最終話

そして、事件が終結した一週間後。作延好道と作延美世は転校した。

 妹も転校する必要があったのかどうかはわからないが、おそらく奥苗たちの知ることのない話し合いの末にそういう結論に達したのだろう。

 被害にあった女子生徒には誰が犯人だったのか伝えることができなかった。伝えたとしても喜ぶ人間がいないことは明白だったからだ。ただ、同じ事件がこれ以上起きないことは彼女たちに断言した。もしかしたら、作延好道が転校したことを知った何名かは事件の真相を察したかもしれないが。

 今福誠治には直接誤解が解けたことを伝えた。本人はひどく喜んでいた。なぜいつも五階のトイレにいるのか訊ねたら、教室に入るのが怖いからだそうだ。どうして落ちていた下着を本人に届けたのかという問いに対しての答えは、トイレを綺麗に保ちたいという思いと、クラスメイトに少しでも喜ばれたいという思いから落とし物を届けたということらしかった。行動はメチャクチャだが、その行為の動機となっていた部分は純粋な気持ちだった。今福はそれから何度か相談部に来ている。比空と話し合って、どうやったらクラスに馴染めるか作戦を練っている。

 神王院姫耶にだけは、誰がガーターベルトを届けたのか、誰にも言わない約束をして教えた。彼女は被害にあったと思っていないから、誰かに作延好道のことを触れ回ることもないだろう。神王院姫耶は作延好道に感謝の手紙を書いたらしい。何について感謝をしたのかは始めわからなかったが、神王院姫耶がガーターベルトを履いているらしいということを比空が言っていたので、もしかしたら下着を気に入ったのかもしれない。

 事件があったことは、数人の記憶の中に今も刻み込まれているが、高校生活はそんなことに構わずに、どんどん突き進んでいく。

 そして、夏の暑い日。奥苗春希と比空望実は屋上に出ていた。囲っている柵に寄りかかって空を眺めている。

 風が吹く。夏の空気が肌を撫でる。輪郭のくっきりとした雲が浮かんでいる。

 事件が終わって一週間。奥苗もようやく自分の中の感情と向き合うことができた。

「なあ、比空。おれ、事件が終わってからずっと考えてることがあんだけどいいか?」

 奥苗は横にいる比空を見る。

「いいよ。話してごらん」

 奥苗は比空から視線を外す。本人を直視して言うのは恥ずかしくて難しい。

「あのさ。作延が言ってただろ。なんで比空のためにそこまで怒るのかって。おれずっと考えてたんだ」

 比空は黙っている。

「おれ。正直言うと比空が見ず知らずに他人のために努力すんの、すげー嫌だった。なんでかわかんねーけど、苛々した。その理由をな。考えてみたんだよ」

 自分の気持ちに向かい合うということは、奥苗の想像以上に難しく、そして恥ずかしい作業だった。

「でだな。比空が他人のために努力するときに、損をする人間がいるのが嫌だったんだってことがわかった。それでな。その損をする人間ってのはな、おれじゃないんだ。そう。おれじゃねーんだよ。それはな。比空自身なんだよ」

 比空が他人のために何かをすれば、損をするとしたら比空自身だ。

「んでな。おれはそれがすっげー嫌だった。比空が誰かのために傷ついて、誰かのために損をするのが嫌だったんだ。おれはな比空。比空にずっと笑って欲しかったんだ。そんでな、こんなこと言ったらまた比空怒るかもしんねーけど、他人が傷ついても、他人が損をしても、比空が笑って、得をしてたらそれでいいとか思っちゃうんだ」

 比空には悩みも、思い煩いも、辛いことも、苦しいことも、何も知らずに生きていて欲しかった。奥苗春希の自分勝手な願望。幻想のような理想。

「だから、そうなんだよ。おれが辛いことや大変なこと全部引き受けて、比空にはただ笑って欲しかったんだ」

 なぜ自分が相談部の部員のところに名前を書いたのか、ようやくわかった。比空の負担を全部自分が代わってやりたかったのだ。

 これが奥苗春希の素直な気持ちだった。

 奥苗はちらりと横を見る。比空はどんな顔をしているのだろうか。驚いているのだろうか、それとも困っているだろうか。比空を困らせたくはなかった。

 比空望実は大きなため息をついた。

「はああ」

「な、なんだ?」

 言わないほうがよかったのかと少し後悔した。

 比空は残念そうに、それでいて悔しそうに奥苗を見る。

「まさか先を越されるとはね」

「なにがだよ?」

「どうなんだろう。こういうのは後から言う方が恥ずかしいのかな?」

「おい。意味がわからねーぞ」

「なら、わたしも長々と語ろうかなということだよ」

 比空は頬を赤く染めて笑った。視線がきょりょきょろと動く。

「わたしはね。わたしはいつも奥苗とかに守られているのが恥ずかしかったの。誰かにいつも心配されて、誰かにいつも助けられている自分と決別したかった。だから、だから相談部をつくったの」

 そうだったのか。

「でね。その相談部をしている中で気づいたの。わたしは、他人に何かをすることが当たり前になって、他人に何かをされることには常に感謝ができるようになりたかった。それでね。今さらって感じなんだけど。わたしは、奥苗がいつも一緒にいてくれることが当たり前になってたの。奥苗がいるから、わたしは見ず知らずの人にも優しくしようと思えたわけで……それで、だから、わたしは奥苗ならいつも側にいてくれると思って部活の紙を出す前に申込用紙を奥苗に渡して、えっと、それは、その……あー、もう上手く説明できない」

 比空は頭を抱えた。

「つまり。わたしは奥苗春希のことが好き、みたい」

 比空の顔が徐々に赤くなる。まるで自分の言葉に自分で照れているかのようだ。

 奥苗は瞬間的に固まる。

「ひ、比空はいつも唐突だな」

「そ、そういうのも、いいんじゃないかと」

「そ、そうか」

 奥苗は自分の頭をがしがしと掻いた。

 心臓がばくばくしている。

 つまりはこういうことなのだ。奥苗春希は比空望実のことが好きで、比空望実も奥苗春希のことが好きなのだ。こんなに嬉しいことがこの世にあるのだろうか。身体の奥から抑えきれない感情が溢れてくる。

「えーと、どうすればいいんだろうな」

「どうなんだろうね。とりあえずお弁当とかつくっとく?」

「そういうもんなのか?」

「き、きっとね。おもしろい感じでやってみるよ」

「おお。楽しみだな」

 二人の挙動はぎくしゃくとしたものだった。

 不意に比空は黙り込む。

「どした?」

 顎に手をあてて、比空は少し首を捻る。

「いや、これってつまりは男女交際をするってことになるんだよね?」

 さっきからずっと比空の顔は真っ赤だ。

「お、おう。そうみたいだしな」

「どうしよう。お母さんに言ったらなんて言われるんだろうな」

「おい。やめろ。うちの親にばれたらからかわれ続ける」

「嫁姑問題?」

「違う。からかわれるのはおれだ」

「とりあえず今日の帰りうちに挨拶にくる?」

「なんでだよ? いきなりそういう話になるのか?」

「いや、だって、今まで家族ぐるみで仲良かったんだし、今さら、ね。言わないほうがおかしくない?」

「そ、そうかもしんねーけど」

「と、とりあえず」比空は右手を差し出した。「よろしくお願いします」

 奥苗は比空の小さくて細い手をじっと見る。

 子どものころは何度も繋いだ手だ。けれど、あの時と今とでは比空に対して抱く感情が異なっている。

「お、おう」

 奥苗は比空の手を握った。

 比空の体温が肌から伝わってくる。

 目が合う。

 いつも顔を見合わせていたはずだったのに、なぜが無性に嬉しくて、恥ずかしかった。

「そうか。うん。それじゃあ、使うときがくるかもね」

「なにがだ?」

「もし奥苗が浮気なんかしたら、わたしすぐにパンツ被るから」

「お、おう。そういうのも恋人同士ならありなんだな」

 不意に頭に浮かんだ映像は、なんとも奇妙なものだったが、それでも比空と一緒なら笑い合ってやっていけそうだった。

 手に汗が滲む。それでも繋ぐ手を離したくなくて、二人はそのまま空を仰いだ。

 青い空がどこまでも広がっている。奥苗たちを包み込むようにどこまでもどこまでも。

 隣を見る。そこにははにかんだ比空の笑顔があった。

 比空が笑っている。

 自分の隣で比空が喜んでいる。

 そのことが嬉しくて嬉しくて、どうしようもなく幸せだった。

 世界が唐突に色を変えた。



       <了>

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探偵は助手にパンツを被せる 山橋和弥 @ASABANMAKURU

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