Action.14 【 闇に眼を凝らせば 】
あの子の声が聴こえる。
闇の向うから、あの子の泣き声がする。
勇気さえあれば、女の子は死なずにすんだのかも知れない。後悔で胸が張裂けそうだった。
私はベッドの中で眼を凝らして闇と
十五年連れ添った夫と離婚調停中だった。
私たちは子なし夫婦だが、夫と共同でデザイン事務所を経営していた。街のタウン誌や店舗のパンフレットを作る会社で、夫が営業や外注などを手掛け、私は経理や校正などをやっていた。二人三脚で会社も順調だったのに……夫が仕事を依頼していたイラストレーターの若い女と浮気して妊娠させたのだ。
夫は子どもができたが、その女と結婚する気もないし、相手の女もそれを望んではいない、妻とは絶対に離婚したくない。だが、生まれてきた子どもは自分が引き取って育てたいというのだ。
――なんて虫のいい話なの?
身勝手な夫の言い分に腹を立て私は家を出ていった。アパートを借りアルバイトをしながら離婚の準備をしていた。
夫から何度も戻って欲しいと懇願されたが聞く耳を持たない。私に子どもが産めないからって、若い女を妊娠させたことが絶対に許せないのだ。十五年暮らした夫とその生活に未練もあるが、子どもを産めない女の意地だった。
アパートは和室六畳とキッチンだけの単身者向きだった。
引っ越しして感じたのは壁が薄いこと。隣の部屋は夫婦と子どもが住んでいるようだが騒がしかった。特に子どもの泣き声と大人の
ひょっとして虐待かと思ったが、ここは借り住まいで離婚が決まったら慰謝料でマンションを買う予定だったので、物騒な隣のことは無視しようと思っていた。
夕方、仕事から帰ったら部屋の前に子どもが
「どうしたの?」
無視しようかと思ったが、つい声を掛けてしまった。五歳くらいの色白でクルッと目の大きな可愛い女の子だった。
「ママを待ってるの」
まだ三月で外は寒い。その子は薄物のTシャツとスカートに裸足だった。
その寒々しい格好に思わず、
「おばちゃんの家で待ってる?」
私の部屋に招き入れて、温かい牛乳と菓子パンを与えたら、お腹を空かせていたらしくガツガツ食べた。
女の子を観察すると風呂に長く入ってなさそうで薄汚れている。頬に殴られたような青痣と足にもたくさん傷があった。コップを持つ手の甲には煙草を押しつけたような火傷の痕が……。
――間違いなく、この子は虐待されている。
大変なものを見てしまったという動揺の方が大きかった。
「おばちゃん、ありがとう」
お腹が膨れて満足そうに女の子が微笑んだ。
「その傷はママに叩かれたの?」
「……違う。転んだの」
とても転んだ傷とは思えない。ママを
「あたち、ディズニーランドへ行ったことあるよ。パパとママと行ったの」
いきなり、そんなことを喋りだす。
「ミニーのハンカチ持ってる」
クシャクシャのハンカチを見せた。
「パパが買ってくれたの。本当のパパだよ」
「今のパパは本当のパパじゃないの?」
その質問に女の子の表情が引き
外で呼び声がして、女の子が慌てて飛び出していった。ドアを開けたら、髪を引っ張られて女の子が隣の部屋に入るところだった。
「……寒そうだったので中で待つように私が言いました」
怖い顔で女が睨んだ。
「うちの子に余計なことをしないで!」
連れのガラの悪い男にいきなり
「コラァー! てめぇぶっ殺すぞっ!」
凄い剣幕で脅されて私は震えあがった。
この家族とは、二度と関わり合わないでおこうと決心した。
その夜、怒鳴り散らす声と子どもの泣き叫ぶ声が、隣から聴こえてきた。
また虐待されていると思ったが、怖くて警察に通報できなかった。私は耳を塞いで布団を被った。
翌朝から急に静かになったと思ったら、隣の住人は家賃を滞納して夜逃げしたらしい。
一週間後、管理会社の人が片付けに部屋に入ったら、押し入れから毛布に包まれた少女の死体が発見された。
うちに警察が事情聴衆にきた。少女が虐待死だと聞かされて、私はショックで倒れてしまった。
夫が見舞いにきてくれた。ひと月振りに見る彼は
会社は自分一人では、立ち行かないので整理して残った現金を慰謝料に支払うと約束してくれた。――深々と頭を下げ、署名捺印した離婚用紙を置いて、静かに帰っていった。
虐待を知りながら通報しなかった。
あの女の子を見殺しにした、私は罪人だ!
そんな私が夫を責められるのか? 生まれてくる命に罪はない。
闇に眼を凝らせば、奪われた小さな命が見える。
朝になったら夫に電話することを決めた。二人で赤ん坊を育ていこう、それがせめてもの私の罪滅ぼしなのだ――。
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