毒の沼底に沈む光をそこに見た 07
空虚な目で空を見上げ、ぴくりとも動かないフォルトの肩をアイビスがゆっくりと抱く。幼い子供にするように背中をぽんぽんと叩きながら、反対の手で地面に柄までめり込んだ、天剣を握る彼の手を指一本ずつゆっくりと外す。どこか儀式めいていて滑稽な二人のやり取りは、最後にアイビスがフォルトを抱き締める事で終わった。
「ねえ、鼓動が聞こえる?僕達の鼓動が」
とくり、とくりと、動物たちさえ息を潜めるこの場に相応しい穏やかな心音が、お互いの身体に伝わる。
「僕は生きている。君も、生きている――――そして、僕達は魂の海に還った――」
僕達、その言葉の意味するところにフォルトの目が見開かれる。
「あれを、あれらを僕達と、貴女は呼ぶのですか……」
「すまない。僕の力は不躾で無慈悲で残酷なの。幾度もそのせいで人を傷付けてきた。わかってたんだ。だから人と――特に軍人達と戦場に出ることは極力避けてきた。最初の頃に大人数連れて歩いて、戦場で殺し殺された死者達に囲まれてみな発狂しかけた。自分の親友を殺した敵国の兵が、蘇って自分の隣で剣を振るい同じ鎧を着た敵国の兵を斃すんだ。たたでさえ戦争と言う異常な状態で、さらに異常が重なってくるんだから仕様が無いの」
アイビスが哀しそうに笑う。切り札として戦場に投下される異常な厄災。それが彼女と言う存在なのだと、自身が一番良くわかっている顔だった。
「だけど、我侭かな――フォルトは、狂わないで。まだ、狂わないでほしいの」
ぎゅっと抱き締められるとアイビスが少しだけ震えて、緊張しているのが伝わってきた。その温かさに勝手に涙が溢れ、鼻をくすぐる甘い冥界の匂いで我に返る。
その全てが、フォルトには嬉しかった――自分が、自分として必要とされている。
捨て石のように戦場に配置される軍人としてではなく、一人の女性を守る騎士として必要とされている。
その相手が、死者の国の女王であったとしても、フォルトは幸せだった。
だからこそ、そのためにもフォルトは決意する必要があった。
「ええアイビス妃、大丈夫ですよ。だって、私はあなたの騎士なのですから」
彼女に仕える以上、死者との繋がりは連綿と途切れることはない。だからこそ、この思いを断ち切る必要があった。
湧き水のように尽きない真新しい殺意を、錆付く鉄屑のように劣化させねばならない。そうしなければすぐに先ほどのように、発狂の一歩手前まで精神が歪んでしまう。
それでは、主を守る事など出来ない。
凄まじい葛藤の中で揺れる瞳を、真っ直ぐにアイビスが覗きこむ。万華鏡の瞳に映り込む数え切れない自分。刻一刻と自分の心が揺れ動いているのが、極小に散る自らの顔でわかる。
躊躇うように何度も開閉していた唇が、やがて言葉を発した。
「ここは、昔バーリオル家の領地だったんです」
草の海を見渡しながらフォルトが口を開く。
「私の能力は家に連なるものです。生まれた時から十バレルの砂鉄を引き寄せ、その砂鉄を地中に潜らせてまるで伴侶のように一生を過ごす。地上に表出させるのに時間がかかり、しかも表出した砂鉄で生成できる鉄塊の形状と強度が安定しないので戦う能力としては足り得ませんでした。その代わり、農耕の領域では非常に有用だと重宝されていたんです。なにせ私達が歩き回るだけで、足の下の土壌が砂鉄に寄って引っ掻き回されて柔らかくなり、ミミズや土壌菌が土を肥やし易くなるのですから。だから広大な農地を与えられ、農民達を治める役目を与えられていました。自分達の能力で土壌を豊かにし、その土の上で農民は飢えを知らない生活を送る。非常に良い関係でもって、バーリオル家の領地は栄えました」
冷たく湿った風が葦の海に青い波を立て、フォルトの髪をあおる。この草の海には沢山の骸が今は眠っている。アイビスが片眉を上げた。
「襲われたの?」
「――一瞬だった。豊かな土地です、狙われることもある。少なくともそう思って父は備えていたようだった……だが易々とその構えは突破されてしまいました。民は殺され、作物は荒され、備蓄は盗まれ、国は大きな損害を被りました」
「国の事なんてどうでもいいの」
アイビスが不意に距離を詰めてきた。長い睫がフォルトの瞳に刺さりそうな距離だ。
「君の家族は?」
ぐっと心臓に手を押し当てて、ゆっくりとフォルトは息を吐くと言葉を続ける。
「……父は斬首され、首は敵国に持ち帰られ帰ってきませんでした…………母と妹は……広場に引きずり出されて散々嬲られて最後に殺されました。先ほどの兵士達に突かれながら、心臓を刺し貫かれて」
「フォルトは?」
アイビスの瞳は、こんな話の中でまったく曇らず、歪まず、不思議なほど綺麗で真っ直ぐだった。
「私は口の中が腫れて喋れなくなるまで殴られて、その口から血が止め処なく垂れ落ちるまで身体を蹴られました。それから、家族が殺されるのをずっと鑑賞させられました。そう、あいつらは鑑賞しろと言ったんです。目を開けていないと、目を潰すと言われました……恐ろしくて、私は目の前で繰り広げられる筆舌に尽くし難い行為を、瞬きもせずに見続けました」
フォルトはアイビスの手を取って、軍服の襟の隙間から自分のうなじに触れさせた。
「これ、わかりますか?」
そこには、ぎざぎざとした不格好な傷痕がある。
「最後に私も、首を切り落とされそうになったんです。でも、生き延びてしまいました。鋸みたいな刃の剣で、ゴリゴリと自分の首を落とそうとする音と振動と痛みを感じた瞬間に、私は変わった」
言葉と同時に、地中から無数の鉄壁が轟音と共に突き出し二人の周囲を覆った。アイビスの傷口を辿る細い指をそっとフォルトが外す。
「ヴァローナの地が大きく揺れました。まるで大地が怒りに、いや恐怖に震えるように一斉にです。気付けば地中に散り散りになっていた、父と、母と、妹がそれまで連れ添っていた砂鉄が、全て自分の支配下になっていました。そう認識した時には、周りの敵兵は全員地面から生えた鉄の柱に串刺しになっていたんです。形成速度も硬度も――砂鉄操作の能力自体が桁違いに進化していました」
「それで」
「逃げました。私は周りの敵兵を手当たり次第に鉄の杭で串刺しにしたり、鉄の壁で圧殺したり、鉄球で潰したり撲殺したりしながら、逃げました。片足が折れていて、遅々として歩みは進みませんでしたが、開花した圧倒的な力が私を守ってくれたのです――――意識がまともに戻った時には首都からの応援部隊に介抱されていて、バーリオル家の領地が、淀んだ湿地帯に変わり果ててしまったことを聞かされました。私の、能力の進化は同時に暴走でもあった。ヴァローナ一帯の地中の鉄分が振動して、地質を変質させてしまったのです」
鉄の壁が沈んで行く。フォルトは沼と浮島が点在する深緑の大地を見渡す。
「ここは元々小麦畑でした。収穫の時期になると黄金の穂が風にそよいで本当に綺麗だった!その素晴らしい土地を台無しにした私――いえ、バーリオル家にはそれ相応の罰が与えられました。領地は没収され、貴族としての地位も大きく降格された。お情けで買い手の付かなかった中古の屋敷を下賜され、私は唯一残ったバーリオル家の当主として一人生き恥をさらすことになりました。そんな自分を、たまたま遠くの町に買い物に行っていて、偶然生き残ったばあやだけが見捨てないでいてくれました。嘲笑と侮蔑に晒されながら、淡々と蜘蛛の巣の張った屋敷の世話をするばあやを見て、私はせめて、その汚名を雪ごうと決意し、軍に入隊しました」
フォルトは軍服に留められた勲章を指で撫でる。
「何でも良かったんです。大抵の人は地位と栄誉の上っ面しか見ない。だからこれが欲しかった」
「それで、フォルトは満足したのか?」
「ええ――満足したつもりになっていました、今日までは。家族を殺したあいつらを目にするまでは」
アイビスに向かい合いフォルトはその手を取って跪いた。
「私に、騎士としての誇りはありません。貴族としての高潔さももうありません。醜くこびり付いた劣等感と憎悪、そんな愚にも付かない感情に突き動かされるだけの、獣のような心だけが私の中に残っていると気付かされました――それではいけないとも、気付かされました」
その手にそっと口づけをする。
「私は、貴女の本当の騎士になりたい」
心からの願いだった。フォルトの真摯な瞳がアイビスを貫く。
「過去に固執して、追い求め、振り回される。こんな精神で貴女をどう守れましょうか、私はそんな自分から脱却しなければならないのです」
「……ここは、そんな君にとって試練の地。全てを失ったこの場所で、フォルト、君は勝てるの?」
「もう一度、戦わせてください。そして、証明させてください。貴女が信頼に値する騎士であると言う事を!」
見上げるとアイビスの瞳に自分の顔が無数に映っている。
そのすべてが、自分の対峙すべき心の持ち様に思えて、フォルトは目を逸らしそうに自分を叱咤し、ぐっとその沢山の視線を受け止めた。
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