第13話

一週間が経過した。連続すると思われた下着切り裂き事件も影をひそめたようで、それから事件は進展していないようだった。もっとも、比空と行動を共にしていない奥苗には推測することしかできなかったが。

 比空は疑っていた久住佑を念入りに調べているようだった。久住の動向を観察したり、久住について他の生徒に意見を訊いたりしていた。

 そして、再び奥苗たちのクラスのプールの授業の日になった。二週間に一度行われる授業。あと夏休みまでに数回しかないとみんな知っているので、自然と熱が入った授業になる。

 この日、事件は起こった。

 ブルマ、縦縞に続いて三件目の下着が切られた被害者が現れた。

 それは頭の片隅で予期していたことだった。そうならないことを願っていた。

 けれど、奥苗の願いは叶わなかった。

 後悔の念が奥苗の心を押しつぶそうとする。

 あの時、自分の感情に身を任せずに冷静に判断していたら。それとも強引に説得することができたなら。そうではなくても、いつも側にいて守ることができていたなら。

 沢山の、もし、が表れるが、そのどれもが取り返しのつかないことであることを自覚するたびに無力感が身体の力を奪おうとする。

 三件目の被害者は、比空望実だった。

 プールの授業が終わったあと二年三組の教室で点呼を取って、その日の授業は全て終わる。着替え終わった生徒たちが髪に残る水気をタオルで拭き取っている中で、比空望実の席だけが空いていた。

 担任は顔をしかめて空席を眺める。

「比空望実はなにしてんだ?」

 幾人かの生徒が顔を見合わせて小声で会話をしている。女生徒の一人が手を挙げた。

「着替えに時間がかかっているみたいでした」

 担任は嘆息する。

「なにやってんのかね。全員が揃うまでは帰れないからな」

 不満の声を漏らす生徒が数人。その不満の声を静寂に変換するように教室の後ろの扉が開いた。視線が集中する。

 比空望実が立っていた。

 息を飲む。

 彼女の姿を見て奥苗は思わず立ち上がった。椅子が地面を擦る音に幾つかの目が奥苗の方にも向けられる。

 担任は比空の頭の先からつま先まで視線を動かしたあと、怪訝な顔で訊ねる。

「どうした?」

 その問いに、比空は淡々と答えた。

「着替える時間がなかったので、あとで着替えます」

 比空望実は水着姿のままだった。肩にタオルをかけて、手に膨れた鞄を提げている姿は、制服に着替え終わった生徒たちの中で完全に浮いていた。

 担任はなおも質問を重ねようとするが、比空はそれ以上の問いを受けつけない態度をとった。担任は口をつぐむ。

 生徒がざわめく。その中で、比空はまっすぐと前を向いていた。水着姿で、肩にタオルをかけた姿で、何かに耐えるように、何かを堪えるように一点を見据えていた。

 比空はなかなか教室の中に入ってこようとしなかった。

「わかった。とりあえず全員集合してるな。じゃあ、今日はこれで解散だ。比空はちゃんと着替えるんだぞ」

 担任の声を合図に幾人かの生徒は立ち上がる。

 立ち尽くしていた奥苗は比空の鞄を見る。プール用の鞄の中に何が入っているかはわからないが、比空が何かを隠していることはわかった。

 何があったんだよ。

 奥苗は地面を強く踏んで駆け出す。比空の手を取って廊下を走り、そのまま相談部の部室の中に駆け込んだ。扉を閉めて、誰も入ってこれないようにする。

 奥苗は体重を扉に預けて息を整える。

「おい、なにがあったんだよ」

 少し間を置いて比空は答える。

「たいしたことはなかったよ」

「嘘つくなよ」

 奥苗は比空を見据える。

「……手」

「は? なに言ってんだ?」

「手を離してよ」

 そこでようやく奥苗は自分が比空の手をずっと握っていたことに気づいた。慌てて手を離す。

「悪い。気づかなかった」

「いいよ。べつに」比空の声は明らかに元気がなかった。

 比空はとぼとぼと歩いてソファーに腰掛ける。

「制服、どうしたんだよ」

「……着替える時間がなかったの」

 比空はじっと膝の上に置いている鞄を見ている。

「制服、出せよ」

「なに? 変態?」

 比空は笑ったが、その笑顔はぎこちなかった。形だけの笑顔。

「鞄、開けろよ」

 比空は返事をせず黙ってる。

「何もなかったんなら開けられるだろ」

 沈黙が続く。奥苗は比空の次の行動を待ち続けた。

 比空の手がゆっくりと動き、鞄を開ける。

 中を見て、奥苗の思考は停止した。

 何も考えられなくなった。

 目の前の状況にどのように反応すればいいのかわからない。

 自分の目の前の状況を視認しているはずなのに理解ができなくなってくる。

 自分が何をしているのかすら漠然としてきた。

 空白となった思考にまず驚きが宿り、その後、驚きを吹き飛ばすように怒りが燃え立った。

「なんだよ、それ」

 鞄の中身。そこに収められていたのは切り刻まれた比空望実の制服だった。

「あはは。大丈夫大丈夫。大したことじゃないよ」

 比空の乾いた笑い声が虚しく室内に響く。

「どういうことだよ」奥苗の声は低く、重たかった。

「ああ、なんかね。こういうことらしいよ」

 比空は鞄の中から一枚の紙を取り出す。それは綾瀬真麻が出した紙と同じ種類のようだった。羊皮紙のような、少し高級感がある紙。そこにはこう書かれていた。

 無駄な行動はやめろ。相談部がどうなってもいいのか?

「どうなんだろう。これは脅されたってことなのかな?」

 相変わらず比空は今にも泣き出しそうな顔で無理矢理笑顔をつくっている。

 奥苗はかけるべき言葉を見つけられない。胸が苦しくて、それに伴って怒りが膨れあがっていた。

「あとね。この紙もあった」

 同じ材質の紙がもう一枚。そこには、ウェセックス陥落、二度と復興することなかれ、と明朝体でプリントされた文字が並んでいた。

 ウェセックス。純白のパンツを表す隠語。

 奥苗は文字から目を上げて比空を見る。

「でも、よかった。他の人じゃなくてわたしでさ」比空は鞄の中から切り刻まれ、布きれと成り果てた白い下着を取り出した。「これじゃあ、被ることもできないね。残念。わたしの能力がつかえない」

 細切れに切り刻まれた制服と下着。なぜこうも念入りに下着が切られなければならなかったのか。なぜ制服まで切られなければならなかったのか。奥苗は最初に比空が出した紙を見る。典型的な脅し文句。

 比空を怖がらせ、これ以上犯人捜しをさせないようにしているんだ。

 比空が下着を切った犯人を見つけようとしたことによる代償。

 けど、なんでここまでされなきゃいけないんだ。

 奥苗は手をきつく握りしめる。爪が肌に食い込んでいく。

 比空はただ、他人のために何かがしたいと願っただけなのに、それなのに。

「どうなんだろう。わたしってやっぱり役にたててないのかな。わたし一人で犯人見つけるとか言っといて、結局被害者は増えてるし」比空は力なく笑う。「奥苗が怒ったあと、一人被害にあった子増えてるんだ。紐パンの子なんだけど。その子も下着は捨てちゃったし、水泳部の子なんだけど、部活やってた時間だから誰が取ったかわからないって言うし。わたし全く力になれなくて……ただ、話を聞いて頷いてるだけで」

 比空の声は震えていた。

 途切れ途切れの言葉の連なりは、比空の感情に呼応するようにぐちゃぐちゃだった。

 そうか。もう一人増えていたんだ。奥苗の知らないところで、比空は無力感やふがいなさと戦っていた。比空が悪いんじゃない。全部下着を切ったやつが悪いんだ。比空が自分を責める必要なんて全くない。

 犯人を許せなかった。犯人に行動を起こさせる隙を与えてしまった自分自身も許せなかった。

「比空、悪かった」

「どうしたの?」

 強がっているように見える。比空の笑顔は今にも崩れそうだった。

 教師に言うという選択肢はもう頭の中になかった。比空が被害者として教師たちに囲まれて、尋問のように質問を投げられる状況を許すことはできない。教師たちに比空を守る役をやらせるわけにもいかない。

「おれが、犯人見つけてやるよ」

 比空は目を丸くする。

 犯人を見つけて、一発殴らないと気が済まなかった。

「だから、お前はもう何にも心配すんな。一人で頑張るな。お前を傷つけるやつは、おれが絶対許さねーよ」

 比空は下を向く。鼻をすする音。

「はは。台詞がくさいね」比空はくすくす笑った。

「ちゃ、茶化してんじゃねーよ」

 顔を上げた比空の目は赤かった。頬には涙の跡が残っている。

「うん。ごめん」比空は目を軽くこすった。「ありがとう」

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