腐り姫と鉄の城
遠森 倖
プロローグ
楽園の追想者
先陣を切って駆けていた、王の馬がぴたりと足を止めた。
唐突に立ち止まった馬に乗っていた王が、怪訝そうにその腹を蹴る。だが、馬は蹄に根でも生えているかのように全く足を動かさない。何故だ。王は何度も腹を蹴り、手綱を打つがそれでも馬が歩き出す気配は無い。そうこうしているうちに後続していた親衛隊達も追いついてくる。皆周りに配る視線に隙はなく、使い込まれた甲冑に身を包み、腰には立派な装飾が施された剣を下げている。一目で手錬だとわかる親衛隊達も、自らが跨っている馬が何に足を竦ませているのか理解できない。
そんな馬鹿な、こいつらが何だというのだ。
王は顔を上げて進行方向を睨みつける。
そこには小さな集落があった。頑丈な岩が積み上げられた、筒のような形をした家がぽつぽつと並び、馬の蹄の起こす不穏な震動に気付いたのか住人達が躊躇いがちに外へと出てきている。皆、甲冑に身を包む親衛隊達からすると見慣れない、草花で染められた動物の毛で編まれた服を着て、髪を奇妙な形に結い上げている。いや違う、目を凝らしてみると髪自体が雲間の薄明かりの下で万華鏡のように乱反射している――だから彼らの髪型が良く視認できないのだ。
「これが、彼の民族なのか……!!」
だが少しおかしな髪色が何だというのか、そんなもの自国にも山ほどいる。
王が望んでいたのは、そんなものではない。神の住む天上の頂、この場所はそう呼ばれていた。裾野に広がる深い深い樹海を抜け、遮るもののない日差しと極寒の夜が交互する岩肌を馬と共に登り続けた数日間は、幾多の戦場よりも過酷だった。それでも温かい食事、清潔な寝床、すべてが約束された王宮から離れ、あえて危険を冒してまでここまで来たのは――――
「私がここにきたのは、こんな貧相な集落を落とすためではない!」
王の苛立ちに呼応するように軍馬が荒い鼻息を噴出す。住人達が王の怒鳴り声に怯える中、花の蜜のような甘い声が、凛と冷えた高地の空気の上を滑り広がった。
「ラービーナ・ニウィスの王よ!此の地には何も無いの。豊かに実る作物も、肥えた家畜も、冴えた鉱物も、何も無い。僕等の吸う空気さえも満足に無い場所に何の用があるというの!」
突然雲が晴れ、強い光が岩だらけの山頂に降り注ぐ。男達は腕で目を覆い、低地より幾倍も白く瞼に刺さってくる光に耐えながら、視界を保とうと目を眇める。
そして、王はそこに望むものを見た。
集落の中心の広場に、小さな子供ばかりが寄り集まっている。その中で一人だけ年嵩の少女が子供達を抱えるように両腕を回し、こちらを睨みつけていた。十五六歳位だろうか、長い睫に縁取られた大きな瞳もまた、万華鏡の如く光り輝いている。日差しの強い高山で生活しているために肌は浅黒く焼けているが、形の良い小さな頭とすらりと伸びた長い手足の奇跡的なバランスは皇国でも中々お目にかかれない。目鼻立ちも整った美しい少女だった。
「お……お前が、この集落の長なのか」
まだ幼ささえ残す少女に向けて王は問う。
「そう、僕アビスが族長なの」
少女は背筋を伸ばし言い放つ。物怖じしないその態度に毒々しいまでの美しさ。よくよく見つめていた王は不意に怖気が走った。甘さを存分に含んだ声に反して、日暈を浮かべるだけのガラス玉のような瞳は茫洋として、朽ちかけた人形がこちらを覗き込んでいるかのような不安を覚えた。幼い子供達がその少女の足にしがみ付いてその影から男達を窺っている。
「ひいさま、ぼくこわいの」
「あの固そうな服を着た人達はなに?」
「……黙っていい子にしてるの。僕達は僕が絶対守るから」
アビスは落ち着かせるように小さな声で子供達に言い聞かせる。王は気付いていない。幻妖な空気を纏う少女の手は実際の所、緊張し汗に濡れて微かに震えていたし、初めて見る自分より大きな馬と、見たこともない金属の装甲に身を包んだ男達を前にして、恐怖で頭の中は真っ白だった。だが、彼女の外見に光指す高山の超然的な空気が混じる事で、偶然王もこの時彼女に気圧されていたのだ。
これが演劇であるのなら、滑稽なまでの思い違いに観客はくすくす笑うだろう。
だがこれは現実で、その誤認は致命的なまでにお互いの思考を侵食する。
「さあ、貴方達はどうしたいの?碌に武器も持たない、戦い方も知らない僕達を殺して、貴方達の国の地図の一部にこの山も加えたいとか?」
いっそ揶揄するような声かけも、彼女に告げられれば不思議と憤りは湧いてこない。僕達、僕達と、不思議な物言いをする娘だと、王はその顔をまじまじと見た。刻一刻と光を受けその色合いを変える瞳を見つめていると、まるで何人もの人間と同時に対面しているように錯覚してくる。
思慮深い老人。
純真無垢な子供。
猛々しい戦士。
美しい乙女。
強欲な商人。
快活な青年。
「――っ!?」
目まぐるしく変わるその中の一つに、王は心を掴まれた。追い求めたものが秘められているのか、追うが故に自らが其処に見てしまったのかは、王にはわからない。
「欲しい」
ただ、突き動かされる衝動のままに王はそう口走っていた。
「私はお前達の部族が持つ力が欲しくてここまで来たのだ。根絶やしにするつもりは無い、一番力の強い者を差し出せ」
アビスは大きく目を見開いて、それから安心したような笑いを浮かべた。
「なんだ、じゃあ僕だけでいんだね」
同胞達の押し殺した悲鳴が聞こえる。「そんなこと」とか、「やめてください」だとか、そんな悲痛な声。
だがそれは逆効果で、アビスは守るべきものを再認識させられているに過ぎない。まだ一滴の血も流れてはいない。静かにこの蹂躙と略奪の脅威を集落から取り除きたい。
アビスは決意する。眩暈が起こるほど激しい動悸に足元がふらつく。同い年の子達よりも一回り大きな胸に汗ばむ掌を押し当ててゆっくりと息を吸う。
自分の力をどうするつもりだろう。自分はどうなってしまうのだろう。次から次へと溢れる疑問や恐怖を押し殺して、アビスは一歩を踏み出す。
蜜を多量に含んだ花のように、柔らかく艶めいた身体を軽やかに動かして馬上の王の目の前まで歩いてくる。後ろで子供達が心配そうにアビスの背中を見つめている。
娘が近づいてくるにつれて、王の胸の底から滲むような恐怖が湧きだす。鼻腔をくすぐる臭いは腐りかけの果実の芳醇な香り。その浮世離れした歩みはまるで死者の国の住人のよう。
王は気付く、子供達がするりと絵の具を洗い落としたかのように、無表情になっていることを。
子供達の柔らかそうな唇が大きく動く。音の無い唇の動きを目で追って、王は叫び出したくなった。近づいてくる少女が得体の知れない化け物にしか見えなくなる。
「さあ行こう」
差し出だした手は、花を折るように無体に払われた。
アビスは思う、この男とは仲良くなれそうに無いなと。
王は只考えている、己の願いを叶えるためにこの娘をどう使えばいいのかを。
途方も無い力の使い方も知らぬ少女と、無用な畏れを抱き少女の本質を見誤った王。
喜劇とも悲劇ともつかない話は、ここから始まった。
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