その者は赤き奈落と共に生まれ出ずる 09
「坊ちゃん!!坊ちゃんたら!!」
叩かれつねられ嫌々目を開けると、顔面にばさりと布が落とされた。清潔な香りのキュプラのパジャマだ。床は酷く硬い。どうやら石造りの玄関に放り出されているようだが、泥酔したフォルトにはひんやりとした床でも十分な寝床になりえる。入り口の天井は蔦が中央のシャンデリアの根元に絡みついていく洒落た柄のデザインで、前の住人は趣味が良かったのだなとそれを見るたびにフォルトは思う。
「うぅ……明日からまた出陣なんだ。寝させてくれよばあや……」
「いけませんぼっちゃん!そんな酒臭い身体でお妃様に傅くなどとんでもない!」
「朝風呂でいいだろぉ……」
「そう言っていっ~~~~つもぎりぎりまで寝ているじゃあないですか!!」
がしがしとまるでゴミのように箒で容赦なく掃かれ、渋々フォルトは起き上がった。
「わかったよ……入るってば」
「ちゃんと髪まで洗うんですよ!」
箒をつきつけてくる眉を吊り上げるのは八十も過ぎた老婆――ビーニャだ。乳母としてフォルトがおむつをしているころからバーリオル家に仕えており、今ではこの小さな屋敷の唯一のハウス・メイドだ。フォルトしか住む者のいない――しかも殆ど戦場に出ている――そんな状態で、彼女は何時もフォルトの母から贈られたベロアの給仕服を誇らしげに着て、髪をきっちりと纏めて家を守ってくれている。
一歩外に出れば嘲笑の的となっていた数年間も、背筋をぴんと伸ばして屋敷の外を欠かさず掃き清めてくれていた。その姿はフォルトをどれだけ勇気付け、挫折から救ってくれたことだろう。感謝してもしきれない。だが、今壮絶に眠たいフォルトは、つい何時も通り口を開いての恨み節だ。
「ぅううぅ……鬼婆……」
「鬼婆で結構!ぼっちゃんはバーリオル家当主なのですよ。しっかりしてくださいまし」
ふらつく足取りで浴室に向かうフォルト。途中で足を止めてぽつりと呟く。
「ばあや、やっとだ。やっと雪ぐ事ができた。明日になれば勲章に見合った待遇と報奨金が賜られる。ばあやも顔を上げて、胸を張って仕事ができるだろう。時間がかかってすまなかったね――こんな無様な形でだけど……笑うかい?」
「笑いませんとも。ぼっちゃんの事は、ビーニャが一番良くわかっております」
淡々とビーニャはフォルトが酔って散らかした玄関を片付けている。そんな事明るくなってからすればいいのに、背を向けているのは顔を見せたくないからだろう。
「それに、ビーニャは一度もバーリオル家に仕えることを恥じた事はありませんよ。ぼっちゃんも、ぼっちゃんのお父様も、ご立派な方でしたから」
声が少し上擦っていた。フォルトが幼子の時は恰幅が良かったのが、年を追うごとに老いて小さくなっていく背中。この国の平均寿命でいうとビーニャは長生きの方だ。間に合って良かった、とフォルトは心から思う。
「僕の生きる目的は、これで果たされた」
思わず、そう言い切っていた。嘘偽りはない。
明日からまた戦場に出る。誉れある妃付きの騎士として。
だがフォルトにとって、ここからの人生は、ただの余生でしかない。
「――ぼっちゃんはかわいそうな仔です」
ビーニャはそう言って立ち上がった。話は終わりだと言わんばかりの沈黙が二人の間を満たす。軽く頭を下げ、去り際に思い出したかのように老家政婦が義務的に口を開いた。
「そう言えば、夕刻にフードを深く被ったご婦人がいらっしゃいましたよ。名前も名乗られず、玄関で少し言葉を交わしただけで帰られましたが」
「へえ、誰だろう?」
「さあ、屋内に入っても頑なにフードを下げられなかったもので――ただ、夕日を反射した水面のように、フードの内側に水面のように淡い光が揺らいでいて――あれは、何か美しい髪飾りでもされていたのでしょうかね」
煌めく髪。きっと自分の主に違いない。そう思ったが、驚きは顔に出さなかった。フォルトは小首を傾げる。
「何か言っていたかい?」
「いえ――屋敷に入ってくるなりぼっちゃんはいるかと言うものですから、いないと言ったらくるりと屋敷の中を見渡してすぐに去っていきましたよ」
玄関の灯を落とした後、ビーニャがさらに言葉を付け足す。
「そういえば不思議な事を言っていました――ここじゃあなにもわからない、と」
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