Action.6 【 エプロン 】

 珠美たまみは行くあてもなく真夜中の街を歩いていた。

 エプロン姿にサンダル履きのまま、家を飛び出してきてしまった。今日は結婚記念日だというのに、12時を過ぎても夫は帰って来なかった。

 お祝いの料理と花を飾って待っていたのに……何度、携帯にかけても留守電のまま繋がらない。おかしい、もしかしたら夫は浮気をしているのかも知れない。――そんな猜疑心さいぎしんが頭をもたげてくる。

 ここ2~3ヶ月、夫の帰宅の遅い日が頻繁にある。

 帰って来ても疲れた顔ですぐに寝てしまい、自分に何か隠し事をしているように思えてならない。いくら訊いても曖昧な返事しか返って来ないし、はぐらかそうとする夫の態度に、ついに珠美の怒りが爆発した。


 頭に血がのぼった状態でフラフラ歩いていたが、ブルッと寒気がした、晩秋の夜風は冷たく、上着もきてない珠美だった。通りにファミレスの看板が見えてきた。

 エプロンのポケットを探ると、買い物のお釣り小銭が5百円くらいあった。飲みものならいけるだろう。店の前でエプロンを外してから入った。

『いらっしゃいませ、何名様ですか?』

 お決まりの台詞せりふを訊かれた。

 人差し指を立てて一人を示すと、ウエイトレスが窓際のテーブルに案内した。メニューの説明を始めたが聴かずに、

「コーヒー」

 ぽつりと呟くと、ウエイトレスは「コーヒーですね」と確認してから下がった。

 深夜のファミレスは閑散かんさんとしていた。サラリーマン風の中年男性、派手な格好の若い女の子、いわくあり気なカップル……まるで行き場のない漂流者たちみたいだ。

《部屋を飛び出した私を夫は追いかけても来てくれない》その惨めさに涙が零れた。


 珠美と貴志たかしは一年前に結婚したが、子どもはまだいない、小さな工場に勤める夫の収入は少なく、珠美もパートで働いている。

 二人は珠美の両親から結婚を反対された。貴志は幼い頃に両親が離婚、母親は再婚したが義父とその家族に馴染めず孤独な少年時代だった。高校の時に母親が病死したため家を出て、たった独りで生きてきた。

 貴志と知り合った頃、彼は『狼のような目』をしていた。

 それは孤独で荒んだ心を映すような瞳だった。その頃、彼は年上の女性のヒモみたいな生活で『薔薇と酒の日々』を送っていた。女性関係も派手でいわゆる遊び人だったが、世間知らずの珠美と知り合ってからは、人が変ったように真面目に働くようになった。

 結婚の意思が固まって、珠美の両親に貴志を会わせたが「どこの馬の骨とも分からない男に、大事な娘はやらん!」父は激昂げっこうした。

 貴志は高校中退で家族もいない、グレて悪さをした時期もあった、そんな男との結婚を両親は許さなかった。かたくなに父は貴志と会おうともしないし、仕方なく、家を出て貴志のアパートで暮らし始めた。

 結婚記念日と言っても、式を挙げていない二人には婚姻届を出した日のことである。


 ここまで貧しいけど、二人で頑張ってきたつもりだった……それなのに、それなのに、夫の様子が変なのだ。もしかしたら自分に飽きて、新しい女ができたのかも知れない。

 結婚当初、アパートには元カノたちがよく訪ねて来たが、その度に貴志は事情を説明して来ないように納得させていた。――でも、もし外で会っているとしたら?

 今夜も遅くに帰って来て、珠美が夕食の用意をしている間に貴志は炬燵こたつで寝てしまった。起こしても、起きないし、無理やり起こしたら寝ぼけてて、せっかく彼が大好きなビーフシチューを作ったのに口を付けず、またウトウトし始めた。

 そんな態度に腹が立って、珠美はテーブルの上の料理をひっくり返して、泣きながら家を飛び出してきたのだ。


 ファミレスのテーブルで少しウトウトしたようだ。コーヒー一杯で朝まで粘っていたが、そろそろ帰ろうと重い腰を上げた。

 夜明けの街を震えながらアパートに帰ったら、部屋の前で誰かがうずくまっていた。

「貴志!」

 その声に男はゆっくりと顔を上げた。

「お前、どこに行ってた。俺、街中を探しまわったんだぞ!」

 怒ったような声だが、安心した顔だった。

「心配で俺、お前の実家にも電話したら、お義父さんに娘を不幸にするなら、すぐに返せと怒鳴られた」

「お父さん……そんなことを……」

「俺は珠美を幸せにするから、絶対に返さない」

 そう言うと、ズボンのポケットから小さな箱を出して珠美に渡した。

「なに?」

「開けてみろ」

 箱の中には指輪が入っていた、小さいがダイヤが付いている。

「婚約指輪も買ってやれなかったので、一年遅れだけど……それ買うのに週に3回、閉店後のパチンコ屋で清掃バイトやってたんだ。今日に間に合うようにと……けど疲れて肝心な時に寝てしまった」

 あははっと貴志が笑う、その言葉で全ての誤解がとけていく。

 左の薬指に指輪はピッタリだった、嬉しくて泣きだした珠美を優しく抱きしめて、

「ずっと俺の傍にいてくれ」

 孤独な人生だった貴志にとって珠美は唯一の家族なのだ。

 夫の言葉に深く頷くと、涙が溢れて止まらない……両親に許されて、幸せな夫婦になれる日もそう遠くはないだろう。

 今日、エプロンで拭ったのは幸せの涙だから――。

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