毒の沼底に沈む光をそこに見た 02
腐り姫、というのが私が仕える主の二つ名だ。姫ではなく正確には妃なのだが、腐敗皇后とか屍妃とか、語呂が悪かったのか定着せず、また過去に崩御された“戦姫”と対比するような形で結局世間は腐り姫に落ち着いたようだった。理由は何にしても酷い呼び名だと思うが。
腐り姫との戦場では、私の役目は彼女を守ることに終始する。何故私一人が彼女の騎士に選ばれたのかは不明だが、以前に隊を護衛につけて惨憺たる結果となったため、百人力と揶揄される私を文字通り剣士百人分と見做したのかもしれない。光栄だが馬鹿らしい話でもある。
魔術や能力を駆使してハイブリッドに戦う軍人が増えている中、私は剣の腕のみを研鑽する剣士で、現在の軍属の中では古典派などと呼ばれている。何でもかんでもカテゴライズしなければ接し方も決めきれない最近の軍人の軟弱さも嘆かわしいが、自分のスタンスに埃を被ったようなところがあるのも否定できない。
だからこそ、忌み嫌われていようとも勅命があれば死者に傅かれた王妃を全力で守ろうと思うし、実際二年以上彼女と接してきて良い意味で自分の中の誤解はなくなりつつあった。
アイビス妃は万能ではない。死者を操ろうとも自分自身が不死というわけではないし、死者自体も盲目に彼女に従ってくれる訳ではない。だからこそ、戦場で唯一自軍の勝利の為に最善を尽くそうと動く自分の存在は必要不可欠なのだ。
今日の戦場であるスポルコ塚は地形が複雑で高低差が多く、自軍の要であるアイビス妃の守りに苦慮していた。普段であれば彼女の傍から離れずに近づく敵を撃退するのだが、やたらと中距離からの弓矢や投擲による攻撃が止まず、死者達にその攻撃地点を潰すよう指示を出そうにも地形が読みきれないので、空回りばかりが続いていた。
「しょうがない、一旦私が遊撃に移ります。身を守ることに専念してください」
アイビス妃は戦術や戦略に関しても全くの素人なので、私の判断には基本的に素直に従ってくれる。彼女は死者達を周りに固めて頷いた。それを確認して私は駆け出す。
こちらが地の利の悪い低地側にいるせいでよく相手が見えないので、大周りをして当たりをつけていた自軍から一番近い高台に裏から登る。死者が徘徊しそこかしこで戦闘が行われているせいで、すでに相手の陣形は崩れているので易々と高台に侵入することができた。見晴しの良い位置に弓兵とカタパルトが確認できる。やはりここか。
私はその時焦っていた。彼らは的確にアイビス妃のいる位置を狙っている。一秒でも早く彼らを倒さねばならない。統率の取れない死者の軍団は個の守りに大してはそこまで効果は無い。腐り姫に入れ込んでいる死者も偶にいるが、ここにはそこまで長い付き合いの死者は残念ながらいなかった。
剣を握り、一足飛びに敵兵の方へ走り出る。奇襲に慄く彼らの内、まずカタパルトを操作していた兵隊を切り捨てる。そのままもたついている弓兵の腕を落とし、喉をとどめとばかりに突き刺した。
荒く息をつきながら剣を弓兵の身体から抜く。高台から見下ろすと案の定、崩壊しかけた死者の砦で身を守るアイビス妃の姿があった。
日光を剣で反射させて狙撃手を討った合図を送る。それに気付いたアイビスが手を振った。
これで一安心か、後は死者の戦士達で物量にまかせて敵陣を荒らし続ければ直に降伏の通知が来るだろう。
アイビス妃の傍に戻ろうと振り返った時、
目の前に、兵士の剣が迫っていた。
愛する人の顔がフラッシュバックする。
衝撃、視界がスパークしたように白く飛ぶ。何も見えないまま、我武者羅に剣を振る。骨を砕き肉を捌く確かな手応え。
やった。更に剣を振り続ける。何度か自分の鎧にも敵の刃が触れるような衝撃が走ったが、興奮のせいか痛みは殆ど感じなかった。段々と視界が戻ってくると、ずたずたに切り裂かれた敵兵の死体が目に入る。
頭がくらくらする。呼吸さえ忘れて剣を振るっていたから酸欠気味だ。大きく息をついて自らを確認するが特に大きな怪我は無かった。
血塗れの大地を踏み締めてアイビス妃の元へと戻ると、戦いはすでに収束に向かっており、敵兵の姿は無くなっていた。
「ゴイルのお蔭で集中できるようになったの。ありがとう」
死者達から敵軍が完全に撤退した連絡を受けて、腐り姫がいつものように感謝を告げ彼等を魂の海に還していく。軍服の前を開け放ち荒野の風にはためかしてその悩ましい肢体をさらけ出し、過去に未練を残した兵士の亡者達を弄び手先とする。そんな彼女を私は嫌いではない。
「さあ帰還だ。今日も僕達二人だけで凱旋の門を潜ってやろう」
彼女は不敵に笑いながら、棺桶じみた黒い箱を積んだ馬車に歩いていく。
あの態度がポーズだと、一体誰が気付いているのだろう。二年以上彼女と二人で戦場を渡り歩いているが、彼女は一度として敗北した事は無い――そもそも敵兵が彼女の半径十メートル以内に近づけた事が無い。だから今回敵軍は遠距離攻撃に注力してきたのだろう。
彼女はいつも見晴らしの良い場所に陣取って、湧き蘇る死者達を指揮している。いや、実際は指示すらしていない。
実際見てきて知ったが、彼女と亡者の間には驚く事に隷属関係が無い。こちらがネクロマンサーだろうと、妃だろうと、あちらが将軍だろうと、農民だろうと、あくまでもフラットな関係しかそこには無い。だからこそ、毎度最初は揉めつつも最後には皆して彼女の味方をしてしまうのだ。
馬車の中で腐り姫は気持ちよさそうに寝息を立てている。戦場を離れ、街道沿いに森を抜けて城壁に囲まれた王都を目指す。木々の隙間を縫って差し込んだ陽光が、棺桶の覗き窓のように小さい窓から降り注ぎ腐り姫の顔を斑に照らす。彼女の髪は神話の女神のそれのように美しく、差し込んだ陽光と木々の緑を反射して鮮やかに輝いている。閉じられた瞳のせいで、まだ子供の要素の方が強いかんばせ。そう、まだこの子は子供なのだ。悪女だ悪妃などと形容するのも憚られるような子供。いったいどこからこの少女は来たのだろう、まさか本当に死者の国か、天の国からの御使いなのだろうか。
そうやって現実離れした妄想をして、私は苦笑した。考えたくないから、そんなお伽噺を脳が勝手に紡ぐのだ。憐れむことを、罪悪感を無視したいがために。
どうしてこの少女を厭えようか。死肉と腐臭に塗れながら、故国でもないこの国の為に文句一つ言わずに戦い続けるこの子を。
膝の間に置いていた剣を両手で床に突き、その柄に額を押し付ける。
「貴女を守りましょう――故国のため、家族のため――そして何より貴女が誉れを手にするまで」
「――ありがとう」
聞かれていたのか、慌てて顔をはね上げるとアイビス妃がにやにやと笑いを堪えながらこちらを見ている。
「嬉しいよ。この国で僕にそんな事言ってくれる人がいるなんて思ってもいなかったの。それにしても、君は睦言をえらく白い顔で言うのね」
良く見ると彼女の頬が赤い。どうやら照れているようで次は私が思わず笑ってしまう。どこまで子供なのだろうこのお妃様は。
そういえば、いつもは気になってしょうがない甘い匂いが今日は気にならない。戦場の腐臭よりもよほど気に食わない匂いだったはずが、今はずっと嗅いでいたい気分だ。
気づけば城門が目の前に迫っていた。名残惜しい気持ちすら持ちながら凱旋の門扉をくぐる。都の住人達は薄情で、軍隊が帰って来た時は色とりどりの旗を振り歓迎するのに、この霊柩車のような黒い馬車が帰還しても見向きもしない。まるで葬式のように目を伏せて大通りから去って行くのだ。
そんな中、見慣れた姿が通りに見えた。家で一番綺麗で新しいドレスを着て、喜びのままに大きく手を振っている。小麦色の髪を編み上げた自分の妻の弾けるような笑顔に、思わず馬車を止め通りに降り立つ。普段は妃を城に送り届けてから家に返るのだが、今日はひやりとした一瞬があったこともあり、つい妻の暖かく柔らかい身体を感じたくなったのだ。馬車内を見るとアイビス妃は早く行けとばかりにしっしと手を振っていた。
妻の名を呼び、駆け寄ってくる彼女を抱き締める。公衆の面前だが満更でもない、背後では呆れたような、羨ましいような顔でアイビス妃がこちらを見ているのだろう。
どん、っと急に妻が私を突き離した。
妻は貞淑な女だ、恥ずかしかったのだろうか。謝ろうとするが、妻の顔は驚愕と恐怖の入り混じった、それでいて何かに縋るような切なげな顔をしていて、思わず言葉に詰まる。
「どうしたんだい?」
手を差し出すと後退りし、泣きそうな顔で妻は言った。
「あなた……どうしてそんなに冷たいの?」
「どうしてそんな白蝋のような肌をしているの?」
「どうして鼓動が聞こえないの……?」
その言葉に、凍りついたように体が固まる。
何故だ、どうして?
はっとする。あの時、剣を振り翳した敵兵は、私を斬り殺していた――――?
何故私は生きている?いや、死んでいるのに動いている?そんな事は決まっている――脳が沸騰するように怒りを溢れさせる――私は振り返り暗い箱の中に居座る主を、呪い殺さんばかりの顔で睨み付けた。
「――なんだ、君は、死んでいたのか」
その瞬間首の付け根から腹まで、ぷつりと赤い線が走り、滑るように胴体が別たれていく。痛みは無く、白昼夢の向こうに意識が消えていく最中、私は愛しい妻ではなく、棺桶の中で影に隠され、瞳に水面のような光を乱反射させてこちらを向く、腐り姫の顔をだけを見つめ続けていた。
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