終幕 終わりは始まり
突然聞こえた声の方を辿ると、黒猫が目の前にいた。いつのまにか沖田さんのベッドの端に、ちょこんと座っていてる。わたしはぎょっとして声をあげそうになったが、猫があまりにしおらしい。思わず声を飲み込んだ。
「もう、とっくに亡くなっていた」
猫は寂しそうに、耳をぺたんこにしてため息をついた。頭を垂れて、足元をじっと見ている。
「行くのが、遅かった」
「熊吉……」
沖田さんは悲しそうに目を伏せた。猫がどれほど後悔したかと思うとやりきれない。
「我輩は、化け猫になった時に寿命が遥かに延びた。人よりもな。それで、時間の流れを読み間違えたのだ」
黒猫は項垂れている。後悔の念に苛まれるように、暗く沈むような雰囲気だ。
「あなたが熊吉だったのね」
「さよう。すっかり名乗りそびれたからな」
「ああ、そうだったわね」
構わないと猫がしっぽを揺らした。あの時は沖田さんが居なくなって、わたしも半ばパニックだった。
「お嬢さんは、あまり似ていない。来てすぐに違うとわかった」
猫は項垂れていた頭を起こし、わたしの方へ向き直る。
「けれど、我輩は沖田くんをお嬢さんの元に送り込んだ事を、間違えたとは思っていないぞ」
「……ありがとう」
胸を張った猫に、わたしは微笑んだ。
「人違いとわかったからな。本当は何もせずに帰ろうかとも思っていた。しかし、お嬢さんがあまりにも寂しそうで、つい手を出してしまった」
黒猫はそう言うと、すっと立ち上がった。そして何やら意味深な、且つ真剣な眼差しを沖田さんに送った。それを受けた彼も、極真面目な顔付きになる。
「承知」
沖田さんの短い返事に、黒猫は満足そうな表情をした。わたしは何の事だかわからないのに、猫はひらりとその身を躍動させる。
「我輩はもう行く。達者でな」
そう言うや否や、黒猫は消え去ってしまった。
「消えちゃった」
「ええ」
跡形も無くなった猫は、あの壊れかけた首輪ごと居なくなってしまった。あのふてぶてしい猫にはもう会えないのだろうか。図々しいとイライラしていたくらいなのに、居なくなると急に寂しくなってきた。
「しかしあの熊吉が、まさか本当に猫又になっていたとはなあ」
沖田さんは懐かしそうに笑った。世の中どこに縁が繋がっているかわからないものだと、沖田さんは感嘆するように息を吐く。
「本当。世間は狭いわ」
沖田さんの顔色が良い。それだけでもわたしは嬉しかった。
「ところで、みのりさん。私、もう猫にならないような気がします。完全に人に戻れたんですよ、きっと」
「どうしてわかるの? 」
沖田さんは確信に満ちた顔で話した。
「何となく、そういう感じがするんです。昔、完全に人だった頃の感覚が戻ったようなんですよ。それに、これは夢で熊吉が言っていた事ですが……今後、私が誰かを手に掛ける事があれば、次は容赦なく完全な猫にする、と」
先程の目配せも、と沖田さんは柔らかく微笑んだ。わたしも嬉しくて、霧が晴れたように心がぱっと明るくなった。
「じゃあ、そこに気を付ければ……!」
「ええ。恐らく、一生人間のままで過ごせるでしょう。本当に、彼に感謝しなければ」
「良かったね、沖田さん。沖田さんなら大丈夫よ。あんなこと、何度もあっちゃたまらないわ」
わたしは沖田さんの手をきゅっと握った。彼もそれに応えるように、握り返してくれた。
「努力します。私だってこのままがいい。それよりも。ありがとう、みのりさん。ずっと看ていてくれていたのでしょう」
沖田さんはもう一方の手で、再度わたしの頬を撫でて微笑んだ。
「愛しています。みのりさん。私には、あなたしかいない」
わたしはまた泣いた。声をあげて、子供のように。
これ以上の幸せなんて、きっと他にない。いつの間にか、沖田さんはかけがえのない人になっていた。
それからの沖田さんはみるみる回復した。
医師や看護師も驚く程、あっという間に退院できてしまった。つい最近まで意識がなく、生死をさ迷っていたなんて信じられないくらいだ。
そして、戸籍問題も片付いた。幾度もの手続きの末、無事に就籍届を出すことができた。
ただ、流石に「沖田総司」では有名すぎる。それでは何かと支障が出るだろうと思い、彼の本名である「
現代に沖田さんの写真が残っていないのが幸いだ。まさか誰も本人だとは思うまい。
ちなみに、保険証も作れた。これで医療費の全額負担も免れられる。
藤原さん、もとい沖田さんは手始めに夜間中学に通いながら仕事を探した。そして、幸運にも我が家から2駅先に剣術道場を見つけた。その道場では助手として手伝える事になった。
一度こっそり見に行ったが、沖田さんは意外と教えるのが上手だった。新人らしからぬ様子で回りにも頼りにされているようだ。けれど、乗ってくると少々やり過ぎるらしい。史実でよく言われる「荒っぽい」とか「やたら激しい」というのは、そういうところなのかもしれない。
とはいえ、現代において真剣で斬り合うことはない。その分、自分の稽古の付け方も随分丸くなった、と本人は言う。
それでもかつて塾頭を勤め、病さえなければ近藤勇の道場を継いでいたかもしれないような人だ。剣の腕前は折り紙付きだし、なにより今よりも剣術の盛んな時代で稽古した本物の武家の子息で、新撰組の最強かつ天才剣士だったのだ。現在の道場でも一目置かれる存在になっている。
沖田さんは、いずれ自分の道場を持つのだと張り切っている。新しい目標も出来たし、まずまず順調だ。
黒猫は現れない。沖田さんも、ずっと人間のままだ。 それから更に1年が過ぎた。
肩に淡い秋の陽を感じ、ぽかぽかとして気持ちがいい。わたしは沖田さんと2人で、わたしの実家の目の前にいた。
沖田さんはカチコチに緊張している。着慣れないスーツ姿でさらに窮屈そうだ。わたしたちは2人して玄関先でそわそわしている。
「総司さん、大丈夫? 入る前から疲れてない? 」
「大丈夫。それよりも、きちんとご挨拶しなければ」
そうは言うものの、総司さんの顔は引きつり強張っている。
「そんなに緊張しなくてもいいのに」
「そいつは仕方ないさ。何たって、みのりのご両親なんだから。近藤先生、トシさん、おミツ姉さん。私の一世一代の大勝負です。どうか草葉の陰から見守っていてください」
よし、と気合いを入れる総司さんを見ながら、わたしは草葉の陰から彼を見守る3人を想像してしまった。
「草葉の陰……」
「だって、みんなとっくに死んでいるんだから」
「今度、お墓参りしようか。近藤さんのは知らないけど、土方さんのは墓碑くらいあったと思うの。そうそう、総司さんとお義姉さんのお墓もちゃんと残っているのよ? 」
そう言うと、総司さんの顔がますます引きつった。緊張を解すつもりが、却って逆効果だっだろうか。
「いや、私のは止そう……もう当分、死にたくない」
総司さんは何かを振り払うように、ぶんぶんと首を横に振った。
総司さんが玄関チャイムを押す。家の中で母が返事をして、バタバタと玄関に向かって来るのが聞こえてきた。
両親には総司さんが幕末から来たことをまだ教えていない。彼があの沖田総司だと言ったとしても、信じてもらえるかどうかは分からない。また一波乱起きるかもしれない。けれど、総司さんの人柄を分かって貰えればきっと大丈夫だろう。
さわやかな風に吹かれるような気持ちで、わたしは総司さんを見上げた。彼も顔をこちらに向けて、微笑み返してくれる。彼の後ろには、晴れて澄み切った秋の空がどこまでも広がっていた。
後で聞いた話だが、母が玄関を開けた時に、わたし達の後ろに黒い猫が座っていたらしい。猫はしっぽを大きく一振りすると、直ぐにいなくなってしまったそうだ。
完
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