第3話 わたしとの約束は忘れてください

 新しい学園生活のスタートは、見知らぬ顔ばかりで神経が磨り減る。

 寮に戻ってきてマリさんと二人っきりだと落ち着く。正確には六人プラス僕だけど。

「ところで、六人分の記憶を持っていて頭がパンクとかしないの?」

 我ながら無神経なことを訊いたと思う。

「記憶って言っても全部鮮明に覚えているわけじゃないの」

 よかった、気分を害してはいないようだ。

「脳みそを多く使っている人の記憶は鮮明で、少ししか使っていない人のはぼやけているの」

「記憶の欠落があるわけじゃないんだ」

「人の記憶って、脳みそのどこにあると思う?」

「えと、……海馬かいばだったかな」

「これは一つの説なんだけど、人の記憶は脳みそ全体にあるの。海馬は思い出す切っ掛けを作る器官。ホログラフィって聞いたことあるでしょ?」

「物を立体に映し出すヤツ?」

「そう。ホログラフィは光の干渉を利用して映し出すのだけど、それを記録しているのをホログラムというの。写真で言うとフィルムに相当する物ね。フィルムの一部を切り取ると、写真にはその部分が欠けるでしょ。でもホログラムの場合は一部分が欠けても全体の像を写すの。その代り、映像がぼやけるけど。脳もそれと同じで、特定の場所に特定の記憶があるわけじゃなくて、脳全体に同じ記憶が薄く、何度も積み重なっている状態だというの。だから、脳みその一部でも使っていれば、記憶全体を思い出せるの。もちろん量が少ないと記憶も不鮮明になるわけだけど」

「へーそういうものなんだ」

「だからエリちゃんの記憶もちゃんと覚えているのよ」

 そう言うとマリさんは目を瞑り、開き直した。

「というわけで、幾太君の幼馴染のわたしはちゃんとここに居るよ」

 後藤さん(代表)の人格が入れ替わり、エリちゃんになった。

「一緒のクラスになれてよかったね」

「あ、あぁ……」

 同じクラスと言っても、エリちゃんの席は空席だ。教室の一番後ろにある。ひょっとしたら明日にはもう片付けられているかもしれない。

「本当言うとあたし幾太君と同じ中学に行きたかったの。

 あたし、親の前ではいい子を演じてたからそんなワガママ言い出せなくて……。

 だから、幾太君とまた一緒に学校に通えるようになって嬉しいの」

「あぁ、僕もだよ」

「で、さっそくなんですが、わたしから提案があります」

「なに?」

「あの……花火大会の夜の……約束……」

 小学校三年生の時、僕たちは両親と一緒に花火を見に行った。

 その時、エリちゃんが迷子になり、僕は走り回ってエリちゃんを探した。

 やっと見つけたとき、エリちゃんは半ベソをかいていた。

 もう大丈夫だから、一緒に居るからとなだめると「ずーっと一緒に居てね。それで、大きくなったら結婚してね」と言われた。

 そのころは結婚の意味もよく知らない僕だ。「うん」と軽く返事をしてしまった。

 つまり、結婚の約束をしたのだ。

 それ以来、結婚という言葉はエリちゃんからは出てこなかったので、あの時の話だけだと思っていた。

 しかし、エリちゃんはずっと覚えていたのだ。

「大きくなったら結婚する……という?」

 エリちゃんはこくりと頷いた。

「その結婚の約束だけど、キャンセルしたいの。婚約解消。破談ね、破談」

「えっ……」

「だってそうでしょ? わたしは社会的には死んでるんだし。戸籍上も除籍されてのよ。結婚なんてできるわけないじゃない」

「でも……」

「それに、マリちゃんや他の人の体を使って結婚しても、みんなに迷惑でしょ。みんなには自由に生きてもらいたいの」

「そうか……」

「で、提案二つ目。前の約束をキャンセルした代わりに新しい約束をして欲しいの」

「新しい……約束……?」

「わたしのことを覚えていてほしいの。頭の片隅でもいいから。幾太君が誰かいい人を見つけて結婚しても、『あぁ、むかし宮田絵里って子がいたなぁ』ってたまに思い出すくらいの感じで」

「ずっと覚えているよ。忘れるものか」

 僕はエリちゃんの手をぎゅっと握った。

「嬉しい……」

 エリちゃんは僕の手を解き、人差し指を僕の目の前に立てた。人差し指の腹には「へ」の字型の傷痕が。

「じゃあ、ここで、忘れられなくなるように呪いをかけます」

「……呪い?」

 エリちゃんの顔が近づき、唇が僕の唇に触れた。

「これでもう、わたしのことが忘れられない人になった。なんたって、ファーストキスの相手ですからね」

「…………」

 突然のことで固まってしまった。再起動までに数秒かかった。

「わっ、えっ、なに? ファーストキス? えっ、えっ、僕が初めてじゃなかったらどうするの?」

「キス……したことあるの?」

「いやないけど。初めてだけど」

「よかった。じゃあ呪いは成功ね」

「確かに一生忘れられないよ……」

「もう満足したわ。ゴメンネ、マリちゃん。無理言って。もういいわ……」

 エリちゃんは目を瞑った。

 目を瞑った状態は長く続いた。

 再び目を開けたときにはエリちゃんは消えていた。マリさんの人格に戻っていた。

「部屋へ戻ります」

 そう言うとマリさんは自分の部屋へ戻っていった。

 ベッドに入り、僕はエリちゃんの最後の言葉の意味を考えていた。

『もういいわ……』

 なぜか、もう二度とエリちゃんには会えないような気がしていた。

 夢の中、僕とエリちゃんは小学校時代に戻り、一緒に駆け回っていた。


「おっはよー!」

 その朝、僕はシーツを引っぺがされて起こされた。

 起こしに来たのはマリさんだった。

「早く起きないと遅刻しちゃうぞ!」

「マリ……さん?」

「イヤだなぁ、エリだよ。幼馴染の顔も忘れたの? あっ、顔はマリちゃんのか」

「えっ、なんでエリちゃんが?」

「幼馴染と言ったら起こしに来るのが仕事でしょ! さぁ早く起きた起きた!」

「えっ、でも昨日の流れだと、もう出てこないような……」

「イヤだなぁ、幽霊じゃあるまいし、望みが叶ったからって成仏するわけないじゃない」

 よかった。昨日の、エリちゃんが消えてしまうんじゃないかという感じは杞憂だった。

 でも、これから毎朝このテンションが続くのかな。まぁいいや。

 不安で一杯だった学園生活も、なんだか楽しくなりそうだと思えた。

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