超絶タバコ嫌いな妹と喫煙者の兄が論争する話

ンヲン・ルー

第1話 タバコを吸う場所がない!(兄観点)

 時計の針が午後五時を指した。

 平日なら業務終了を知らせるチャイムが鳴る時間だが、日曜である本日は無音のまま時間外勤務に突入する。休日出勤なので時間外のそのまた時間外だ。

 周囲は皆そわそわと時計を気にしながらも席を立とうとしない。

 上司に遠慮しているのだ。ベテラン社員ですら動こうとしないのに、入社二年目の俺にこの空気を打ち破れるはずがない。

 十秒、二十秒と無意味な時間が過ぎていく。

 早く解放してくれ。さっきからずっと我慢してるんだ。

 無意識のうちに胸ポケットに手が伸びる。

 ――タバコ吸いたい。

 もちろん、今ここで吸えないことはわかっているから、すぐに手を引っ込める。

 でも気を抜くと本当に吸ってしまいそうだ。

 貴重な休日の時間を意味もなく削られるのと相まって、かなりイライラする。

 そんな俺の気持ちなど露知らず、上司は自分の席で仕事に没頭している。

 いったいどれだけ仕事が好きなんだよ?

 それとも何か帰りたくない理由でもあるのか?

 だとしても部下を巻き込まないでくれよ。

 午後五時を五分ほど過ぎたところで、ようやく上司が腰を上げた。

 すると、それがチャイムであるかのように皆も立ち上がった。

 ふう、これでようやくタバコが吸える。

 と言いたいが、まだそうはいかない。

 俺は早足で上司のところへ報告に行く。

「お疲れ様です予定分の仕事は終わりましたのでお先に失礼します」

 我ながらとんでもない早口だった。だが言いたいことは伝わるはず。

 ついでに俺たち被害者の気持ちも伝わってほしいところだが……。

「なんだ、もう帰るのか?」

 万分の一も伝わらなかった。実に嫌味のこもった口調だった。

 だが、この石頭に何を言っても無駄だ。それより早くタバコ吸いたい。

「今日はもう特にやることがないようなので……」

「なんか手伝うことがあるだろ。もう一回確認してこい」

 嘘だろ……。

 この上司はよほど俺にタバコを吸わせたくないらしい。

 馬鹿馬鹿しいと思いながらも俺は先輩方に何か手伝うことはないか聞いて回る。

 結果、やはり仕事はないと上司に伝えると、

「あ、そう。お疲れさん」

 ようやく退社を許可された。最後まで嫌味な口調だった。

 そんなこんなで、タイムカードを押す頃には五時十五分になっていた。

 十五分も無駄にした。

 たかが十五分で細かいこと言うなって?

 今日一日限りのことなら我慢するさ。けど、こんなのが毎日続いたらどうだ?

 二日で三十分、十日で一五〇分、一年で――考えたくもない。

 おっと、そんなことよりタバコだタバコ。

 今、俺の身体は何よりニコチンを欲している。

 競歩めいた速度で喫煙室に向かい、扉を開ける。

「よう、お前も帰りか?」

 喫煙室には先客が一人いた。

 部署は違うが先輩社員だ。ネクタイを緩めているので俺と同じく五時帰りのようだ。

「そうです。お疲れ様です」

「お疲れ」

 あいさつを交わしてから先輩の向かいの席に座る。

 それからタバコを出し、火をつけようとしたところで気付いた。

 部屋の中央にあるテーブル型吸煙機の電源が入っていない。

 先輩は気付いていないようなので、俺がスイッチを押す。

 ――動かない。

「吸煙機、壊れてますね」

「みたいだな」

 先輩は知っていたようだが、平然とタバコを吸っている。

 吸煙機が機能しないとなると、煙の逃げ場所は小さな換気窓一つだけ。ちょっと煙たい。

 少しの間迷っていると、先輩が声をかけてきた。

「どうした? 吸わないのか?」

「いや、吸煙機を付けないと服が臭くなるかなと思って……」

「なんだ、そんなこと気にしてるのか。真面目だな」

「うちの妹が嫌がるんですよ。大のタバコ嫌いなもので」

「ふ~ん。でも、ここで吸っておかないとしばらく吸えないだろう?」

「それはそうですけど……」

「第一もう遅くないか? 今まさに煙を浴びてるわけだし」

 その一言で気持ちが一気に傾いた。実はもう限界なのだ。

 これ以上我慢なんかしていられるか!

 俺はタバコに火をつける。

「ふうー」

 ホッと一息。耐え難いまでのイライラが弾けるように霧散する。

 まさに至福のひととき。

 俺はこのために生きているとさえ思う。

 しばらくして、一本吸い終えた先輩が不満そうに言う。

「しっかし、副流煙の次は匂いまでダメとはな。ほんと、愛煙家には肩身の狭い世の中になったよ」

「そうですね。俺らが子供の頃は、そういうこと言う人あまりいなかったんですけどね」

「ああ、いなかった。なんでこんな風になっちまったんだろうな?」

「それはまあ、喫煙者が減ったからでしょう。いつの時代も少数派は肩身が狭いものですよ」

「だな」

 先輩はタバコをもう一本出し、火をつける。

 かなり煙たくなってきた。後でスーツの上を脱いで匂いを払った方がよさそうだ。

「にしても、最近うるさ過ぎると思わないか? たかがタバコくらいでよ」

「大衆は空気に流されやすいですからね。でもまあ、実際身体に悪いわけですし、仕方がない部分もあるんじゃないですか?」

「けどよ、それを言ったら車の排気ガスだって工場が出す煙だって身体に悪いだろう。むしろそっちの方がタバコなんか比べ物にならないくらい環境を汚染しまくってるじゃないか。俺はそういうのをもっと規制した方がいいと思うんだけどな。だいたい、国や企業のトップが滅茶苦茶やってるのに、なんで俺らだけきちんとしなけりゃならないんだ? おかしいだろう? 人のこと言う前に、まずは上が手本を見せろと言いたいわけだよ、俺は」

 話が逸れてきたところで、新たに男性社員二人が入ってきた。

 吸煙機が動かない状態で四人も同時に吸っては煙まみれになってしまう。

 もう一本くらい吸っておきたい気分ではあったが、後のことを考えて俺は退室させてもらった。



 あの先輩社員が言うことはもっともだ。タバコが身体に悪いのは認めるが、近頃は過剰に反応し過ぎではないかと思う。

 右を見ても左を見ても、禁煙、禁煙、禁煙。

 今、日本の公共施設はどこもかしこも禁煙で、タバコを吸う場所がない。

 都会の駅周辺は路上すら禁煙ときた。ちょっと一服しようと思ったら喫煙席のある喫茶店にでも入らなければならない。タバコを買うのにお金を払っているのに、吸うのにまたお金を払わされるなど我慢ならない。

 そうはいってもダメなものはダメなので仕方がない。中には禁煙区域でもお構いなしに吸う輩もいるが、俺はそこまでする気になれない。法律は守る。社会人として当然のことだ。たとえ国や企業が滅茶苦茶やっていてもだ。

 会社を出ると、例によってそこは路上禁煙区域だ。

 駅構内は当然の如く全面禁煙。電車の中も全面禁煙。

 途中、無料で利用できる喫煙所はどこにもない。会社を出てから四十分以上タバコを吸える場所がない。

 やっと吸えるのは電車を降りて駅から出た後だ。ここなら禁煙ではないから吸える。

 といっても、駅を出た直後はまずい。なにしろ人が多い。こんな人混みでタバコに火をつけるのはさすがに非常識だ。

 もっとも、常識の定義は人それぞれ。

 駅を出た直後に平然と吸い出す人間もけっこういる。

 それどころか、駅から出る手前あたりで火をつけてしまう人間も時々見かける。

 あれは喫煙者の俺から見てもひどい。

 そこまでして一秒でも早く吸いたいか? あと数メートルが我慢できないか?

 そういう態度が喫煙者全体の印象を悪くして、結果的に自分の首を絞めることになると自覚してほしいものだ。

 駅から二、三十メートル離れ、人通りがまばらになる。

 さて、吸うか。

 俺は歩きながらタバコをくわえ、火をつける。

 ふうー。

 再び、至福の時。

 我慢した甲斐があった。むしろ、我慢するからこそ反動でより良い快感を得られることもある。そう思えば、この抑圧も悪くない。

 厳密には、たとえ禁煙でなくとも路上でタバコを吸うのが良くないのはわかっている。

 人混みでなくとも、人が全くいないわけではない。ひょっとしたら今俺の後ろに誰かが歩いていて、副流煙を吸わされているかもしれない。

 でも吸う。

 さすがにそこまで構ってはいられない。

 違法ではないのだから、吸えるチャンスがあれば吸う。

 文句があるなら俺たちが払った税金でもっと喫煙所を増やしてくれ。

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