プロローグ

プロローグ

 灰色の空から、音もなく白く冷たいものが降っていた。

 十二月もはじめで、まだ本格的に雪の積もる季節とはいえない。凍えるような風が吹いても、吐く息の白さに驚いても、街はどこか明るかった。空から落ちてくる雪はただ、これから来る何かをそっと伝えようとしているだけにも思えた。もうすぐ、暗く冷たい時間がやって来る――

 通学路を歩いていた志条芙夕しじょうふゆは、ふと足をとめて空を見あげた。

 朝の登校時間にもかかわらず、あたりにほかの生徒の姿はない。それはフユが、わざとそういう道を選んでいるからだった。車もほとんど通らない住宅地には、何の装飾性もない沈黙だけが横たわっている。

 小さな白い塊が手の平に乗って、水滴だけを残して消えてしまった。いや、雪が消えたわけではない。それは元に戻っただけだ。

 フユは雪が嫌いだった。

 それを見ると、昔のことを思い出すからだ。ずっと昔、小学生の頃に親に捨てられた日のことを。どれだけ時間がたっても、その日のことは忘れられそうにない。

 雪の降る日だった。ストーブの具合が悪くて、六畳もないような狭いアパートがなかなか暖まらなかった。赤い火が変に弱々しくて、まるで寒さに縮こまっているかのようだった。

 その日は珍しく、両親がプレゼントを持って帰ってきた。大きいだけがとりえの、粗雑なクマのぬいぐるみだったが、フユは喜んだ。何しろそんなことは、絶えてなかったことだったのだから。ぬいぐるみを抱えて、フユは幸せだった。神様に感謝しようと思った。この恩は決して忘れません。いつかきっとお返しします、と。

 二人はほかにも、たくさんのごちそうを用意してくれた。ただのファーストフードの類だったが、フユにとっては十分豪華な食事だった。それにいくら食べても、舌打ちされるようなこともない。父親も母親も、終始にこにこしていた。

 そのあとで二人は、散歩に出かけようと言った。寒くて、雪も降っていて、食べたばかりで眠くもあったけれど、フユに嫌とは言えない。こんなにも機嫌の良さそうな両親を怒らせたくなかったから。

 苦しくなるくらいの厚着をさせられると、フユは二人に手をつながれて表に出た。空で掃除でもしているみたいにたくさんの雪が降って、地面にはすでに薄っすらと積もりつつある。風が鉄みたいに冷たかった。

 フユはぬいぐるみを抱えて、手を引かれるままに歩いていった。どこへ行くのかは、訊けなかった。訊けば、この幸せは壊れてしまいそう気がして。

 ずいぶん歩いて、まわりには知らない景色ばかりが広がっていた。塗装の剥げた駐車場のフェンス、お化けがそこに居座っているような自動販売機、空に向かってのびる灰色のマンション――

 やがて人気のない公園にやって来ると、三人はそこに入っていった。雪が一面に白く積もっている。母親はブランコの雪を払うと、そこにフユを座らせた。

 フユは母親にされるまま、やはり何も訊かない。ぬいぐるみを抱えたまま、にこにこ笑っている。

 二人はフユの服を直して、帽子を目深にかぶらせた。そして、その場を去っていく。フユはその光景を、ブランコに座ったまま見送った。そこにいなさい、と言われたから。何故だか父親と母親は最後に、ごめんねと謝っていた。

 フユはじっと、ブランコに座ったままでいた。二人はそこにいるようにと言ったのだ。勝手にいなくなれば、見つけられなくなってしまう。それにいくらブランコをこいだって、寒いだけでその場からは少しも動けはしないのだ。

 雪が、空から音もなく降っていた。フユの帽子や肩に、白い毛布のようにそれが積もっていく。

 このまま雪に埋もれてしまうのも悪くないな、とフユは思った。そうすればきっと両親は心配して、いつもよりずっと優しくしてくれるだろう。もしかしたら、好きな歌をうたっても怒鳴られないかもしれない。部屋の隅でお気に入りの絵本を読んでいても、蹴とばしたりしないかも。それから温かいお風呂につかって、母親のすぐそばで眠らせてもらえるかも。

(それから、それから――)

 フユはぎゅっ、とぬいぐるみを抱きしめている。

 けれど――

 本当は、もうわかっていた。二人が戻ってくることはない。

 私は、捨てられてしまったのだ。ごみ捨て場にごみを捨てるみたいに。いらない子供は公園に一人で置いていかれてしまう。そうしてその子供は、雪に埋もれてそのまま死んでしまうのだ。

 フユは涙を流さなかった。泣いてしまえば、それが本当だと自分で認めてしまうから。自分で認めないうちは、その事実が自分を傷つけることはない。

 のだ。自分のまわりに壁を。何も入ることのできない、何にも壊すことのできない壁を。そうすればずっと、自分は平和でいられる。

 雪はいつのまにか、フユの体に積もるのをやめていた。その少し上、何もない宙空にフユの魔法が作った壁に、それは阻まれていたから。

 どれくらいの時がたっただろう。

 気がつくと、フユの前に誰かが立っていた。フユは驚きも期待もせず、顔をあげる。それがあの二人のどちらでもないことだけは、確かにわかっていた。

 そこに立っていたのは、やはり知らない人物だった。透明のビニール傘を差して、白いコートを着ている。感情のうかがえない、ひどく冷たい目をしていた。まるで絵本に出てくる、雪の女王みたいに。

「……ずいぶん珍しいところに魔法使いの子供がいたものね」

 それは温かみのない、冬の空気そのものみたいな声だった。

「あんた、自分でもわかってるんでしょ? 自分がもう捨てられてたんだって」

 フユは答えずに、けれど目だけはまっすぐにその人を見つめていた。

「それとも、まだつながっているつもり? そのためなら、ここでこうして死んでも構わないとでも? それでつながりを元に戻せるとでも? あんたを捨てた人間は、決して戻ってきたりはしない。つながりはもう断たれた。それを戻すことは、魔法でもできない。少なくともこの不完全な世界の魔法ではね。あんたはとっくに、そのことをわかってるんでしょ?」

 フユはやはり、何も答えない。

「黙っていれば、それを認めなくともすむというわけ? 壁を作ってしまえば、誰も傷つけず、誰にも傷つけられない。あんたはそう言いたいの?」

 フユは何も言わず、けれど目だけはまっすぐにその人のことを見ている。例えどんなことを言われたとしても、自分の前にある壁を破ることはできない、というように。

 その人はため息をつくような、嘲笑うような、そんな表情を浮かべた。そうしてフユに向かって手を差しだしながら、

「あんたは本当に、あたしによく似ている」

 と、憎悪をこめて告げた。

「――――」

 その言葉は、フユの作った壁をするりと越えてしまっていた。だからフユは、のばされたその手をつかんだ。雪よりも冷たいような、その手を。

 フユが志条夕葵の子供になったのは、その時だった。

 その翌日、フユはずっと抱えていたぬいぐるみにマッチで火をつけて燃やしてしまった。黒こげになったその残骸は、ほかのごみといっしょになってごみ捨て場に捨てられている。

 ――志条芙夕が雪の日に思い出すのは、そんなことだった。



 人は、孤独の中で生きていくことはできるのだろうか?

 誰とも交わらず、誰にも触れられず、誰にも理解されず、ただ冷たい雪の下でじっと耐えているようなことが。そこでは一条の光も射さず、マッチ一本分の温もりさえ得ることはできない。荘厳な絵の前で天使が迎えに来ることもない。

 それはきっと、月の裏側にでも生きているような状態だ。

 クレーターで醜く爛れたその場所からは、旅立ったはずの場所を見ることもできない。焦熱の昼と、酷寒の夜を繰りかえすだけでは、夢を見ることさえ叶わない。永遠の煉獄に落とされたように、人はそこで苦しみ続けなくてはならない。

 孤独の風景はきっと、そんなものだ。

 大切なつながりを失ったとき、人はそんな場所で暮らさなければならない。空気も、水も、助けの宇宙船すらなく、地球は帰るどころかその姿を見ることもできない。足にはめられた鎖は、地面にがっしりと食いこんでいる。

 だからもしも――

 もしも、その孤独の風景を抜け出すことができれば。月の裏側から自由になれれば。

 人はどんなことをするのだろう?

 すべてを投げうってでも、例え魔法の力を借りてでも、それをしようとするのだろうか。かつてのつながりを、完全世界を取りもどすために。

 人はきっと、孤独に耐えられるようにはできていない。神様がデザインしたとき、そんなふうには設計していなかったのだ。

 だからすべてのつながりを失ってしまったら――

 孤独の風景に出会ってしまったら――

 人は、それを求めずにはいられないだろう。

 かつてあったはずの、完全世界を。

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