新 ムンク「浜辺の少女」は吸血鬼だよ

麻屋与志夫

第1話 浜辺の少女の1


「ついてきてはダメ」

 ぼくはあたりを見回した。

 耳の奥に直に声がひびいてきた。どこから、聞こえてきたのだろう。落ち込んでいるぼくを励ますような凛とした声だった。でも、悲しいことには、キョゼツの言葉だ。

 16時17分発の日光行きの列車はまだ到着していない。通学列車だ。時間まぎわになれば、高校生でラッシュとなる。いまのところは人影もまばらだ。

「ついてこないで」

 若い女性の声はさらにつづいた。

 潮騒が、その澄んだ声の回りで、BGのように聞こえている。たしかに、海辺の波の音だ。波の音などするはずがない。ここは海のない栃木県は宇都宮のJR駅。日光線のプラットホームだ。世界文化遺産の日光までいくローカル線だ。外人の観光客がちらほら見える。この声は少女だ。ホームに少女の姿は……。

 レコーダーで潮騒のアルファ・サウンドでもきいているのだろうか。海岸にひいてはよせる、時の流れのなかで太古よりくりかえされてきた、白い波頭の砕ける音がしていた。

 ぼくは海辺に立っているような錯覚に陥った。

 鈴をころがすようなハイトーンの声の主を求めて、ぼくの視線がホームを探索していくと……いた。それらしい少女のシルエットがホームのはずれに。

 遥か彼方の後ろ姿だけの少女。「日光」の方角を見ている。

 潮風でもうけているようにワンピースのすそがゆれている。

 あそこだけ潮風が吹いているのだ。あまりにも、アンリアルな思念だった。でもそのおもいを素直に受け入れてしまっている。少女には、そう信じさせる風情がある。

 あれは――ムンクの〈浜辺の少女〉の後ろ姿だ。

 若者をうっとりとさせる清々しい後姿だ。長いワンピースの裾が風に揺れている。でも……とても声がとどく距離ではない。長い金色の髪。遠く沖合を見つめている姿。ふりかえって、こちらをみてもらいたい。――若者を虜にする、まだ顔をみていない、美少女の神秘的な立ち姿。

「ついて……こないで」

 こころに直接ひびいてくる。声だ。

 白いワンピースなのに青味をおびた色。長いこと着ているので布地が薄青く色変わりしている。そう感知するのは、ぼくが野州大学の油絵専攻の学生だからだ。

 剣道で鍛え上げた体からは、ぼくが画家志望であることを想像できるものはいない。ぼくの繊細な感覚を知るものはいない。 

 あれは……浜辺の少女だ。毎日のように絵画部の部室で観ているムンクの傑作。もちろん、複製画だが、ぼくは好きだ。

 スレンダーなウエスト。いまどき、あまり見かけない長めのワンピース。薄茶色の革のベルト。色褪せていた。すべてが古風だった。


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