高岡梨都編(全1話)

もう死にたいって言いません

 寮の食堂へ行くと後藤さん(代表)がアンニュイな雰囲気を醸して座っていた。こういうときの人格はたいてい三年の高岡たかおか梨都りと先輩だ。

 椅子に浅く腰を掛け、左脚を上にして脚を組み、上半身はだらんとしている。

 高岡先輩は僕の姿を見つけると「ああ……死にたいな……」と言った。

 高岡先輩は口癖のように死にたいと言っている。いつもなら相手をして話を聞くとそんなことは言わなくなるのだが、今日は違った。

「ねぇ……カッターナイフ……ある?」

「あるけど、無いですよ。高岡先輩が使う目的では」

「この左腕……あたしの腕じゃ……ないんだよね」

 後藤さん(代表)の体は、六人分の部位が接合されていて、顔は後藤ごとう茉莉まりさんだが、左腕は横井よこい和音どみそ先輩で、高岡先輩は左脚だ。

 脳みそも六人分がかき集められて頭蓋骨に収まっているらしい。

 戸籍上は後藤茉莉さんだが、六人分の人格が残っている。

「左腕はドミソ先輩のですよね」

「綺麗な手首……。傷一つない……」

 そういえば、不発弾事故の前の高岡先輩は左腕にリストバンドをしていたな。それってひょっとしてリストカットの痕を隠すために?

「こう……綺麗な手首だと……切りたくなってくる……よね?」

 高岡先輩は自分の左腕をまじまじと眺めている。

「いやいやいや、ダメですよ。ドミソ先輩の左腕なんですからね。ピアノが弾けなくなったらドミソ先輩困りますよ」

「ドミソちゃんも……分かってくれる……はず」

「ダメー! ドミソは痛いの嫌い」

 よかった別人格が出てきた。

 とりあえず自傷行為は避けられたけど、これから大丈夫かな。

「ちょっとヤバイ周期に入ったみたいだな。リトはたまにそうなるんだよね。ボクも目を光らせておくよ」

 出てきた人格は高岡先輩と同じ三年生の三宅先輩だ。

 三宅先輩は座っていた脚を組み換え、右脚を上にした。

「リトはよく、『社会に必要とされない人間は死ぬことを期待されている』とか言ってたんだよね。そんなことないよ、って言ってるんだけど」

 その日は高岡先輩の人格は姿を見せなかった。


 翌日の昼休み、文芸部の堀戸さんがマリさんのところへやってきた。手には一冊の文庫本。

「この本はまだ読みかけだったよね。これだけは渡しておこうと思って」

 マリさんの私物の本が文芸部に何冊かあり、マリさんはそれを全部文芸部に寄贈すると言っていた。そのうちの一冊だろう。

 マリさんは一瞬目を輝かせたが、すぐにムスッとした表情に戻った。

「ありがとう。受け取っておくわ」

 マリさんは文庫本をパラパラとめくって栞の位置を確認した。文庫本はマリさんのカバンの中へとしまい込まれた。

 一日の授業が終わり帰宅の時間。僕は掃除当番だった。

「あたし……今日はちょっと……買い物に行ってくる」

 と言って、マリさんは一人で先に帰った。

 掃除が終わった帰るときに廊下で保健の中野先生と会った。

「どうした入江君、浮かない顔して。何か考え事かい?」

 実は高岡先輩のことが気になっていた。また手首を切りたいと言い出すのではないかと。

 保健の先生ならそういう話は慣れっこかもしれない。

 僕は中野先生に相談してみることにした。

 保健室へ行き、昨日の高岡先輩のことを話した。

「うん、まぁ、高岡君は前からそういう行動はあったからな。後藤君が手首を切りたがるのも分かるかな」

「どうしたらいいんでしょう?」

「リストカットも色々原因があるからな。ストレスからだったり、自分の再確認だったり。

 何かのSOSかもしれないしな。単にかまってほしいだけかもしれないし。

 後藤君がそういう行動を起こすのは不発弾事故の影響が強いだろうからな。入江君の方でもちょっと彼女と向き合ってみてくれないか。入江君も、同じ生存者として彼女と近い立場だろうし」

「はい、分かりました」

 一礼をして出ようとすると中野先生は左手を振っていた。その薬指に目がいってしまった。

「そういえば話は変わりますが、中野先生って結婚してるんですか?」

「えっ? 私は独身だが。どうしてそう思ったんだい?」

「その、指輪……」

 僕は中野先生の左手薬指を指さした。

「あぁ、これか。……外そうと思ったんだけど、指が太って外れなくてな……」

 しまった。なんて無神経だったんだろう。たぶん中野先生はバツイチだったんだ。離婚をして指輪を外そうとしたけど外れなくてそのままになっていたんだ。もうこれ以上、この件について聞くのはやめよう。

「す、すみませんでした。変なことを聞いて」

「なあに、気にしてないさ」


 寮へ帰ると後藤さん(代表)がアンニュイな雰囲気だ。ということは今の人格は高岡先輩?

「ねぇ……見て……。これ……買って来たんだ」

 高岡先輩がカッターナイフの刃を出し、天井に向けて眺めている。

 大丈夫なのか? 危険じゃないのか?

 嫌な予感がビンビンする。

「これを……こう……すぅーっと引くと……気持ちいいと思わない?」

「ちょっと待って! カッターを置いて! そんなことしたら痛いから!」

「痛いのは……痛いよ。でも……痛いってことは……生きてるって……ことだよね」

「そんなことしなくても生きてるから!」

「ねぇ……あたし……本当に生きてるのかな?」

「?」

「あたし……本当は……あの時……あの爆発で……死んじゃってるんじゃ……ないかな?」

「生きてるから! 今そこにいるから!」

「これで……手首を切って……痛かったら……生きてるって」

「手首切らなくっても。ほら、自分の頬っぺたをつねってみて」

 高岡先輩は右手でカッターを持ったまま、左手で自分の頬をつねった。

「……痛い」

「ねっ、生きてるでしょ」

「あたし……生きてる……」

 納得してくれたのか、高岡先輩はカッターの刃をしまい、テーブルに置いた。

 僕は素早くカッターを手に取りお尻のポケットにしまった。

 僕は高岡先輩の両手をギュッと握った。

 高岡先輩は目を瞑り、落ち着きを取り戻した。

 しばらくして目を開くと人格が代わっていた

「やっと出てこられたよ。ゴメンネ幾太君、リトが迷惑かけて」

 この口調は三宅先輩か。

「ボクもすぐ出てこようとしたんだけど、表に出ている人格の思いが強いと簡単には代われないみたいなんだ」

「高岡先輩、もう大丈夫なんでしょうか?」

「まぁ、今日のところはね。あとはボクが表に出てるから幾太君は部屋に戻っていいよ」

 部屋に戻った僕は、このままでいいのか考えていた。

 高岡先輩は生きている実感が持てないのだろう。繰り返し行ってきた自傷行為の痕も今はもうない。ある意味、あの傷痕も生きてきた証だったのかもしれない。

 ふと試してみたいことを思いついた。時計を見るとまだ五時。お店はまだ開いている。僕は急いで買い物に出かけた。


 目的の物を手に入れ戻ってきた。高岡先輩の人格は眠っているようだった。三宅先輩に人格の交代をお願いした。

「高岡先輩……」

 高岡先輩が目を覚ました。

「先輩の左手、見て下さい」

 高岡先輩が左手を持ち上げ手首を見た。

「これは……あたしの……」

「前に高岡先輩が付けたのと同じリストバンドです」

 高岡先輩がリストバンドの端を摘まんでめくろうとした。

「あ、めくらないでください。その下には傷痕があるんで」

 もちろん、そんなものはない。

 複雑な表情を浮かべていた高岡先輩だが、やがて言わんとすることを理解したようで、すっきりとした顔になった。

「あり……がとう」

 高岡先輩の物憂げな表情がにこやかに変わった。

 たぶん、もう大丈夫だろう。

 高岡先輩は生きてここにいる。僕がその証人だ。リストバンドはその証拠だ。

 もし、また手首を切りたくなったらリストバンドを見て思い出すだろう、今日のことを。

 次の日から、食堂での高岡先輩のアンニュイな雰囲気は少し変わっていた。

 座る姿は相変わらずだらんとした上半身だったが、組んだ左脚の先は、猫の尻尾のように足がぴょこぴょこ動くようになっていた。

 そんな高岡先輩に、僕はそっと寄り添うのが好きだ。

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