毒の沼底に沈む光をそこに見た 05
そして、今日ほどドレスなどと言う腹の足しにもならないものの存在にフォルトが感謝した事もなかった。
「こちらが、ご依頼の品です」
沈黙の果てに辿り着いたアニコトは都会的な空気など微塵も無い村だったので、どんな珍妙なドレスが出てくるのかとフォルトは身構えたが、目の前に広げられたその意匠は素晴らしく、アイビスとフォルトの口から同時に感嘆の声が漏れた。
宵闇の空のように、青から紺紫へグラデーションのかかった絹が幾重にも重なり、流麗な曲線を描いて蕾のような形のスカートを織り上げている。端々から覗く銀の絹糸で編まれたレースは柔らかく艶があり、無数の妖精が羽根を休めているかのようだ。
「こんなにすべらかな布地、初めて触るの」
アイビスはここでもおっかなびっくりドレスを手に取り、その軽さと手触りに目を丸くした。先ほどまでの気まずい沈黙は霧散し、嬉しそうにレースの細かな模様や、絹のドレスのラインをしきりに指でなぞっている。
「どうだ、僕に似合うの?」
服を当てて期待に満ちた目で見られれば「よくお似合いですよ」と男が言うのは当然だろう。だがアイビスはそんな社交辞令的な褒め言葉にも頬を赤くして喜んでいる。
「そうか……似合うか」
ふくよかな胸の上でぎゅっとドレスを抱き締め、皺になってはいけないと慌てて手を離しドレスを取り落とす。前回の髪飾りの時といい、精彩を欠くアイビスの挙動に思わずフォルトは笑ってしまった。
「――フォルトは、不思議だな」
アイビスが困ったような、気の抜けたような、不思議な顔をしてる。
「そうでしょうか?至って自然ですが」
「それがなの。僕の前でそんなに普通に笑う人、初めてなの。侍女も、大臣も、王さえも、誰もが僕の前では硬く心を閉ざすよ。嘘みたいな笑い方ばかりなの」
口角を引き上げて、人形地味た微笑をつくってアイビスはおどける。
「僕は、生者に直接害を為すことはできない。だけど何故だろう。みんな、僕に触られる事すら厭うの」
そっと長く細い手を誰もいない空に伸ばす。ふわりと甘い腐りかけた果実の香り。
「だから、僕はダンスさえ碌に踊れない」
きゅっと宙で握り締められた手に、フォルトが自らの手を添えた。
「私で良ければ、いつでもお相手になりますよ。一応昔は家でダンスパーティを開いたりしていたので、それなりの手解きは受けています。ただ、その硬いブーツをお履きでない時であればですが」
「……本当に君は、不思議なの。ゴイルのことも聞いているんでしょう?僕が怖くないの?」
「どうでしょう?怖いにも色々ありますから。ただ一つ言えるのは、貴女の騎士になったことで私は宿願を叶える事が出来たのです。それで、私の人生は一区切りついてしまったんです。だからきっと今は、少し燃え尽き症候群になっているんですよ」
「捨て鉢なの?」
「殊更に死にたいなどと勿論思ってはいませんよ。死んでもこのままだと死に切れなさそうですし」
貴方の傍では、と悪戯めいて言えばアイビスはまた困ったような、油断しているような曖昧で不思議な顔をする。
こうして一瞬の仲違いはすぐに解消され、二人は準備を整えるとヴァローナに潜む敵を求めてまた出発した。
モワノーでの快勝もあって、この戦いも直ぐに死者の物量で方が付くと二人は思っていた。いや、フォルトだけに焦点を置いて言えば、ヴァローナに対する厭忌が強すぎて、そうあって欲しいと言う願望交じりの予測だった事は否めない。
それが災いしてか、死者の眠る緑深き湿地は、容赦なく二人に牙を剥いた。
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