、会ったこともない結社の人間というわけでもない。

 それは委員会の執行者である、室寺蔵之丞だった。


「何をしてるんですか、室寺さん?」

 と、ハルは呆れるように言った。というより、実際に呆れている。

 居間にも明かりはつけられておらず、加工処理を施されたような不自然な薄闇が全体を覆っていた。ハルは電灯のスイッチを入れ、カバンを壁際に置く。室寺はキッチンのほうのイスに腰かけていた。

「もちろん、お前を待ってたんだよ」

 室寺は慌てもせずに、にやりと笑った。粗放だが、不思議と魅力的な笑顔である。三秒もあれば、相手を信頼させてしまいそうだった。

「こういうのを待ってるとは言いませんよ」

 とハルはできるだけ、腹を立てているように言った。元々、そんな口調は得意ではなかったけれど。

「俺の場合は、言うのさ」

 室寺の様子に、反省の色は見られない。顕微鏡で探しても、そんなものは見つかりそうもなかった。

「そりゃ、室寺さんにはそうかもしれませんけど……」

 ハルはすでに、抗議行動を諦めていた。それほどの面識はなかったが、室寺蔵之丞というのがどういう人間なのかは何となく理解している。

「にしても、人の家に勝手に入ることはないと思いますけど」

「声ならかけたんだがな」

 うそぶく室寺に向かって、ハルはため息をついた。「もし返事が聞こえたっていうなら、耳鼻科のほうにでも行ってください」

 それからハルは、いったん台所のほうに向かう。礼儀を欠いていようが、聴覚に問題があろうが、お客さんには違いない。

「第一、どうやって家の中に入ったんですか? 鍵はかかっていたはずですよ」

 戸棚からお茶の葉や湯飲みを用意しながら、ハルは訊いた。

「聞きたいか?」

 なぞなぞの答えを求めるには、室寺の口調はやや不穏すぎた。

「あまり気は進みませんけど」

 急須にお湯を注ぎながら、ハルは言う。

「まあ何かを壊したわけじゃないから、心配はするな」室寺はにやりとした。「俺はそれほど乱雑な男じゃないからな」

 どちらにせよ、あまり心楽しくなるような話ではないらしかった。

「――とにかく、今度からは中に人がいるかどうか、確認してからにしてください。幽霊とかじゃなくて、ちゃんとした人間がいるのを」

 ハルはお茶をついだ湯飲みを室寺の前に置きながら言う。

「心得た――」

 室寺はさっそく一口飲みながら、素直にうなずいた。

「だがまあ、俺みたいのが玄関前につっ立ってるのもどうかと思ったんでな」

 カーテンを開けてから、ハルは室寺と同じテーブル席に着いた。そうすると、ようやく自分の家にいるという気がしてくる。目の前の室寺を見ていると、コップもイスも、いつもよりひとまわり小さく感じられはしたけれど。

「ハル、お前は今いくつだ?」

 と室寺はもう半分くらいお茶を飲んでしまったところで、不意に言った。どうやら、猫舌とは無縁の男らしい。

「……もうすぐ十五ですけど、今はまだ十四歳です」

 何のための質問かはわからなかったが、ハルは正直に答えておいた。

「ということは、だ」室寺はじっとハルのことを見ながら言う。静止衛星が地上の一点を凝視するみたいに。「お前はまだ〝完全な魔法〟を失っていないわけだ」

 魔法と呼ばれるもののうち、魔術具に頼らない特殊型のものにはある特徴があった。それはこのタイプの魔法が、ある年齢を境として不完全化するということである。その時、その魔法はかつてあったはずの、世界を変えうるだけの可能性を失ってしまう。それはもはや、完全ではなくなるのだ。

 その変化の境界となるのが、十五歳という年齢だった。すべての魔法使いは例外なく、世界に対して十五年という歳月をもって完全魔法を失う。

「一応、そういうことにはなっていますけど――」

 ハルはあまり、気のりしないふうに言った。完全でも不完全でも、この世界は必ずしも魔法を必要としていない、というのがハルの基本的な意見だった。

「――だが、そうもいかなくなるかもしれん」

 と、室寺は少し難しい顔をして言った。

「どういうことですか?」

「お前たちの完全魔法が、あるいは必要になるかもしれん、ということだ」

 たち、というのはもちろんアキやナツ、フユのことを指しているのだろう。けれど、

「……委員会や結社のやろうとしていることと、ぼくたちには何の関係もないはずですよ」

 ハルはそっと、つぶやくように言う。夜の物音に怯えた子供が、頭から布団をかぶるみたいに。

 相手がお化けなら、もちろんそれで十分だったろう。

「お前たちはまだ気づいていないだろうが、この町は今、〝壁〟に囲まれてる」

 と室寺はごく冷静な口調で告げた。

「半径十キロほどもある、巨大な円形の壁だ。魔法使いはこの不可視の境界線を越えることができない。つまり俺たちは現在、その中に閉じこめられているってことだ」

「鳥籠みたいに、ですか?」

「まあそんなところだ」室寺は少し笑った。「これだけ大規模な魔法にかかわらず、発生した揺らぎはごく小さなものだった。何故かは不明だがな。壁のそばまで行かないかぎり、その存在に気づくことはないだろう」

「その壁は、何のためにできたんですか?」

 とハルが訊くと、室寺は一瞬黙った。天秤の揺れ具合を見るような、小さな間が空く。

「……いや、まだ詳しいことはわかっていない」室寺はお茶の残りを飲みほした。「ただ、委員会の連中が壁の外側に集まっていろいろ調査している。それによると、壁は少しずつ拡大しているらしい」

「拡大している?」

「そういう話だ。一日に二十センチ程度らしいがな。遅々としたものだ。しかし、もしかしたら――」

 言って、室寺は言葉を切った。が、ハルにはその続きがわかった。

「――いつか、世界全体をすっぽり覆ってしまう?」

 ハルの指摘に、室寺は苦笑めいたものを浮かべる。

「佐乃世さんの言うように、お前は確かに頭がいいよ。その通りだ。委員会の連中もそれを気にしている。はたしてそうなった時、壁の外側にいる魔法使いたちがどうなるかはわからんがな」

「壁を壊す方法はないんですか?」

「今のところ、めぼしい手段は見つかっていない。俺も思いきりぶん殴ってみたが、まるで効果なしだ。どうも、魔法そのものを受けつけない仕組みのようだ」

 つまり、それは――

「魔法ではどうしようもない、ということですか?」

 ハルは言った。魔法の壁に魔法が通用しないというのなら、もう魔法使いにできることはない。

「おそらく、発生源をどうにかするしかないだろうな。そんなものがあれば、の話だが」

「…………」

「千ヶ崎と俺でいろいろと調べているが、手がまわらない状況だ。外からの支援も期待できん。もはや将棋でいうところの詰めろか、必至をかけられてる状態かもしれん」

「そうなんですか――」

 ハルはつぶやく。事態は思っていたより、ずっと深刻なようだった。

「それから、もう一つ伝えておくことがある」

 と、室寺は言った。「残念ながら、悪い知らせだがな」

「何ですか?」

 ハルが訊くと、室寺は裸の皇帝に従うとんまな大臣みたいな顔で言った。

「――佐乃世さんが、敵に捕まった」

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