6
夕食を終えてフユが後片づけをすませてしまうと、リビングで夕葵が何かしているのに気づいた。
時刻は六時を少し過ぎたところで、窓の外にはすでに驚くほど濃い暗闇がある。それは手を浸せばべっとりくっついてしまいそうなほど、粘性の高い色あいをしていた。
フユは手を拭いて、リビングへと向かう。夕葵はそこで、絵を描いているようだった。体の一部が分解したような、奇妙な格好でソファに座っている。正面にあるテレビの電源は入れられていない。テーブルの上には貝殻でも撒きちらしたように、色とりどりのクレヨンが散乱していた。
夕葵はフユのことを特に気にした様子もなく、手元での作業を続けている。
「……何をしてるの?」
訊くと、夕葵はようやく顔をあげた。突然しゃべりだした、人間の形をした石でも眺めるみたいに。
「珍しいわね、あんたのほうからそんなこと聞いてくるなんて」
確かに、普段ならフユはこんなことを質問したりはしない。
「どういう風の吹きまわし?」
「別に、ただ気になっただけよ」
「――――」
一瞬手をとめてから、夕葵はそのスケッチブックをフユのほうに向かって放り投げた。
フユがソファの上から拾いあげると、その白い画面の上にはクレヨンとは思えない精緻なマチエールで絵が描かれていた。ガラス細工のイメージ画として描かれたらしいその絵には、踊り子のような人物が両手に何かを抱えている場面が表現されている。
「――サロメよ」
と、夕葵は言った。
「それはちょうど、彼女が褒賞に洗礼者ヨハネの首をもらっているところ」
志条夕葵らしいといえば、らしいといえる絵ではあった。
「……今日、志条夕葵のファンだっていう子に会ってきたわ」
自分でも気づかないうちに、何故だかフユはそんなことを口にしていた。
「その子には妹がいて、その妹が私を彼女のところに連れていったの」
「あんたに友達がいるなんて驚きね」
半ば嘲笑するように、夕葵は言った。それはこの世界に対する志条夕葵の基本的な態度だったので、フユは気にせず話を続けた。
「その子は重い心臓病を患っていて、子供の頃からずっと苦しんでる。本人は明るく振るまっているけど、自分の体がいつ壊れてもおかしくないことは知ってる。でも、その子は言うの。世界がどんなに不公平だとしても、私は神様に感謝してるって。そして妹のほうも、そのことを知っている――」
夕葵はスケッチブックに手をのばすと、受けとったそれを抱えこむようにして座りなおした。そうしてクレヨンをいくつか掴みとると、画面に向かいながら口を開いている。
「あんたに一つ、昔話をしてあげるわ」
「……?」
「たいした話じゃない。王子もお姫様も怪物も登場しない……もっとも、魔法使いは出てくるけどね。登場人物は、二人の女の子。一人は暗くて醜い、いじけた森のシダ植物のような妹。もう一人は明るく朗らかで、太陽と朝露が優しく世話した花のような姉――」
夕葵はまるで独り言でもつぶやくような、淡々とした口調で続けた。
「――もうずっと昔のことです。王子は姫を訪れず、姫はまだ眠りにつかず、語り部がその言葉を失うほど昔のこと。あるところに一人の女の子がいました。泥水から生まれるのがふさわしかったような、そんな女の子です。彼女はいつも一人ぼっちで、温かい血をもった人間と交わるのは苦手でした。冷たい石や粘土を相手にしているときだけ、彼女の世界は平和だったのです。
そんな彼女には、一人の姉がいました。世界で一番きれいな光の中で生まれたような女の子です。彼女は妹とは違って快活で社交的で、おまけに真心からの優しさというものを持っていました。彼女のまわりには、いつも人の姿がありました。冷たく口もきかない石材とは違った、温もりのある笑顔を浮かべる人間の姿が。応えもしない死んだ彫像とは違った、冗談を言いあう仲間が。彼女は妹の望むものをすべて持っていました。
そうして醜い妹のほうは、ますます一人の世界に閉じこもるようになりました。まるで誰もいない、冷たく暗い海の底を目指すように。そして彼女は、それでいいのだと思っていました。私にはこの場所がふさわしいのだ、と。
孤独の場所で息をひそめながらも、醜い妹にもそれなりの未来は訪れました。彼女は美術学校に進み、そこで本格的に彫刻を学ぶうち、何人かの教授が作品を誉めてくれるようになったのです。相変わらず一人ぼっちではあったけれど、彼女はそのことを喜びました。わずかに、救われる気がしたのです。例えそこが誰もいない海の底だとしても、私はそこにいることができる。
ところが、物事というのはそう都合よくは運びませんでした。
ある時、彼女は事故に遭ったのです。ちょっとした不注意で、建築資材の崩落に巻きこまれたのでした。彼女は頭を強く打って意識を失い、気づいたときには病院のベッドで横になっていました。最初、彼女は何が起きたのかわかりませんでした。母親が泣きながら何か叫んでいるのですが、さっぱり要領を得ません。それからふと、両手がひどく重いことに気づきました。何とか目だけを動かして見ると、そこには白いギプスをはめられて、巨人のようになった自分の手がありました。
医者は彼女にもわかるように、親切に、丁寧に説明してくれました。彼女の両手は事故の際、ぼろぼろに破砕して、もう原形をとどめてはいないのだ、と。その機能が回復する見こみはない。その手には、どうにか日常生活を送れる程度の能力が残るだけだろう。その手では、鉛筆一本を握ることさえ難しい――
彼女にはやはり、わかりませんでした。神様はどうして、わざわざそんなことをしたのだろう。たった一つ、彼女が唯一持っていたはずのささやかな喜びを、どうして奪ったりしたのだろう。どうして……どうして……どうして……?
やがて彼女に理解できたのはただ、彼女がすべてを失ってしまったという事実だけでした。彼女は今こそ、本当に何も持ってはいません。美しい絵の前で死んだ、あの憐れな少年と犬ほどにも。
そんな妹に向かって、姉は言いました。『――その両手を治してあげようか?』そう言われたとき、醜い妹には何を言われているのかがわかりませんでした。彼女は怒りさえしました。あんたに何がわかる。何もかも持っているくせに、たった一つのものを失った私の何が。
けれど姉の話は本当でした。彼女には妹の両手を、その壊れた玩具のような両手を元に戻すことができたのです。そのための方法も、彼女は妹に説明してくれました。
そして、妹はどうしたのでしょう――?
もちろん、彼女はそれを受けたのです。それがどういう意味を持つのかを十分に理解しながら。醜い妹は自分だけが助かりたくて、清い姉の申し出に飛びついたのです。
彼女の両手は、確かに元に戻りました。傷一つない、何の不自由もない手。以前のように、自在に動かすことのできる手。彼女はまだ、彫刻を続けることができる。自分をかろうじて許すことができる。何とか世界に存在することができる。
――そのために、姉の両手を犠牲にして」
話し終えると同時に、夕葵はクレヨンをテーブルの上に置いた。そして言葉の残りかすを吐きだすようにして、長いため息をついている。
「あたしの姉、志条
「…………」
「朝香は結局、あたしに呪いをかけたのよ。あたしはこの手を見るたびに、鏡を見る必要もなく自分の醜さを思い出す。そしてそれにも関わらず、あたしがあたしであり続けていることも。今では自分が、深海よりもずっとひどい場所にいることも」
夕葵はスケッチブックを投げ捨てるようにテーブルの上に置くと、立ちあがった。
「……昔話は、これでおしまい。その二人は、死んでなければ今も生きてるわ」
そう言ってリビングをあとにすると、夕葵は二度と戻っては来なかった。そこにはただ、何かの反響のような沈黙と、放置されたスケッチブックしか残ってはいない。
フユはそっと、そのスケッチブックをめくってみた。
つさっきまで夕葵が描いていたサロメには、周囲に不吉な暗い影のようなものが加えられていた。望みのものを得て、けれど彼女自身もやがては処刑されることを暗示するかのように。
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