神主さんのお仕事

 数学の予習をこっそりしながらお札授与所にいると、初老の参拝者がおずおずと、宮司さんはいらっしゃいますかと尋ねられたので、宮司さんを呼んできた。

 彼らは連れだって奥の方へ入り、退勤時刻の三時を過ぎても姿を現さなかった。

「あのぉ・・・・・」

 話の邪魔にならないような声のトーンで擦りガラスの向こうの部屋に声をかけた。ぬっと宮司さんが引き戸を開け、申し訳なさそうに

「ごめんね、もう三時だね、帰っていいよ。それから明日は八時に来てもらえないかな?」

 と言われたので、はい、大丈夫です、と女子高校生らしいはきはきした口調で応じた。

 それじゃあごめんね、ちょっと立て込んでいて、と引き戸をガラガラいわせながら宮司さんは部屋の奥に引っ込んだ。

 ネコと猫じゃらしで遊びながら、この退屈な日常にすこしだけさざ波が立ったような気がして、きっと神社に呪いや因縁のこもった厄介事がやってきたのだろうと不謹慎にも心が浮き立つのを押さえきれなかった。

 八時少し前に準備を済ませ、社務所にいるといつもの紫色の袴では無く狩衣と懐中烏帽子を付けた宮司さんが現れてぎょっとする。

「おはよう。今からちょっと地鎮祭に行くから荷物の積みこみとか手伝って」

 ホンダのエブリィに一升瓶や榊、乾物やお供え物を載せる三方と呼ばれる台に他にもいろいろ積みこむ。

「あの、奥さんは」

「あぁ、今日はお袋のいる施設にちょっと用事があっていないんだよねえ。入所後の説明とか書類にサインしたりでさ。いつもは家内に手伝ってもらうけどどうしても空けられなくてねえ」

 エブリィに全ての荷物を運び終えると、宮司さんは施主のところへ赴いた。社務所に戻ると、時計は九時を指していた。

 境内の掃除をいつもより念入りにして、几帳面にホースリールにホースを巻きとると、やることが無くなってしまい、訪れる人のいない境内を見渡して、軽く息を吐く。

 お札授与所兼社務所に戻り、授与所の窓から外に目を向けると、黒猫が前を横切った。縁起でもないことだったが、確かに尻尾がピンと立った黒猫が前を横切った。驚いて、まばたきした後、その猫の影は無く、忽然と消えてしまっていた。

「え?サバトラのほかにもう一匹いるの?」

 参道、境内と鎮守の森を合わせた神社の敷地はそこそこ広く、その中にあって今人間は私しかいない。その事実に寂しさと不安がこぼれて滲みの様に広がる。午後から曇りにむかう晴れ空に、若葉のおとす影が一層濃く感じられた。

 午後一時に差し掛かろうかという頃に、砂利を踏む車の音が聞こえてきた。社務所の扉を開ける音が聞こえたので、宮司さんにお帰りなさいと呼びかけた。

 いつもの禰宜の格好をした宮司さんは、ごくごくとお茶を流し込み汗だくの顔面を拭いながら、地鎮祭の経緯を喋り出した。

「いやぁね、本当は地鎮祭って基礎する前にしなきゃならないのに施主か工務店か知らないけど省略しちゃって基礎打っちゃったもんだから、なんかねえ、不安に思った施主さんが今からでも大丈夫ですか?って相談されてね」

「へぇ」

 ほっとした面持ちの宮司さんはやけに饒舌で、それは一仕事終えた解放感がそうさせるのかも知れなかった。

「しない人もいるかもだけど、こういうのはちゃんとしておいた方がいいって工務店の人がよく言うんだよね。井戸の神様とかになると滅茶苦茶大変だったりするらしいんだって。長年宮司しているけど、そういう相談が来たことないんだけどね」

「ええ、そうなんですか」

「覿面らしいよ。将来おうちたてる時は気を付けてね」

 帰りにコンビニで寄り道してきたのか、アイスを御馳走になって、午後からはいつもと変わらぬ業務をこなし三時に退勤した。

 若葉の芽吹き始めたサクラの木の下で、かりかりをネコに与えながら、あれはなんだったのかニャーと一人呟いてしまった。かりかりに夢中だったネコがばっと顔を上げたので、ビックリしてわっと声が出た。

 何かあれはよくないことの前触れだったのだろうかとネコが食べ終える間不安でびくびくしていた。

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