9
目隠しを取られたのは、ようやく建物の中に入ってからだった。
奈義が無言であたりを見まわすと、そこはどうやら洋風建築の玄関部分らしかった。広いホールがあって、その両端に二階の廊下へ続く階段が設置されている。天窓から光が射しているらしく、室内空間には新鮮な光が充満していた。
「――こっちだ」
と、奈義の前にいた男が言った。
牧葉清織、結社の主な連絡係を務める男だった。
「ああ」
清織の案内にしたがって、奈義は歩きはじめる。かなりの年代を感じさせる立派な建物だが、人の気配はほとんどない。廊下や窓ガラスなどよく手入れされているらしいのが、逆に不気味だった。この館では、時間が停まっているのかもしれない――
そもそも、この洋館がどこにあるのかさえ、奈義にはわからなかった。車での移動中、ずっと目隠しをされていたからである。市内のどこかではあるようだったが、見当もつかない。
「この場所がどこかは考えても無駄だよ」
歩きながら、前を行く清織が奈義の思考を読んだように言った。
「いくつかの魔法で位置がわからないように細工されてる。それにあの人がいつもここにいるとはかぎらない。同じような場所はほかにもいくつかある」
「しゃべりすぎじゃないのか、それは?」
奈義は皮肉っぽく訊いてみた。
「君を信頼してるからだよ」
気にしたふうもなく、清織は慇懃に微笑んだ。
廊下から見える窓の外では、雪が降っていた。昨夜から降りはじめた雪だ。昨日と今日の境いめを、その雪だけがつないでいる。
やがて一つの部屋の前で、清織は足をとめた。そこにこの館の主人がいるらしい。清織は軽くノックをしてから、奈義に言った。
「ここからは君一人だ。うまくやることを祈ってるよ」
「…………」
清織がその場を去ると同時に、奈義は扉を開けた。軋み一つあげるわけでもなく、扉は開いていく。
執務室といった感じの、小さめの部屋だった。重厚そうな机のほかに、装飾らしいものの類は一切ない。室内は薄暗く、明かりもつけられていなかった。大きな窓の外に雪が降っているのが見えたが、そこからは何故か十分な光が入らないらしい。まるで部屋全体が光の侵入を拒んでいるかのようだった。
正面右手の壁近くに、少年が一人控えていた。せいぜい小学生くらいの背格好で、その存在が、この部屋唯一の装飾といってもよさそうだった。とはいえ、別にそういう趣味のためではなく、警護を目的にした魔法使いか何かなのだろう。
そして、机の向こうには一人の男が座っている。
ひどく禍々しい雰囲気をした男だった。別段、変わった人相や体格をしているわけではない。むしろよく整った、役者のような顔つきをしている。けれどそこには、底なしの夜の中にでも棲んでいるような、一種凄絶とした何かがあった。年齢は三十代半ばといったところだが、もう千年も闇を見続けてきたような目をしている。
(こいつが――)
初めて会ったときは仮面をしていたのでわからなかったが、その男が結社の主人である
「奈義真太郎です――」
と、奈義はできるだけ平静を装おうとした。けれど声に緊張がにじんでしまうのを、自分でもどうすることもできない。
「話は牧葉のやつから聞いてる。何か重要な用件があるらしいな」
鴻城はまるで人形でも相手にするような、無造作な口ぶりで言った。
「――はい」
「話してみろ」
奈義はその言葉に答える前に言った。
「一つ、お願いがあります」
鴻城は返事をせず、ただ机の上に肘をついて両手を組みさわせただけだった。
「人払いをしてもらいたいんですが」
「何のためにだ?」
「俺はあなた自身に関わる重大な秘密の話をするために来ました。他人に聞かせるわけにはいかないでしょう?」
鴻城は少し考えるふうだったが、やがてふっと笑った。どちらかというとその笑顔は、猫が鼠をいたぶるような凄惨なものだったが。
「まあいいだろう。ニニギ、聞いたとおりだ。しばらくここから離れてろ」
鴻城がそう声をかけると、少年は黙ったままこくりとうなずいて部屋を出ていった。少年がいなくなると、室内の暗闇がわずかに濃くなったようでもある。
「これでいらん気づかいはなかろう。好きに話していいぞ」
鴻城希槻の態度には、絶対の自信がうかがえた。それはそうだろう。彼の〈悪魔試験〉にかかった人間は、どうあがいても彼に直接の危害を加えることはできない。例えどれほど強力な武器を持っていたとしても、この男の前ではすべてが無力だった。
そしてこの館には、そうでない魔法使いは入れないことになっている。
「……その前に、あんたには聞いておきたいことがある」
部屋の中で二人きりになったところで、奈義はそれまでとはがらりと口調を変えて言った。
「やはり、本性はそれか」
だが鴻城は落ち着いている。最初から、予見はしていたのだろう。そして〈悪魔試験〉があるかぎりは、この場所で魔法使いが彼を傷つけることは不可能だった。
「伊沢政志という名前に聞き覚えは?」
奈義はポケットから無骨な鉄の塊を取りだしながら訊いた。ベレッタM84、本物の自動拳銃だった。
「いや、ないな」
スライドを引いて、薬室に弾丸を装填する。同時に撃鉄が起こされて、発射準備が調った。
「あんたが委員会の魔法使い相手に起こした、爆発事故の巻きぞいを食って死んだ男の名前だ。俺の伯父さんだった。偶然現場に居あわせて、子供をかばって致命傷を負った。柄にもないことをしたとは、俺も思うよ。だがあの人は、俺のたった一人の本当の家族だった……!」
「名前が違うようだが?」
「あの人は母方の親戚でね」
奈義は銃口を向け、左手でそれを支えた。ほとんど一メートルもないほどの距離である。外す心配はない。
「つまるところ、復讐か」
鴻城は目の前の状況にもかかわらず、平然としていた。
「気の毒なことだった、とだけは言っておこう」
「例え泣いて土下座したところで、あんたのことを許しはしない」
銃口はぴたりと、鴻城の頭部にあわせられている。
「俺を殺して、それでお前は何を得る?」
鴻城はその銃口よりなお暗い眼で奈義を見た。
「完全世界を取りもどす」
奈義は引き鉄にかすかな力を加える。あとほんの少し余計な力を入れるだけで、銃弾は発射される。
「奇遇だな、俺も同じことを望んでいる。だが〈悪魔試験〉があるかぎり、お前の望みがはたされることはない」
「試してみるか、再試験でもして」
「面白い」
にやりと笑ったとき――
轟音が、響いた。
衝撃で大きくのけぞった鴻城の体は、イスごと後ろに倒れる。正確に頭蓋を砕いた直径九ミリの弾丸は、脳の中枢の大部分を破壊し、炸薬によって生じた運動エネルギーを使いはたして、そこで停止した。
床に横たわった鴻城の体は、もうぴくりとも動かない。
「――あんたは試験失格だ」
最後にそう言ったことを、奈義は覚えている。
そのあと、どこをどう歩いたのか、気づいたとき奈義は館の中庭にいた。一面が雪に覆われ、中央にある噴水も今は水が涸れている。歩くと、足元で雪の壊れる音がした。
空からは切れ目なく、白く小さな塊が降ってくる。
涙は出なかった。
それはもう、志条芙夕が流してくれていた。大切なものを取り戻した涙を。そう思うと、奈義は少し笑った。彼女のために何かしてやれたということが、ひどく嬉しかった。
(ああ、そうか――)
と、奈義は心の中の何か温かいものに触れながら思った。
(俺もやっぱり、あいつのことが)
――そして、奈義は地面の上に倒れた。
すでに心臓が停止しているのが、自分でもわかる。体の中の時間が逆回転していくような、奇妙な感覚があった。全身がどこか一点に圧縮されて、すべての機能が失われようとしていた。激しい痺れを感じ、けれどそれもすぐに薄れていく。
急速に暗くなっていく視界の中で、奈義は先ほどの少年がすぐそばに立っていることに気づいた。おそらくこの少年が何らかの方法で、自分の心臓の鼓動を停止してしまったのだろう。
そして少年の傍らには、何事もなかったかの様子で鴻城希槻が立っていた。わずかに血の跡が残るのみで、額に空いたはずの穴もなく、どう見ても死んでいるようには見えない。
「惜しかったな」
やや本心らしい口ぶりで鴻城が言うのを、奈義は聞いたような気がした。
「だがお前はやはり、試験には不合格だ」
「――――」
消えていく意識の中で、奈義は最後にフユのことを思った。
(どうせなら、笑っている顔を見たかったな……)
そして奈義真太郎の意識はこの世界から、永遠に失われてしまった。
――永遠に孤独な場所へと、その魂は。
※
牧葉清織は洋館の中庭で、じっと奈義真太郎の死体を見おろしている。
その体はすでに、半ばは雪に埋もれていた。放っておけばそれは、やがて白い雪に覆われて見えなくなってしまうだろう。けれどそれはどこか、冬の季節がこの男を優しく寝かしつけてやっているようにも見えた。
「……やはり、〈悪魔試験〉だけではなかったか」
そう、清織は独言する。
銃声が聞こえたあと、奈義が中庭で倒れるまでの一部始終を、清織は直接目にしていた。少年の魔法によって奈義の心臓が停止され、死んだはずの鴻城希槻が何事もなかったように現れたことも。
奈義真太郎を、清織は利用した。その復讐心と計画に便乗し、鴻城への襲撃を間接的に手助けした。鴻城希槻の魔法を解くことと、その秘密を知るために。
清織は空を見あげる。
まるで悲しみの欠片みたいに、そこからは音もなく雪が降っていた。これ以上悲しみを増やしてしまえば、世界はもうその重みに耐えられなくなるだろう、とでもいうように。
「……だが、もはやその時は近い」
世界そのものに囁きかけるように、清織は言った。
「もうすぐ、すべての悲しみも、苦しみも、痛みも、絶望も、何もかもが癒される。福音を信じることも、神の国が近づくのを待つこともない。それをもうすぐ、僕たちは手に入れることができる」
牧葉清織は世界の片隅のようなその場所で、そっとつぶやく。
「――すべては、完全世界のために」
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