第3話「人と幽霊の境界線」
翌朝も、そのまた翌朝も、ジュンは朝早くやって来た。ストーブをつけ、部屋が暖まると合唱の練習をした。
お世辞にもうまい歌ではなかった。
不器用で、直截で。だけど懸命さが伝わってくるような歌い方だった。
試しにとわたしが伴奏してあげると、ジュンはぽかんと口を開けて驚いた。
「う……上手いな……。さすがはピアノの精……っ」
「……誰が精よ。わたしは幽霊よ。ピアノにとりついた幽霊」
「だ、だけどすごく上手い……っ」
拳を握って力説してくる。
「ふふ……ありがと。もしかしたら、生きてた頃はピアノ家志望の女学生だったのかもしれないわね?」
「…………だったかもしれない……か」
ジュンは考え深い顔をした。腕を組み、薄い唇を震わせるように何ごとかをつぶやいた。
ある時、ジュンがわたしに聞いて来た。
「なあ……頼子さん。ボク……ピアノを弾こうかと思うんだ」
「なぁに? 歌を歌うのに飽きた? 疲れた? 諦めた?」
「そ……そうじゃないよっ。たださ……智恵が歌を歌いたそうにしてたから……っ」
心外だというように、ジュンは声を荒げる。
「智恵……」
誰だっけ。わたしは首を傾げた。知らない女の子の名前。
「ああ……あのバレッタのコね? ピアノの上手い」
初日に「猫踏んじゃった」を弾いたコだ。
「そうさ。あいつはなんでも器用にできるやつなんだ。ピアノだって当然上手い。だけど本当は歌うほうが上手いんだ。海外の合唱団にいたっておかしくないようなやつなんだ。でも、この学校には他に満足にピアノを弾けるやつがいないから……。でももし、ボクにそれが出来るなら……」
分校のイメージアップにつながる……か。
「んー……でもあと2か月……か」
息継ぎ、発音、ビブラートのきかせ方にいたるまで、最近ではけっこう堂にいってきたジュンだ。いまここで歌を放り出すのは非常に惜しい。
でも、もともとが集中力あのる男の子だ。同じくらいの真剣さで打ち込んだなら、合唱曲一曲程度なら期日までに弾きこなすことが出来るようになるだろうと思えた。
「……ダメかな? 智恵がってだけじゃなく、出来ればみんなが喜べる形にしたいんだけど……」
「まあいいんじゃない……? ……ジュンがそう思うんなら。実際にやるのはあなたたちだし」
わたしはなんとなくモヤモヤしたものを抱えながらもジュンの申し出を承諾した。
瞬く間にひと月が経過した。
いよいよ合唱会の日が近づいて来た。
歌をピアノに変えてもやはり、ジュンの上達は早かった。時々音を外すことはあるが、まず上々といえる演奏だった。
ある日のことだ。定刻になっても、ジュンは練習に来なかった。
遅刻寸前に教室に駆けこむのをからかう声が、開いた窓から聞こえてきた。
放課後、みんなが帰ったあとにこっそりと、ジュンは音楽室に顔を見せた。
「……遅かったわね。もうやる気なくなった?」
なんとなく腹立たしいものを感じて、ついつい素っ気ない態度をとってしまった。
「ごめん……ちょっといろいろあってさ……」
ジュンはぽりぽりと頭をかきながら、でも決して理由を説明しようとはしなかった。
ジュンの遅刻はそれからも続いた。
放課後に謝りに来ないことすらもたびたびあった。
表情から徐々に生気がなくなり、肌艶が悪くなった。昼間でもいつも眠そうにしていた。集中力が散漫になり、生あくびが多くなった。
「……ねえ、ジュン」
ある時、とうとうたまらなくなって、わたしは練習の終わりを提案した。
「早起きが負担ならそう言って? 練習が辛いならそう言って? それとも、単純にやる気がないだけ?」
ジュンは呆然とした顔をしていた。すぐにわたしが怒っていることに気がついたようだが、それでもはっきりとした答えは返さなかった。
「やる気は……あるよ」
唇を噛むようにうつむいた。
じっと、嵐が過ぎるのを待つ姿勢だ。
わたしの説教を
「……っ」
わたしの中の何かが冷えた。
「そう……わかったわ。けっきょく、わたしのひとり相撲だったのよね? ふたりで頑張って合唱会を成功させようと思ってたのはわたしだけだったのよね?」
「え……ちょっと頼子さん……?」
ジュンは驚き、ぱっと顔を上げた。
「いつも眠そうにしてるけど、夜更かしでもしてるの? テレビ? マンガ? インターネット? 集中力が途切れがちだけど、何か他のことでも考えてるの? ──たとえば、智恵ちゃんのこととか」
「……なに……言ってるんだ?」
わたしにもわからない。
でも止まらなかった。感情が堰を切ったように溢れた。
「いいのよ別に。人間には人間が一番いいに決まってるもの。女のわたしから見ても、智恵ちゃんはいいコだもの。ふたりで上手くやるといいわ。わたしみたいなおばあちゃんなんて気にしなければいい。ついでにここでのことも全部忘れてしまえば?」
──体が震える。
──何かが胸にこみ上げる。
「ちょっと……頼子さん……っ?」
目を赤くしながらピアノの中に逃げ込もうとしたわたしの手をジュンが掴んだ──掴もうとした。
だが霊体のわたしに、生身のジュンが触れることは出来ない。
掌と掌。手首と手首。腕と腕。肩と肩。
わたしの体を貫くように、ジュンが移動した。住む世界の異なる存在が重なり合った──瞬間。
──バヂッ。
特大の静電気が発生したように、青白い閃光が弾けた。
「うわわっ!?」
ジュンは衝撃で尻もちをついた。
「い……いまのは……っ!?」
放心したように己の手を見ている。
火傷はしていない。怪我だってしていない。
だけど何かが反発した。
目に見えぬ壁が、そこにはあった。
「……あなたは人間で、わたしは幽霊。そういうことよ」
胸が張り裂けそうだった。
幽霊と人との間の、断固とした境界線。
「……だからあなたも、もうわたしに関わるのはもうやめなさい。もう……来てはダメよ──」
「頼子さん!?」
ジュンの声を背中に浴びながら、わたしはピアノの中に逃げ込んだ。
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