Action.10 【 失したものは、 】

「この中に失くなっているものはありませんか?」


 机の上に並べられた、携帯、時計、財布、手帳、眼鏡、血の付いた衣服。

 これらの品物の持ち主が今はいない。そこに並んだ遺品と同じように、私もよるない身の上となった。


 いつものように夫は朝食を食べながら、新聞を読み、時計を見て、出勤する身支度を整えた。「お帰りは?」私が訊くと、「たぶん、ちょっと遅くなるかもしれない」と曖昧に答えた。

 玄関まで夫を見送って、朝食の後片付けをしてお掃除を始める。ごく普通の主婦の日常だった。

 結婚して十八年、私たち夫婦には子どもがいない。

 妊娠しても、その度に流産を繰り返し、結局、子宝は授からなかった。「子どもがなくても、二人で仲よく生きていこう」と言ってくれた。体が弱く引っ込み思案な私を、いつも励まし支えてくれたのは、夫の存在だった。


 そんな暮らしが一変したのは、遅い時刻にかかった一本の電話だった。

 警察から夫が事故にあったので至急病院にきてくださいと連絡があった。慌てて住所をメモし、入院している夫の着替えと保険証を持って家から飛び出した。

 気が動顛どうてんして車の運転ができないので、道路に出てタクシーを探すがなかなか捕まらない。ようやく『空車』と表示が出ている車に手を上げて飛び乗った。

 メモを運転手に渡したが、その病院は会社からも自宅からも遠く離れた場所だった。

 病院に着いて、受付で名前をいうと係の人が案内してくれたが、エレベーターに乗るとなぜかB2のボタンを押した。エレベターは病室があると思われる階上ではなく、地下へ下りていく……不安で心臓がドキドキし始めた。

 ――そこは線香の煙が立ちのぼる霊安室で、面会したのは夫の亡骸だった。予想だにしなかった事態に唖然あぜんとし、声も発しないまま、私の身体はその場にくずれた。

 それから後は朦朧もうろうとした意識の中で、まるで映画でも観ているような、心ここに在らず――。ショックで声が出なくなった、まるで人形みたいな私の代わりに、妹夫婦が会社や親戚への連絡、葬儀の手配など全てやってくれた。


 なぜ夫は知らない場所で事故にあったのだろうか?

 警察の説明によると、ワゴン車を運転していた加害者は、スマホの操作に夢中になって信号が変わったことに気づかず、横断歩道に突っ込んできた。青信号で渡っていた被害者(夫)が、撥ね飛ばされて道路に叩きつけられた。救急車で搬送される時には、まだ意識があって「どうか妻に届けて……」というのが臨終りんじゅうの言葉だったという――。

 今さら事故の状況なんか、どうでもいい。

 重要なのは夫が死んでしまったという事実だ。十八年間、寝食を共にした人生の伴侶を失い、独りぼっちで生きていかなければならない――この現実。

 夫の庇護がなければ、とても生きていけない弱い人間のこの私が……残された。


 四十九日法要が過ぎた頃から、孤独と不安で夜も眠れなくなった。

 毎日毎晩泣き続けて疲弊ひへいしていた。声を失い絶望と悲しみが私の精神をさいなむ。気力を失くした空っぽな心、喪失感――それは大きく渦を描いて命を呑み込もうとしていた。

 私には子どもがいない、両親もすでに亡くなっている、妹がいるが結婚して家族がある。喋れない姉を心配して、時々、様子を見にきてくれるが、中学生と小学生の子どもがいるので家のことも忙しい筈。これ以上、迷惑をかける訳にはいかない。

 ――私が消えたって、誰も困らない。

 死を決意したら不思議と気力が湧いてきた。身の周りの整理を始める。自分の死後、妹夫婦に遺産を譲るつもりで遺言状も作成した。夫婦の遺骨を納める永代供養の霊廟れいびょうも購入する。この世に何も未練はない、一刻も早く夫の元へきたかった。


 そんな或る日、突然の誕生日プレゼントが届いた。

 真っ赤なバラの花束と柴犬の仔犬、それは亡くなった夫から私への贈り物だった。花束に添えたカードには夫の自筆で、

『お誕生日おめでとう。この新しい家族を大事に育てていきましょう。』

 カードを手に茫然とする私、自分の誕生日なんかとっくに忘れてしまっていた。

 二ヶ月ほど前に、生まれたばかりの柴犬の仔犬を見にきて、この子をご主人が自分で選んだのだとペット業者が話してくれた。

 たぶん夫は今見てきた仔犬のことを考えながら、妻に贈ったらどんな顔するだろうと、はしゃぐ気持ちで横断歩道を渡っていたのだろう。――そんな夫の命を鉄の凶器が一瞬にして奪った。


 黒い瞳の仔犬は可愛らしく、見ているだけで癒されてしまう。

 抱きあげると温かい命の鼓動を感じた。いつだったか「子どもがいないのなら犬でも飼おうかしら」といった、私の言葉を夫は覚えていたのだ。

 死を決意した私の元に、このタイミングで仔犬が届いたということは、天国の夫が私に生きて欲しいと望んでいるから?

 そう思うと目頭が熱くなり瞼が震えて涙が溢れ出した。私の頬を伝うしょっぱい水を仔犬がペロペロと、その温かな舌で舐める。

 愛おしい生き物よ! この新しい家族を私は夫から託されたのだ。


「おまえと一緒に生きていこう」


 声と、生きる希望を私は取り戻した。

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