京都の裏路地には哲学がある
イトー
一、『裏路地は人生である』
裏路地研究会。
通称、ウラケン。
京都の伏見にある総合大学に無事入学した俺は、ひょんなことからこの研究会の部室にいた。
古ぼけた窓の外を見ると、空しか見えない。
この部屋は7階なので、当然だ。
古ぼけた窓は古ぼけた学舎にあり、ウラケンは使われていなかったゼミ用の古ぼけた講義室に巣くっているからだ。
「さて、諸君!」と気勢を発したのは、研究会部長の藤崎志織。
会なのに部長、というのは新撰組なのに隊長というのと同じ理屈だという。
そして、諸君なんて言ったけど、彼女の前にいるのは俺と先輩会員の田宮さんだけである。
2人とも2回生なのだが、その上に先輩がいるかどうかが気になるのだ。
「質問です!」
手を上げてみた。
「浦辺君、許可します」
「藤崎志織というのは本名でしょうか?」
「あかん、浦辺君。それはこの研究会最大のタブーや」
田宮さんが小声で忠告してくれたが、この狭い部屋では意味がない。
「浦辺君?とりあえず禿げて死ね」
ぞくぞくするほど冷徹な目で見られた。
『藤崎志織』
この甘美な名前はどこかで聞いたことがある、と思ったのが全ての始まりである。
そんな美少女感あふれる名前を持つ目の前の人は、間違いなく美人だ。
黒髪ポニーテール、切れ長の大きい瞳、スッとした鼻筋に、ちょっとぷっくりした唇で整った顔。
背は高く、胸はほどよく大きい。
真っ白でのりの効いた開襟シャツにジャケット、すらりとしたジーンズを履いて、ちょっとカッコイイ。
田宮さん曰く、藤崎さんの服装に決められたルールはないという。
「私の父は禿げている!なぜかわかる?」
「遺伝でしょうか?」禿げは遺伝すると聞いたことがある。
「私が夜な夜なこっそり抜いてやったからよ!自分の青春時代のゲームの、しかもヒロインの名前を娘につけるとか、それを許す母親とか、ありえん、ありえへんわ!」と力説して、机をばんばんと叩くとポニーテールが可愛く揺れた。
「キレイな名前だと思います」
「あんたの毛もむしるわよ」
キッと睨まれて、背筋がぞくぞくした。
「見事に話の腰を折ってくれたわね」
「のったのは君やけどね」と田宮さん。
「やかましいわ、プラッチックの分際で!」
「ぷ、ぷらっちっくって」
「ひどいやろ、田宮っていうだけで、プラッチック呼ばわりや」
「何よ、ミニ四駆の方がええなら、そう呼んであげる」
「なんでやねん」
「じゃあ、黙ってなさい」
田宮さんはぴたりと黙った。
「さーて、浦辺君。これからお姉さんの言うことをしっかりと聞きなさい」
「俺、まだ入会していません」
「このノートに名前書いた時点で入会なのよ」と言って、藤崎さんは手にしたノートを机に放り投げた。
表紙には『入会届兼会員名簿』とある。
確かに、俺はこれを書いた。
入学式と説明会が終わり、キャンパスの中庭に広がった数々の部活、サークル、同好会やら研究会の勧誘的猛攻をくぐり抜け、あと少しで正門、というところで、この物騒な女性に捕まったわけである。
突然、腕に絡んできておっぱいを押し当てられたら、逃げるに逃げられない。
これが噂のハニートラップか、などと考えているうちに名前と電話番号、学部に学科を書かされたというわけだ。わざわざノートの表紙なんて見るわけない。
それが昨日のことである。
「普通は見学、仮入部、正式に入部じゃないでしょうか?」
「ここは普通とちゃうんや」と田宮さん。
「えーっ!ひどい話ですよ!社会的におかしいですよ」思い切りわざとらしく言ってやった。
「学生が社会のことなんて考えたら、世の中終わりや。他人と迎合しない!それが我がウラケンのモットーであり、信念であり、哲学!」
藤崎さんは不敵な笑みを浮かべた。というか、開き直りだと思う。
「もっともらしい言葉を並べ立てているだけに聞こえます」
「耳が悪いのね、浦辺君。私が耳かきしてあげるわ」
「手に持っているのはボールペンですよね」
「耳通しがよくなるわよ?」と、藤崎さんは首をかしげてニコォと微笑むけど、サイコパスにしか見えない。
「実は君の他に何人か来たんやけど……」と、田宮さんはなぜか残念そうだ。
「よかったじゃないですか」
「このキャラを見て、まともに対応しているのは今のところ君だけや」
「来た人達は帰ったんですか?」
「哲学が分からない人達にはお帰り頂いたのよ」
この人なら3人くらいどこかに埋めていてもおかしくないと思う。
「質問です!」
もう一度、手を上げてみた。
「許可します」
「ここは何をするサークルでしょうか?そして、サークルの規模、将来、就活に役立つかどうかを知りたいです」
「あかんで、浦辺君。それはこの研究会最高のタブーや」
最大と最高の違いを教えて欲しいけど、黙っておいた。
「浦辺君、死に急ぐことなんてないのよ」
藤崎さんが真剣な眼差しで俺を見つめた。
美しい瞳だけど、その奥底はなんだかどろどろしてる気がする。
「いいわ、答えてあげても」
「ぜひ」
「入会したら結果はついてくるの」
「なるほど、では失礼いたします」と席を立った。
驚くほど素早い動きで、田宮さんがドアの前に立ちはだかった。
「あの……」
「浦辺君、考えてもみたまえい。大学に入ったらみーんな、考えることは同じなんや。服をおしゃれにして、髪型を変え、眼鏡をコンタクトにして、異性にモテたい、できれば童貞を卒業したい、と思うわけや。しかしなぁ、悲しいことに、そんな恩恵にあずかれるんはごく一部や」
「はぁ」
童貞というころがひっかかる。
「しかしや、まあ、耳を貸したまえ」と田宮さんが手招きをしたので、ついと耳を貸した。
「部長のあの美貌とあの性格、男は近寄りがたいが、女にはモテる。今年のバレンタイン、なんぼほどチョコを貰ったと思う?100個近くはあったんやで」
「……マジですか?」
「マジや、大マジや」と田宮さんは俺の肩に腕をまわした。
それは恐れ入る話である。
「それで…」
「うまいことすれば、おこぼれにあずかれるってわけや。それだけでここにいる価値はあると思わんか?」
「田宮さんはうまくいったんですか?」
田宮さんはにやりと笑って、親指を立てた。
「で、おこぼれがどうしたって?」
いつの間にか近づいてきた藤崎さんは、顔をひくつかせると、片手で田宮さんの顔を鷲づかんだ。
ふげふっと訳の分からない声を出して田宮さんがもがく。
「自分、かわいい後輩に手を出したんか?」
彼女に手の甲に青筋が立っているのが見えた。
というか、こんな細腕にどれほどの力があるっていうんだ?
「ひぇ、そんなほほはありまへん。ひゅんふいにふきふぁっくまふ」
もごもご言う田宮さんの命運は…。
「ファックしたてなんやぁっ!」
藤崎さんは田宮さんを放り投げた。
それは、文字通り、放り投げたと言ってよいだろう。俺は人がいとも簡単に宙を舞うところを初めて見た。
田宮さんは長机に落下して、そのまま滑って反対側に派手な音を立てて転がり落ちた。
「フンッ、アホにはつきあってられんわ」
あわわっとマンガのような声が頭の中で響く。
「さぁて、浦辺くん?」と俺を冷徹な目で見つめた。
次はあなたの番よ、とでも言うように小首をかしげて、にやぁと笑う藤崎さんに、俺みたいな小心者が敵うはずもない。
「ニュ、ニュウカイサセテイタダキマス」
こうして俺は、裏路地研究会、通称ウラケンの会員(とりあえず)となったのだ。
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