4
天橋市民病院は、街の東端に位置する大きな総合病院だった。地区的には市の境に近く、まわりには田んぼが多く広がっている。一昔前に移設されたもので、建物自体ははまだ新しい。
フユと真花は学校の帰り、制服姿のままそこに向かった。路線バスに乗って、病院前で降りる。二人と同じような見舞客か、外来に通うらしい数人が同様にバスを降りた。
街の外れだけあって、あたりにはほとんど何もない。広い道路がまっすぐ通っているだけで、あとは一面の平野だった。いくつかの店がぽつぽつと点在するほかは、空から直接突き刺したような高層マンションが遠くのほうに建っていた。
空はこの季節らしく、のっぺりとした表情のない鉛色の雲によって覆われている。そのせいで、世界は陰々としてゆっくりと死に向かいつつあるかのようだった。
「降るかな?」
と病院の玄関に向かいながら真花が言った。
「予報では降らない」
フユが答えると同時に、二人は病院の自動ドアを抜けていた。
天井の高いエントランスは明るく、清潔で、広々としていた。総合カウンターと自動受付け機が並び、たくさん並んだイスには抜きそこねた雑草みたいにまばらに人が座っていた。診察室前で待機する患者は、病院の通例として老人の割合が高いようでもある。
「こっち――」
何度も来ているらしく、真花は慣れていた。小児科やMRI室の前を通って、小さな階段を昇る。三階まであがったところで、病棟のほうに移った。ナースステーションがすぐそこにある。
「一応、今日の予定とかを聞いてくるから、フユはそこで待ってて」
言われて、フユはうなずく。階段のそばに小さな休憩室があって、フユはそこにある黒いソファに座った。
入院病棟らしく、あたりは静かだった。廊下にほとんど人影はなく、ただ希釈されすぎた人の気配みたいなものだけがある。無個性で無機質な部屋の様子は、治療室というよりは病気の保管庫のように見えた。どこかから、空気をノックするのにも似た、機械的な電子音が聞こえている。
フユはふと、廊下の先に視線を巡らせて表情を曇らせた。知っている顔が、そこにあったからである。
(何で、あの男が……?)
向こうはこちらに気づいていないらしく、少しうつむきかげんでまっすぐ廊下を歩いてくる。いつになくまじめそうな顔をしているのは、ただ場所の都合によってそう見えているだけなのかもしれない。
階段を利用するつもりらしく、そいつはフユのすぐそばまで来た。そこでようやく気づいたように、ぎくっとした動作で足をとめる。
「こんなところで何をしてるの、奈義真太郎――?」
フユは相手のことをフルネームで呼んだ。
「――奈義だって? 俺の名前は伊沢だけど」
「今、明らかに私を見て足をとめたでしょ」
即座に指摘すると、奈義はめげた様子もなく肩をすくめた。面倒な男ではある。
「どうして、あんたが病院に?」
座ったままフユが訊くと、奈義は逆に質問した。
「そっちこそどうしたんだ? 無愛想に効く薬でも開発されたのか」
「あんたこそ、減らず口の手術でもしてもらったほうがいいんじゃないかしら?」
「そうなんだよ、これがなかなか難儀でな。一度罹ると簡単には治らないし、治療費もばかにならん。こっちが必死で努力してるのに、まわりからの理解も得られない」
「…………」
「早く何とか言えよ」
やはり、面倒な男のようだった。
「だから聞いてるでしょ? どうしてあんたがこんなところにいるの」
フユが訊きなおすと、奈義はごまかすようにあらぬ方向へ顔を向けた。
「あー、見舞いだよ、もちろんな。友達が入院したんだ」
「何号室の、何て友達?」
「――四二〇号の、山田太郎だ」
(嘘だな)
考えるまでもなく、フユは思った。いかにも怪しげな名前はともかく、四階の入院患者を見舞いに来たなら、こんなところを通る必要はない。おそらく奈義は、この階で何か用事があったのだろう。それを隠そうとして、そんな嘘をついている。
とはいえ、それを指摘すると話がまたややこしくなりそうだったので、フユは何も言わなかった。どうせたいした問題ではない。
「――で、そっちは何をしてるんだ? 戦場で負傷したクラスメートでも運んできたのか?」
「口じゃなくて頭のほうを診てもらったほうがよさそうね」フユは冷たく言った。「友達のお姉さんを見舞いに来たのよ」
「友達?」
奈義は急に不審そうな顔をする。そしてふと思いついたように訊いた。
「それってもしかして、あの時お前が学校でいっしょだった女の子のことか?」
「一応はね」
取り引き関係を友達と呼んでいいかどうかは微妙なところではあったが。
「……何ていう名前なんだ、その子は」
どういうわけか、奈義は興味を持ったらしい。
「弓村真花よ、それがどうかしたの?」
奈義は軽く首を振って、「いや……」とつぶやいた。電卓を使って難しい計算でもしているような表情をしている。
「弓村か、妙なものだな」
「……え?」
奈義のその言葉は小さすぎて、フユの耳にはよく聞こえていない。
「いや、何でもない――そろそろ、俺は行くよ。明日はまた街に出る予定だ。連絡するから、そのつもりでいろよ」
「……わかったわ」
釈然としないものを覚えつつも、フユはうなずくしかない。いいかげんに、真花も戻ってくる頃あいだった。
「じゃあな、寒くなってるから、風邪には気をつけろよ」
最後だけはまともなことを言って、奈義は去っていった。どうしてこの男が病院にいたのかは、結局のところわからずじまいである。
(まあ、いいわ――)
どうせたいしたことではあるまい、とフユは気にしないことにした。訊いたところで無駄なことはわかっているし、そこまでして無理に関わりを持つ必要はなかった。
それからほとんど間を置かずに、真花は戻ってきた。ちょうど担当の医師がいて、少し話をしていたのだという。病室を訪問するのには何の問題もないそうだった。
真花は廊下を歩きはじめてから、
「さっき、誰かと話してたみたいだけど?」
と、目ざといところを見せた。
「ええ――」
「例の、親戚か何かよくわからない人?」
フユは黙ったままうなずく。
「どうして、病院に?」
「さあ……」それはフユにもわからないところだった。「何か用事があったのは間違いなさそうだけど」
そんなことを話すうち、真花は足をとめた。目の前に病室のドアがある。個室らしく、すぐ横の壁には「弓村桐絵」と書かれたネームプレートが一つだけかけられていた。
卵の殻を静かに割るみたいにして、真花はそのドアをノックした。
中で人の動く気配があって、返事は待たずにドアを開ける。たぶん、いつもそんなふうなのだろう。真花は迷いのない様子で病室に足を入れる。
その後ろから、フユも続いた。
病室の中は、特に変わったところがあるわけでもない。左手に室内トイレがあって、作りつけの棚とロッカーが設置されていた。個室にしてはやや大きめの部屋で、広い窓からは美的とは呼べないあたりの景色と、灰色の空を眺めることができた。
そして中央部分に、ベッドが一つ。
手元で絵本を広げた少女が一人、その上に座っていた。
病院暮らしで邪魔にならないようにしたのだろう。その髪は首筋にそうような形で、短く切られていた。年頃の女の子としては、やや手入れ不足の感がないでもない。自宅から持ってきたらしい空色のパジャマを着ていたが、体の線はその上からでもわかるくらいの繊弱さがあった。真花と比べると、姉というよりはむしろ妹みたいに見える。
――たぶんそれは、病気に奪われた時間によるのだろう。
「調子はどうかな、桐絵?」
真花は二人ぶんのイスを用意しながら訊いた。
一見したところ、ベッドの少女におかしなところはなかった。包帯やギプスの類もなければ、点滴さえしていない。部屋の隅に不似合いな大型のボンベがあるほかは、心電計のような機械もなかった。
「まあまあ、ってところだな」
弓村桐絵は少年のような笑顔を浮かべる。その声には自然な明るさがあって、ほとんど病苦を想像させるものはなかった。その姿を見ずに声だけ聞けば、彼女のことを長期の入院患者だと思う人間はいないだろう。
(――似ている、か)
真花はそう言っていたが、フユにはとてもそんなふうには思えなかった。たぶんこれでは、旅人を前にした北風と太陽くらいには違うだろう。
「カニューラもいらないし、調子がいいと逆に暇になっちゃってさ。昔の絵本を引っぱりだしてた」
桐絵はどこまでもさっぱりとした声音で言う。
「それ、結城先生にもらった?」
イスに腰かけながら、真花は訊いた。
「おう――やっぱりいいな。私も犬に生まれ変わったら、こんなふうに飼われてみたいよ」
けたけたと他愛なく笑ってから、桐絵はまだ立ったままのフユに視線を向けた。
「で、そっちの人は?」
ずいぶんあけすけな態度だが、不思議と無礼な感じはしない。
「――私の友達で、志条芙夕さん」
「ああ、昨日言ってた人か」
そう言って、桐絵はまっすぐにフユのことを見つめる。病人らしくない、硬度の高そうな視線だった。
「私はそこにいるのの姉で、弓村桐絵。桐絵でいいよ、よろしく志条さん。一応、高校生ではあるんだけど、学校にはまだ数えるほどしか行ってない。ここのところ体調が悪化してきて、とうとう一月ほど前から病院のお世話になってる。なかなか不便な体なんだな、これが――」
まるで他人事みたいに話してから、桐絵はちょっと不自然なくらい大きく息をついた。
「――少ししゃべりすぎたみたいだ。呼吸が苦しい」
「無理にしゃべるからでしょ。それにやけに早口だったし」
真花は呆れたように注意した。
「お客さんにさっさと慣れてもらいたいっていう、私の気づかいだろ」
「それで酸欠になってるなら、世話ないでしょ。フユも気にせず、ここに座って。この人はしょっちゅうこんなだから」
「この人とは心外だな。あんたはもうちょっと姉の権威を擁護しようっていう気はないの?」
「そこにいるのの妹なんだから、仕方ないんじゃないかな。それにもうちょっと病人らしくしてくれないと、見舞いに来た人間としては甲斐がないよ」
「いや、立派な病人だって。今朝もひどい立ちくらみでぶっ倒れたし」
「……自分で言うことじゃないでしょ」
二人のそんなやりとりを横目で眺めながら、フユは用意されたイスに座る。何だかそこには、草原の真ん中で花摘みでもしているような穏やかさがあった。子供の遊び部屋にも似た雰囲気があって、人の死を含んだ病気の気配は感じられない。
たぶんそれは、この二人の姉妹が丁寧に積みあげてきた時間の一つ一つによるものなのだろう。
「――そうだ、志条さんて、あの志条夕葵の娘なんだって?」
不意に、桐絵がフユのほうを見て言った。
「……ええ」
フユは簡単に答える。
「てことはだ」
言いながら、桐絵は興奮した様子でベッドの上をごそごそと身動きする。近くの棚から図録のようなものを取りだすと、それを広げてフユの前に示した。
「こういうの、見たことある?」
大判のその本には、奇妙な形をしたガラス細工が載せられている。おそらく、志条夕葵の作品なのだろう。
「見覚えはないわね」
フユは軽く首を振った。そもそも、フユはあまり夕葵の制作物には興味がない。
「まあ、そんなものか」
ちょっとがっかりしたように、桐絵は言う。どこか、流れ星を見逃した子供みたいな様子で。
「――そんなにあの人の作るものが好きなの?」
フユは逆に、そう訊いてみた。
「ああ、そりゃあね」
何故か得意そうに、桐絵はにっこりと笑う。
「子供の頃に初めて見たときから、ずっとファンなんだ。たまたま美術館の展覧会に作品が出されてて、それを見て動けなくなった。世界のスイッチが入ったんだ、その時。部屋の明かりがつけられるみたいにさ。自分でも、はっきりそれがわかった」
桐絵は陶然とした様子で、本に載った写真を指でなぞる。
「それ以来、ずっとこの人の作るものが好きなんだ。木の葉のざわめき、手の平に落ちた雨粒、鳥の瞳に映った光……そんなものが、一瞬の永遠に閉じこめられてしまっている。その一瞬には、自由に手を触れることさえできる、つながっている。そのことが、世界をほんの少しだけ変えてしまうんだ。ほんの少しだけど、確かに。だから私は、この人の作品がすごく好きなんだよ――」
しゃべり終わってから、桐絵はまた大きく息をついた。「――ごめん、ちょっと疲れたみたい」と言って、乱れた呼吸を繰りかえす。酸素の供給が、うまく機能していないのだ。
(そんなものだろうか……)
フユはそんな桐絵を見ながら、特にどう思ったわけでもない。不可解な気分になるわけでも、嫉妬めいた劣情を抱くことも。
ただ――
弓村桐絵が自分とは逆の感想を抱いたのだ、ということだけは理解していた。自分がそのことをから目を背けたのと同じように、彼女はそのことを正面から見つめた。
それがどうしてなのかは、フユにはわからなかったけれど。
桐絵の呼吸が整うのを待ってフユが何か言おうとすると、ちょうどドアをノックする音が響いている。
「――どうぞ」
二人と一瞬目をあわせてから、桐絵は相手に向かって言った。ドアが開くと、白衣を着た男がそこに立っていた。
五十代後半、といったところだろうか。胸元には病院関係者であることを示すプレートがつけられていた。身なりに気を使わない風貌で、顎にはうっすらと髭を生やしている。岩塊を砕いたような顔の線をしていて、小柄だが、動作の一つ一つにきつくネジが締められているようなきびきびしたところがあった。
名札には、心臓血管外科医師『
「――やあ、友達が来てるところ悪いね。ちょっと話があってお邪魔したよ」
鉄を何度も鍛えて硬くしたような声だった。相手を無条件で信頼させてしまうような、そんな。
「でも宮良坂先生、今日は検査とかはないんじゃ?」
真花が不思議そうに言う。どうやらさっき彼女が話していた担当医師というのは、この宮良坂という人物らしかった。
「いや、話があるのは真花ちゃんのほうでね」
宮良坂は他意のなさそうな笑顔を浮かべる。
「手数だけど、外で話せるかな?」
「――わかりました」
一瞬、何かを読みとったように真花はうなずく。宮良坂のほうはあくまで同じ態度を続けていた。
「それじゃあ、私は少し先生と話をしてくるから。しばらく、二人でよろしくね」
真花はそう言って立ちあがると、宮良坂医師といっしょに病室を出ていった。
あとには、フユと桐絵の二人だけが残されている。
「……たぶん、私のことなんだろうね」
桐絵はふと、ため息をつくように言った。蝶の羽が宙を打つような軽さで。
「どういうこと?」
フユはただ、そう訊きかえす。
「気を使われるのも、時々疲れるなって話。まあ、それだけのことなんだけどね」
「…………」
弓村桐絵の心臓には穴が空いている。
心室中隔欠損症、という。元々、心臓というのは成長とともに四つの部分に分かれるのだが、場合によっては心壁がうまく形成されず、穴になって残ってしまう。小さいものなら自然にふさがり、問題にならないことも多い。
桐絵の心臓には文字通り、心室部分に欠損がある。それだけなら手術での根治も可能なのだが、彼女の場合は運悪く、肺高血圧症を併発した。心臓の欠陥によって肺に高い圧力がかかり、細胞が肥大化するのだ。肥大化した肺は、もう元に戻ることはない。治療には心肺同時移植を行うしかなかった。その手術には、かなりの幸運と費用が必要とされる。
アイゼンメンゲル症候群と呼ばれるこの状態自体には、喫緊の処置は要求されない。気をつけていれば、ごく普通の生活を送ることもできる。
ただしそれは、高濃度の酸素ボンベや感染症への十二分の対応があってのことだった。心臓と肺の両方に欠陥を抱えているのだから、生命維持の根幹が常に脅かされているようなものだった。いつどうなっても、おかしくはない。
そのため、弓村桐絵は何かあるたびに入院生活を送ることになる。治療はすべて対症療法で、全面的な回復の見こみはない。一種の延命治療だった。そしてもちろん、彼女はそのことを知っている。
「――自分の体のことだから、少しはわかるんだよね」
桐絵はフユに向かって、つぶやくように言った。そこには悲壮感も、勇壮感もない。ただ事実を確認するだけの、そんな口調だった。
「肺はオンボロ工場で作った欠陥品だし、心臓は中古自動車のエンジンみたいに頼りない。しょっちゅう不整脈やら変な頭痛やら起こすし、そのたびに自分でもうんざりする。こんな故障だらけの体をくれた神様に文句をつけてやりたいけど、どうも神様っていうのはアフターサービスが悪いみたいだからな」
言ってから、桐絵は自分でおかしそうに笑った。
「別にさ、恨んでるってわけじゃないんだ。さすがにちょっと不公平だとは思うけど、恨んでるわけじゃない。両親に真花がいて、私は幸せだ。いじわるな神様にだって感謝したくなるくらい――ただ、時々、夜中に不意に目が覚めたときとかに思うんだ。もしかしたら私は、このまま暗闇に飲まれちゃうんじゃないかって。このまま朝を迎えられずに、今よりずっと悪い場所、それは手をのばせばすぐ届くくらいのところにあるんだけど、そこに落っこちて、戻ってこれないんじゃないかって」
「…………」
「そこに落ちたら、たぶんもう誰にも私を助けられない。長くは生きられないとか、そういうことを言ってるわけじゃないんだ。これでもずいぶん長いこと、そのそばで生きてきたんだから。つまり私が言いたいのは、何というか死さえも救いにならないような場所のこと。この世界にはそういう場所が、きちんと存在してる。すべての意味が失われて、光さえ死んでしまうような場所が――」
砂時計の砂粒がすべて落ちきってしまったような沈黙が、病室を覆った。フユはいつもの表情のない声で、桐絵に訊いた。
「どうして、そんなことを私に話すの?」
桐絵はまるで、ふと風が吹くような自然さで笑って、
「どうしてだろう――」
と、自分でもよくわからないように言った。
「志条さんが、私に少し似ている気がしたから、かな」
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