その者は赤き奈落と共に生まれ出ずる 13
僅かに空の端が黄色に染まり始める。夕刻が迫る中、アイビスは馬にすら乗らず戦場に踏み入った。フォルトも同じく徒歩で、自軍の陣地の端から、退去する全友軍に逆らう形で進む。逆に人が流れていく視界は、海が割れるような壮大さを感じさせてくれた。遠く向こうから敵軍の旗が確実に近づいて来ている。
ついに友軍が途切れ、一キロほど先に敵の大軍が現れた。数として五千程度。決して多くは無いが、相対するのが二人となれば話は別だ。
「僕の後を、ついてくるだけでいい。後は、適当に助けて」
「――承知しました」
砂煙の舞う歩兵と軍馬に蹂躙された大地を、アイビスは悠然と歩く。
ゆっくりと、地面を硬いブーツで踏み締めて、風と光に髪を遊ばせながら、口元に淡い微笑を浮かべている。
誰一人味方のいなくなった戦場こそが我が物なのだと言うように。
やがて不可思議な現象が起こる。風に踊るがままだった砂塵が、彼女の細い足に絡みつき、それを軸として左右に小さな渦となって漂い始めた。砂を含んだ風からは腐る寸前の芳醇な果実の匂いがする。風はどんどんと彼女の膝まで溜まっていき、最終的にアイビスを始点に半径二キロ程の扇状に砂の澱のようなものが生成された。彼女の歩調に合わせ進むうちに澱はワインのような臙脂色を孕み、それに伴って甘い香りも熟成されたかのように深みを増していく。澱はやがて赤紫色の闇と言えるほどに濃くなり、底の見えない奈落となった。
その闇の中におっかなびっくり足を沈ませ、デザートワインよりも甘い匂いに頭をくらくらさせながらフォルトはアイビスを盗み見る。
驚くことにアイビスは全くの無言だった。呪術にしろ魔術にしろ世界に干渉するに当たっては厳格な手順、所作、知識が必要とされる。だが、彼女は全くの身一つで、杖の一つも使わずに、散歩するような気軽さで、確かに今、何かを起こそうとしていた。
「さあ、行こうか。僕達よ」
アイビスが全く気負いのない甘い声と共に、指揮者のように両手を軽く振り上げる。
その瞬間、臙脂色の闇の中から、沢山の腕が、肩が、頭が、足が突き出した。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁお化け――――!!」
フォルトの悲鳴が荒野に木霊する。白目を剥いて卒倒したフォルトの上半身が、すんでのところで闇から突き出した太い腕によって支えられた。まだ砂と風でその輪郭だけを形取っているだけだったが、ものの数秒で砂が骨となり、ぎちぎちと軋んだ音をたてながら砂が骨に巻き付いて肉と化していく。アイビスの歩みにあわせてフォルトも斜めに支えられたまま、突き出た腕たちと共に赤黒い靄を纏いながら前進させられる。
あたりを覆う匂いは果実を通り越して腐肉の匂いとなり、その悪臭が気付けとなってフォルトは目を覚ました。
「はっ!!うっ……臭っ」
そして、すぐに吐いた。胃の中の物を遠慮なく。
フォルトの吐瀉物がかかるのを嫌がるかのように赤黒い靄に穴が開き、覗く乾いた地面に全てぶちまけられる。
「これでもしてしばらく我慢してて。その内収まるの」
歩きながらアイビスがフォルトの顔に投げつけたのはガスマスクだった。叩き付けるように入ってくる砂で目を真っ赤にしながら、もたもたとマスクをつけようとすると、見かねたように何本かの腕が後ろからフォルトを手伝った。
「あっ、ありがとう」
反射的に礼を言って振り向くと、まだ皮膚で覆いきれていない腕達が、気にするなとでもいうようにぐっと親指を立てていた。なんだそのフランクさは。フォルトは頭が痛くなる。
アイビスを先頭に赤黒い奈落から死者が湧き続ける。その数は一万をくだらない。皮膚まで再生した死者達の身体を靄の混じった砂が包みこみ、風によってその靄がほどけるように消えていくと、そこには千差万別の戦装束が現れた。皆この戦場で散っていった者達なのだろう、ラービーナ・ニウィス帝国の甲冑に身を包むものもいれば、敵国の足軽と思しき者もいる。
統一感は無い、ただ腐臭と共に圧倒的な数の兵達を引き連れて進軍するアイビスを、今敵兵はどんな思いで見ているのだろう。こんなこと、まともではない。まだ天変地異を起こし戦場を灰燼と化す、無慈悲な魔術師の方がいい。これでは発狂していてもおかしくないはずだ。
間違いなく勝てるだろう。フォルトは敵軍と接触する前から確信していた。
赤黒い闇がある程度薄まってくる。アイビスの満足する数の兵が蘇ったということか。隣のアイビスを盗み見るがマスク越しだと表情が伺いにくい。意を決してガスマスクを外すと、術の発動直後より幾許かましな臭いになっていたので、また吐くというような醜態は晒さずにすんだ。
夕焼け前の空と、地を這う赤黒い霧の鮮やかな色を髪に反射させながら、アイビスは真っ直ぐに敵軍を見据えている。ゆっくりと右手で敵を指し示し、アイビスが桜色の唇を開く。
「さあ、出陣なの!」
ばこんっ!!
勇ましい声を上げ背後を振り向いたアイビスの頬を、大きな拳が殴り抜いた。
「えええええぇぇぇぇっっ――!?」
宙を舞う勢いで打ち上げられる腐り姫。完全に虚を突かれたフォルトは、吹き飛んだアイビスが描く美しい放物線をただ眺めている事しかできない。
どさりと音を立てアイビスが地面に落ちてから数秒後、我に返ったフォルトは慌ててアイビスに駆け寄った。
「何でですか!?今すごい率いている感出してたじゃないですか!?完全に不死の戦士達を操って血みどろの戦いをする的な空気出してたじゃないですか!?」
「そんなに、僕の能力は都合が良くない」
むくりと起き上がったアイビスは、青痣の出来た頬を乱暴に擦り、不機嫌そうに血の混じった唾を吐く。見かけによらずタフなタイプのようだ。
「くおぉぉらっ!!このクソ女!!だーかーらっこいつは起こすなって散々言ってんだろうが!!」
突然の怒鳴り声に振り向くと、見慣れない――多分もう少し時代が古いのだろう――甲冑を着た屈強な男が必死の形相でこちらを睨みつけつつ、先ほどアイビスを殴った悪鬼のような蓬髪の剣士を抑え付けている。
「ああ、久々だな勇者殿。元気だった?」
「死んどったわ阿呆!そんな呑気な事言ってる場合か、こいつを止めろ!!」
「ぐぼぉぉぉぉ!!ごぉろぉす!!ゼンインごろずぅぅぅぅ!!」
勇者殿と呼ばれた男に羽交い絞めにされながら、白目を剥いた蓬髪の剣士が咆哮をあげた。血管が浮き出た身体で無茶苦茶に暴れながら、唾と共に濁った怨嗟の声を吐き続けている。
「あの……アイビス妃?これは」
戦争が始まる前から自軍が狂乱の様相を呈している。動揺と共にアイビスを見ると、伏せ目がちで無駄に色っぽい溜め息をつき、てくてくと揉み合う二人の男に近づいていく。
「はい、君は僕達じゃない。起こしてごめんね。ゆっくりとおやすみ」
アイビスはそう言って噛み付かんばかりに顔を近づける蓬髪の剣士の眉間をそっと指で撫でた。その瞬間、剣士は紫煙となって宙に溶けて消える。
「まったく、前回も前々回も、アイビス殿は我が仇敵まで蘇らせるから閉口するぜ」
「しょうがないの、僕はここら一帯で死んだ戦士、ぐらいの括りでしか僕達を区別できない。だからさっきみたいな凶戦士も対象になってしまうの。みんな僕達だからね」
「そんな……アイビス様、まさか貴女力の制御が――!?」
聞きたくなかった事実にフォルトが蒼白になる。なんてこったい、と額に手を当てて瞠目する彼を余所に、勇者殿と呼ばれた剣士は、腰に手を当てて大きく息をついた。
「わかってはいんだが――あぁそこ、もうお前等の戦争なんてとっくに終わってる!!敵兵同士で喧嘩するんじゃなねえ!!あぁ、どっちの国が勝ったか?そんなこと歴史学者にでも聞け!!少なくとも俺に時代にお前等の国なんて影も形もねえよ!!」
勇者はよほどの手練なのだろう、剣を振りながら逆の手で魔術を放ち、少し離れた場で揉め出した集団を纏めて吹き飛ばす。
「とりあえず。全員しばいて纏め上げるから五分待ってろ」
「いっつも悪いわね、頼んだの。僕達がまともに戦えば、あんな奴等一網打尽なの」
しきりに出る“僕達”という表現がフォルトには奇妙に聞こえる。
魔術弾を放ちながら走り去っていく勇者の後姿を目で追って、アイビスはふらりとぐらつき手頃な岩に腰を下ろし真っ赤に腫れた頬を抑える。あの蓬髪の戦士の拳の仕業だ。動かすと痛いのだろう、厚ぼったい唇を僅かに開いてゆっくりと息を吐く。目だけを動かし呆然と立ち尽くすフォルトを目に留め、皮肉に満ちた笑みを浮かべた。
「想像していたのと違うって顔なの」
「……はい。もっと禍々しく、もっと冷え冷えとして、もっとおどろおどろしいものだとばかり」
「酷く馬鹿馬鹿しくて、騒々しくて、役に立たないものだったでしょう?」
「臭いと色は想像通りでしたよ」
「なにそれ、慰めなの?」
くくっと喉で笑うアイビス。普段と違い憂いを湛えて重たげな瞳が、今や猫のようにつぶらな瞳となってキラキラと光に反射している。彼女は指を一本立てて話しだした。
「①僕は、蘇らせる人数が多くなれば多くなるほどその対象を選別をする繊細さを失う。魚を取るのと一緒なの。一匹でいいなら釣り糸を垂らして、引きの強さや、魚影や、動きでもって相手をじっくり選んで釣り上げることが出来る。だけどそれが何百匹ともなると話しは別。大きな網を目一杯広げて魚種もサイズも関係なく全て掬いあげる。条件となる網目のサイズを変えるくらいの事ぐらいしかできないの」
立てられた指が二本に増える。
「②僕は蘇らせた死者を操ったり、心を封じたりする事は出来ない。君の想像する白目を剥いて土気色の肌をした、ギクシャクと歩く死者はここにはいない。全員心を持ち、記憶を持ち、能力も持ったまま蘇る。自らが死んでいる事、僕が術者である事は概ね皆最初から分かっているけど、それでもあんな風に諦めきれずに暴れてしまうの」
彼女の指す先には古い装飾の甲冑をつけた兵士達が掴み合う姿。過去の戦争の敵国同士だったのだろう。それを容赦なく勇者の火球が吹き飛ばす。
「①と②の結果が③で――これは、別に言うべき事じゃない。フォルトに迷惑がかかることでもないの」
持ち上げかけた三本目の指を止めて、アイビスは立ち上がった。
「僕自身にも良く判らない能力を、この国に連れてこられてから無理矢理戦争に利用されているの。ネクロマンシー自体が体系立って理解されている学問でも無いし、僕だって自分以外のネクロマンサーにあった事はない。師と仰げる人もいない中で、手探りでこうして戦ってる」
向こうで勇者殿が手を振っている。どうやら大方の死者達の意志の統率が取れたらしい。歩き出したアイビスが、フォルトの肩を叩く。
「だから言っただろう、適当に助けてと」
ぐさり、と胸に心が刺さる。術を使い不死の兵士を蘇らせ使役する、ゴシップを鵜呑みにしてアイビスの守護を御座なりにしたから、今彼女の頬にあんな痛々しい跡があるのではないか。
「そうか――私は、必要なのか」
ただのお飾り騎士として任命されただけだと、どこかで思っていた部分があった。特に戦場では無敗を誇る主に気後れしていたところがあったのだ。
フォルトは両手で自らの頬を張る。
気合を入れ直せ。
騎士としての誓いを思い出せ。
この腰に下がった剣の意味を思い出せ。
彼女を全ての災厄から守ると誓っただろう。
たとえ、彼女自身が災厄だとしても。
フォルトはアイビスに向かって走り出す。
「さあ、僕達、悪いがその魂借りるのよ」
奈落より湧き出た死者に向かって言い放った腐り姫に、弧を描いて数本の矢が迫っていた。痺れを切らした敵軍からの攻撃だ。急に沸いて出た死者の軍団に突撃する勇気も無く、大将であるアイビスをピンポイントに狙ったのだろう。その軌道は、的確にアイビスの心臓に向かっていた。
「アイビス様!」
アイビスは何も気付いていない。彼女自身にそこまで卓越した戦闘技術など無いのだ。フォルトはアイビスの数歩後ろで素早く両手を指揮者のように振り上げた。
ざざぁぁぁ――――――っつ!!
その瞬間、地面が僅かに震えたかと思うと、波が引くような音と共に、アイビスを庇うように地面から黒い壁が生え、容易く弓矢を弾いた。現れた壁は直ぐに地面に水が染み込むように消える。
「――今度は守ってくれたの」
「私は貴女の騎士ですから」
青痣を作った頬を引き攣らせながらアイビスが笑い、死者の軍団に凛とした――それでいて甘い声で命令する。
「戦士なら戦いは本能でしょう?ならば戦え!相対するすべてが死者となるまで!」
その言葉に、勇者殿が大きく呼応し、続いて従えられた兵士達も雄たけびを上げる。
「こうなりゃとことんやってやるぜ!もう死んでるから怖いもんなんてねえ!」
「久々の戦、腕がなるぜ!!」
「姫様、こっちにウインクして!」
「ついでに胸も揺らして――!!」
好き放題言いながら、二の足を踏んでいる敵軍に死者の軍団が殺到する。敵兵は明らかに動揺しており、特に前衛は精彩を欠いた動きをしていた。我武者羅に突撃する死者の兵を盾で防ぐばかりだ。死者達は見た目こそ普通の人間と変わらない。だが彼らが地面から湧き立つ様を見た最前列の兵からすれば悪魔のように彼らが映っているはずだ。戦場中に甘いような腐臭のような、たまらない臭いが充満していることも志気を下げている原因だろう。彼女の力自体は生者に何の影響も与えないらしいが、まるで死が伝染する媒介のような臭いに包まれれば、それだけで戦意喪失してもおかしくない。
「くっ……」
思わず外したマスクに手を伸ばしそうになるが、横で涼しい顔をしているアイビスを見て、騎士としての矜持がフォルトの手を止めさせた。ある程度後衛になるとまだ勝つ気でいるのだろう、前衛の後ろから何本もの矢がアイビス達に降り注ぐ。フォルトは片手を、まるで虫を払うように振り上げる。その動作と連動して、四方から厚さ三センチ程の黒い壁がまた地面から生えて二人を覆い、矢は全て弾かれた。
「これは、鉄?」
蕾のように丸みを帯びて生えた壁にそっと触れ、アイビスはその冷たさにぱっと手を離す。
「ええ、私の能力です」
「天賦のもの?」
「――まあ、そうですね。生まれた時から私の身体には磁石としての力が備わっているんです」
フォルトは視線だけでするすると鉄の花弁を花開かせる。
天賦の才は詠唱を必要としない。アイビスと同じだ。
「とはいっても何でもかんでも磁性体を引き寄せるわけではありません。あくまでも私が操れるのは、私と生まれた時から寄り添うこの砂鉄だけ――今では、全部で四十ガロンあります」
話している間も飛んでくる矢を、両手を指揮するように宙に舞わせ、地面から生えた鉄の鞭を操って叩き落とす。
「僕を守る、という意味では有用な能力に思えるの」
「買い被りすぎですよ。正直、弱点も多いんです……ただ、戦場でアイビス妃をお守りする限り、そんな言い訳はするつもりはありませんが」
戦況はラービーナ・ニウィス側が圧倒的に有利だった。恐れを知らない――いや、死を一度経験しているからこそ、より果敢な踏み込みを、回避を、競り合いを、まるで楽しむかのように死者達は繰り出していく。
「生き返るたびに――俺は強くなれる!」
勇者殿は嫌に主人公らしい台詞を吐きながら殆ど防御もせずに敵に剣を振りかざす。
「死者達と顔見知りのようでしたが?」
「そう、死んでからね」
「彼等は、死後蘇り再び戦場で戦った事を記憶しているのですか!?」
「そんなに驚かれても……所詮、肉体は魂の器でしかないの。僕達は生き帰り、共に戦い、共に勝利した。その記憶は魂に刻まれ海に還っても消える事は無い」
「海?」
「フォルトにはわからないの。僕に君が寄り添う砂鉄の感覚を理解できないように、君も僕がこの世界を――そこに広がる魂の海をどう感じているかはわからない」
気付けば、敵兵の数がぐっと減っていた。彼らの国はラービーナ・ニウィス側に今回は何の要求を突きつけていたのだろう。普段なら小競り合いで済んでいたところを、腐り姫が投下されたのだ。追い返されるではすまないような無茶な事、もしくは王や国の矜持を損なうようななにかを訴えてきたに違いない。
「まあ、あえて詮索する気もないですが……」
死者ばかりが跋扈する戦場を見渡しながらフォルトは呟く。
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