神々の骰子、妖術師の弟子たち、その他の物語集

𠮷田 仁

第1話 3年土星組の修学旅行

「それでは、最初にTsathogguaツァトッグァ様の御家族の事を記したのは誰でしたか、阿澄あすみさん」

 先生に指された髪の長いやや派手な風の少女が立ち上がった。ネクタイの結び目がややだらしなく、全体に緩めの雰囲気の子だ。

 「はい、先生、Eibonエイボン師です」大きな眼を輝かせて少女は答えるが先生の「違います」の一言に意気消沈し沈黙して座ってしまう。

 「では、御園みそのさん」

 先生は、阿澄さんの前に座っていた生徒、つまりこのわたしを当てる。「はい、先生、Pnomプノム師です」「はい、その通りです。Pnom師はEibon師よりも前の時代の博物学者兼妖術師ソーサラーで、Eibon師はPnom師の書いたものを読んで勉強したのです。Pnom師は現在知られている限り、当時HyperboreaヒューペルボレアZhothaqquahゾタクァ様と呼ばれていたTsathoggua様御一族の太陽系到来について記した最初の人物です。ですが記述はあまり正確ではありません。彼はTsathoggua様のご両親であらせられるGhisguthギズグス様とZstylzhemgniズスティールゼムグニ様、Ghisguth様を単独でお産みになられた両性具有のCxaxukluthクザズクルス様、Zstylzhemgni様を分裂増殖でお産みになられたYcnagunnissszイクナグンニスススズ様、それにTsathoggua様の地球到来に大いに貢献された父方の叔父のHziulquoigmunzhahフジウルクォイグムンズハー様の事しか記していません。Tsathoggua様のご兄弟については・・・」先生の話を聞きながら、わたしは来週行われるこのクラスの修学旅行について想いを馳せていた。

 「・・・何も記していません。又、Tsathoggua様のお后についても同様で、彼は初めの頃はChushaxクーシャクス様もしくはZishaikジシャーイク様としていたのですが、後にはShathakシャータク様こそがお后の名前であるとしました。それで長い間、Zishaik様もChushax様もShathak様の事であると、考えられて来ました。しかしZishaik様とChushax様がそれぞれ太陽系内に居られる事が確認され、又、Tsathoggua様とそれぞれのお后との間の御子が多数確認され、何よりTsathoggua様とShathak様の御子がZvilpogghuaズヴィールポッグァ様しか記されていない事から、今ではほぼ定説に成っていますが、Pnom師は研究を続けていた或る時期にZvilpogghua様の信者と成り、以後、Zvilpogghua様中心に記し続ける様に成ったのではないかと考えられています。その為、Tsathoggua様の子孫であらせられる事は判っているものの・・・」修学旅行はクラス単位で週をずらして行われる。何か有った場合、学年全体に事態が及ぶと対処しきれぬからだと云う。先週は火星組が行き、今週は木星組が行っている。そして来週がいよいよわたし達土星組の番と云う訳だ。来週と云っても今日は土曜日だから明後日からなのだが。

 「・・・今一つ父親がはっきりしていなかった大いなる姉御Sfatlicllpスファトリクルルプ様は矢張り系図でZvilpogghua様の次に記されている通りにZvilpogghua様の娘であろうと云われています。ちなみにZvilpogghua様の御子の記述が無く、又、Sfatlicllp様の御子としてKnigathinクニガティン Zhaumザウム様のお名前しか残されていないのはPnom師の時代には、まだSfatlicllp様しかお生まれでは無く、又、Sfatlicllp様もまだKnigathinZhaum様しかお産みでは無かったからです。そしてPnom師の研究を引継ぎ纏めたEibon師はTsathoggua様の系譜についてはPnom師の纏めたものしか知らず、只、当時、Sfatlicllp様の御子のKnigathin Zhaum様の事が世間に流布していたので・・・」修学旅行は班毎に行く先が違う。又、班全体で持ち物を用意する事も出来る。例えば火星組の中にはボートを持って行った班や移動バンガローとキャンプセットを持って行った班も有る。わたし達の班もその辺りは抜かり無く、既に持って行くものの用意は出来ている。

 「・・・その事を書き加えただけでした。今は女妖術師ソーサリスZudarllaズーダルラ師が書き記したものや、埃及えじぷとKlarkashクラーカッシュ-Tonトン師が記したものが発見され、又、戦後Averoigneアヴェロワーニュの古い遺跡の発掘が人知れず進んだ事や、何よりTsathoggua様の血筋の神々や血縁の神々と人類が遭遇する様に成って、遭遇者達に依り神々の名前や実態が報告される様に成りました。例えばEibon師は土星でTsathoggua様の眷属と思しき小神達の像を幾つも見たとBook of Eibonエイボンの書の中の、『エイボン師とモルギ僧正の土星珍道中記』には記されていますが、今ではそうした神々の名前の多くが判明しています。又、昨年迄の調査でEibon師は土星キュクラノーシュに居住後、そうした神々の多くと・・・」

 チャイムが鳴り、先生は本日は此処迄とだけ云い置いて教室から出て行った。その後姿を見送りながら、わたしは先生の性別について考えた。と云うのは先生の代名詞は、矢張り”彼 ”か ”彼女 ”の方が ”それ ”より良いかな・・・と想うからだ。いや、これはわたしだけの考えだが。

 先生はキノコだ。人間では無い。町の外の人達には秘密だが、先生達は外宇宙からやって来て冥王星ユゴスに前線基地を作って暮らしているキノコの進化した生物の一員だ。良く間違える子が居るが、先生達は冥王星に殖民しては居ない。飽くまでも冥王星は前線基地なのだ。近年、人類が探査衛星を太陽系の外縁に向けて飛ばす様に成って来たのでキノコ達は人類の冥王星への関心を減らすべく、密かに天文学者達を操って冥王星を惑星にしては小さ過ぎるから小惑星に変更しようと云う提案をさせようとしている。只、その努力はあまり功を奏しているとは云い難い様だったが。

 「あかり~、帰りに買い物つき合ってよ」と声を掛けて来たのは、かおるさんだった。女性神官の家系である祝家の跡取り娘だ。嘗て日本では女性が神職から外された時期が有ったが、わたし達には関係無かった。大いなる古き者グレート・オールド・ワンへの信仰に対し明治政府の政策は無効だった。特に様々な大いなる古き者の司祭や神官や巫女達が政府や軍の上層部と繋がりを持つ様に成ってからは、益々日本は口を挟もうとはしなく成ったのだそうだ。一見神道の神社である社などは、表向きは神社本庁に組み込まれていて、その実、内閣府や軍のみが管理し通達を行う様に成っている。もっとも、この天開町あまびらきちょうに建立されている全ての社は、そこからも外れている。明治に成って少しして町名が一時変わった時には河津かわづ神社のみが大いなる古き者と関わりがあると見做されて軍の直属の様な形に成ったものの、昭和に入って間も無く河津神社が火事で消失すると軍の眼も町から離れた。ちなみに河津神社は今から四年前、町名が明治以前の昔ながらの天開町に戻される頃に再建された。町のシンボルとして。しかし町の外に対するアピールは成されず、観光客が訪れる事も無い。巨大な蟾蜍ひきがえる、それも日本の蟾蜍では無く欧羅巴よーろっぱ蟾蜍の形をした神殿と狛犬の代わりに神前に侍る二匹の蝦蟇は世の好事家達に知られたら殺到される事は必定だった。だからだろう。河津神社の撮影は境内だけでなく外からも厳禁とされ、町の外では口にする事も禁じられていた。町の名前が昔の名前に戻った事についても、所詮は小さな町の事、これっぽっちも注目される事は無かった。尤も今から考えると、その辺りも計算され尽くしていたのかも知れない。

 わたしはその日、かおるの買い物につき合った。かおるも修学旅行ではわたしと同じ班で、彼女の買い物も見当はついていた。彼女の親友が向こうに居るのだ。本当だったら、わたし達と同じ班の一員として修学旅行に臨む筈だったジェーンは、この春、事故で御両親が無くなり二年生の終業式を待たずに学校を中退すると向こうに行った。亡くなられたお父様に代わって桜川流を継ぐ為に。今はお祖父様の指導の下、修行中の筈だった。夜、テレビのニュースでは埃及大統領が暗殺されたとアナウンサーが騒いでいた。ジェーンのご両親が生きていたら、その役はお二人だったかも知れない。今の埃及の大統領と云ったら、秘密警察を動員して大いなる古き者の信者を密かに狩り立てている事で知られていた。わたし達、大いなる古き者達への信仰に生きる者達の間では。まあ、兎に角、修学旅行には何ら影響は無さそうだった。


 朝は寒い。標高が高い事もあって、この町では夏を除いて朝夕には気温が下がる。九月を過ぎると朝はぐっと冷え込んで寒く感じられる。

 修学旅行決行日当日、いつもより早く教室に集合した土星組の面々は班毎に異なる格好をしていた。分厚い毛皮や防寒衣を用意している班もあれば、水着と変わらぬ姿で寒そうにしている班もある。わたし達の班は一応防寒コートを用意して来たが、予定通りならば着用する事は無い筈だった。

 一つの班は五名で合計五つの班に成るところが、わたし達の班だけ四名だった。土星組は二年の時、ジェーンが学校を中退した為、総勢二十四名に成っていた。他のクラスは火星組も木星組も二十五名、今は二年生、つまり来年には三年生に成る筈の月組も水星組も金星組も、そして一年の天王星組、海王星組、冥王星組も全て一クラス二十五名だ。試験は入学試験のみで、編入試験の制度は無い。途中で一人欠けても編入試験を行う事は無いのだ。

 同じ班に成る暗黒寺さんが挨拶して来た。彼女は忌み名である自分の名前を呼ばれるのを嫌っているので、わたしや暗黒寺さんと親しい人は彼女を名前ではなく姓で呼ぶ様にしている。もう一人、同じ班の姫もやって来た。姫と云うのは本名ではない。お姫様の様に上品な美人なのと彼女の姓から付いた渾名だ。本名は白雪りつと云う。幼稚園の頃はりっちゃんと呼ばれていたそうで火星組に居る彼女の幼馴染は、彼女をりっちゃんと呼んでいるが中学以降に彼女と出会った人達は、皆、彼女を姫と呼んでいる。

 時間に成り、皆、校庭に移動を開始する。他の生徒達の登校前だ。わたし達の班は門の所に停車していた充電式の大型トレーラーに案内される。馴染みの有る強い異臭に振り向くと、キノコの先生達の先導で大きなタンクをShoggothショゴスが運び込んでいるところだった。Shoggothの臭いは馴染みの無い人には耐え難い悪臭と感じられるらしいが、所詮は慣れだ。ぐねぐねと蠢く玉虫色に輝く塊の上に乗せられた円筒形のタンクは、下から伸びた無数の触手に依ってShoggoth自身に固定されている。こうして見ているとShoggothは動く緩衝材の様に見えた。

 荷物の関係で大型トレーラーで運ばれて行くのは、わたし達の班だけだった。二つの班は充電式のマイクロバスで、残る二つの班はどうやら徒歩か他の移動手段に頼る様だった。徹底した防寒スタイルの班は校庭に残った方だった。彼女達は確か南極行きだ。リュックや荷物を収めた四角いコンテナが横にあるので、もしかしたらShantakシャンタク鳥にでも運んで貰うのかも知れない。もう一つ残った班は普通の服装で、何か黄金色の飲料を皆で回し飲みしている。判った!Celaenoケレーノ星系だ!Pleiades星団すばるの中の五等星、名前の由来はギリシャ神話で、TitanティーターンAtlasアトラースOkeanisオーケアニスの一人Pleioneプレーイオネーとの間に生まれた七姉妹の五女Celaenoケライノーで、この星系内に巨大な図書館が在るのだ。確か黄金の蜂蜜酒を飲んで特殊な笛を吹くと、蝙蝠に良く似たByakheeバイアキーがやって来て召喚者の魂を宇宙へ運んでくれる。只、図書館には、矢張り大いなる古き者の一柱であるCthulhuクトゥルゥ様に敵対する何処かイッてしまっている盲目の老人が居る可能性が高く、このCthulhuボケの老人については何処であれ見かけたら近付かぬ様にとは学校側からの注意事項だ。とは云え遭遇してもCthulhu様の信者や眷属でもない限り問答無用で噛み付かれたりする訳では無いから、夢の次元の月に棲息するGugガッグなどよりはずっと安全な筈なのだが。

 わたし達は全員、天開女子高等学校の制服だ。尤も、うちの学校の場合、登録しさえすれば制服として使用可能なので見た眼はまちまちで知らぬ人達から見ると一寸変わった私服の様に見えるかも知れない。わたしは可愛いらしく蝶ネクタイにブレザーだが、暗黒寺さんは露出の多いアメコミに登場するスーパーヒロインの如き際どさで、姫は着物をアレンジしたデザイン、かおるさんは巫女と間違われかねない水干姿だ。

 朝、まだ早い事もあって天空の門へ向かう道はわたし達のトレーラーと、他の二班をそれぞれ乗せたマイクロバスだけだった。昔は乗り物毎の移動は適わなかったらしい。矢張りバブルの頃、門の内部を車輌ごと通過する事が認められたと云うが、それでもまだ門の中ではトロリーバスが縦横に走っている。巨大な洞窟内部の移動には当時、線路を持たず排気ガスも出さぬトロリーバスが乗り物として最適だったらしい。確かに昔は電気自動車など無かったし、路面電車は線路の上しか移動出来ず、トロリーバスが一番理に適っていたのだろう。

 大型トレーラーは出口の前で停車し、わたし達はそこで下車した。そこからは徒歩だ。荷物は先生達が用意してくれた飛行トレイに積み替えて先に目的地迄運ばれて行く。それを見て、わたし達も乗せてってくれれば良いのにとはかおるの言葉だが、人間には、いや、地球の生物にとっては可成り辛いものに成るのだと体験者である叔父から聞いて知っていたので、わたしは賛同しなかった。他の班を乗せたマイクロバスはそれぞれ異なる出口に向かって行ったらしく、大きく「ようこそ土星へ」と書かれた看板を潜って外へ出たのはわたし達だけだった。

 洞窟を出ると、そこは薄明の世界だった。初めて感じる土星の風は冷たかった。しかし足元は暖かい。菌の死骸が溜まって一見土の如き土星の地へわたし達は「せ~の」の掛け声で揃って第一歩を踏み出した。途端に足元から腐葉土の臭いに若干の腐敗臭、それに濃すぎる菊の花の香を混ぜ合わせた様な独特の臭いの籠もったもわっとした空気が立ち昇り、わたし達を温かな湿気が取り巻く。湿度が高いのも土星の大地上での特徴だ。但し地球と違って黴たり腐ったりしない、いや、黴たり腐ったり出来ないのも土星の特徴の一つなのだが。

 修学旅行は班単位で行き先を選択出来る。半数以上の班が、クラス名の元に成っている天体を選択しがちだと云うが、土星は人気があまり無いと云う。入学時に土星組と決まって以来、土星に対する憧れを募らせて来たわたしにとって意外な話だったが、理由を聞いて納得した。土星の日本人は江戸時代末期から明治の初めに掛けて移って来た人々が中心で彼等の価値観がそのまま支配している。勿論、若い人達も沢山暮らしている筈だが、いまだ江戸時代、明治時代生まれの人々が土星で長寿を得、百年以上経て、尚、長老として君臨しているのだ。その為、風紀上の問題が有るのだと云う。公共の場で下着姿どころか全裸でも平気で、野合もいまだに有るのだそうだ。実際、十年くらい前にも修学旅行生達が、道端で裸で交わっている男女を見掛けたと云う。尤も、わたし達も仕える神様に依っては公衆の面前でそう云う行為をする場合も有るので、その程度で動揺してはいかぬとは、親や教師達の云い草だが。それでも年頃の娘であるわたし達にとってはいささかきついものが有る。それで昭和に成ってから日本人が入り込んだ冥王星などの方が人気が有るのだと云うが、嘗て冥王星組に在籍し修学旅行に冥王星に行った母に云わせると、冥王星の日本人達は男尊女卑が強くて嫌だと云う。考えてみれば制度としての男尊女卑は欧米の列強各国を真似た明治政府の指導に依り始められたもので、裸を見せる事を悪しきものとする価値観もその頃に導入されたものだ。

 ところで土星にも日本人以外の人々が暮らす町は幾つか有るが、風呂、正確には皆で入れる大浴場が有るのは人口の半数以上が日本人で占められている町に限られている。嘗て町の半数が日本人で占められている町で大浴場を作ろうとした処、猥らであるとの理由で禁止されたと云う。わたしの従姉妹はHyperborea人達が入植した町の一つに行った事が有るそうだが、彼女は町全体が、特に屋内が臭かったと云っていた。

 わたし達は先ずは徒歩でEibon街道に沿って進んだ。わたし達の町でのみ使用されている教科書にも載っている『エイボン師とモルギ僧正の土星珍道中記』に記載されているルートだ。観光客はそのままEibon師とMorghiモルギ僧正、今日では司祭と書かれる事の方が普通なのだが、その二人が歩いたと云う旧街道へ折れたがる。しかし、わたし達は今の街道を進み続けた。幅広く平らな道だが、嘗ての河床だった所だ。河と云っても液体状の金属水素の河で、Eibon師がHziulquoigmunzhah様と遭遇した場所でもある。此処を金属水素が流れなく成って久しく、幕末の頃に翻訳された『エイボン師とモルギ僧正の土星珍道中記』に従って此処へ日本人達が入植し始めた時には既に河は枯れてしまっていたと云う。尤も河は枯渇したのでは無くHziulquoigmunzhah様が全部飲み干されてしまったのではないかとも云われていたが。

 一日目は街道の終わりの谷間にキノコの先生達が運んでおいてくれたトレーラーハウスでキャンプだった。わたし達が街道の端にトレーラーハウスを見つけると、番人代わりのShoggothがぐねぐねと人懐っこくわたし達を歓迎してくれた。水と食糧も予定通りにトレーラーに用意されており、その日の夕食は土星の地表でバーベキューだった。トレーラーハウスは風呂こそ無いものの洗面所、トイレ、シャワーは完備されている。ちなみに土星に住む人々で第二世代以降の人達は、トイレをあまり必要としない。地球と違って腸内には細菌の代わりに土星土着の胞子が入り込み、お世話に成っている。この胞子達の活動に依り固形物は体外に出る時には乾燥していて紙粘土の塊の様に成り、水分は腸内胞子の死骸とくっ付いて青っぽい蒟蒻状の塊に成る。それ等を中世の欧羅巴ではないが表に放り出しておけば地表に巣食う胞子類が立ち所に分解してくれる。それでも出す時は一応他人の眼の届かない所で行う習慣に成っている。いずれにせよ腐敗していない綺麗な状態と云うのが羨ましい。この恩恵に預かれるのは、生まれた時から此処に暮らしている人達だけだ。まだ腸内に棲息者が居ない状態の時に胞子が入り込んで独占するからで、地球で生まれれば当然、腸内細菌の独占に成る。だから地球で生まれた者達にはトイレが必要なのだ。嘗ては此の地の家々にはトイレが無かったと云うが、地球からの移住者や旅行者が増えた昨今はトイレ付が当たり前に成っている。



 翌朝は真夜中だった。いや、時計では朝なのだ。でも真っ暗だった。月々明つきあかりに暗い地表がうっすらと見える程度だ。土星は一日の内に朝と夜が複数回やって来る。知識としては知っていたが、成る程、こう云うものなのかと云う感じだ。鰺の干物と納豆に味噌汁と沢庵で朝御飯を食べ、わたし達はトレーラーハウスを出た。トレーラーハウスはShoggothからの信号を受けて、キノコの先生達が来て回収してくれる手筈に成っている。

 Morghi河に出てボートで進んだ。Morghiの河流れのエピソードで知られる急流で、土星には数少ない真水の流れでしかも珍しく温水でも熱水でも無い河だ。河の流れが緩やかに成る辺りに嘗てEibon師の庵が有ったそうだ。ついでに云うと対岸には昔は塔が建てられていたのだそうだが、今は跡すら残っていない。

 河も又、菌類が形成する土星の大地の一部で、此処も重力は地球程度だ。とは云え、重力が低く成っているのは菌類の中に低重力菌が居る場合で、有効範囲は菌の多さに比例する。河の場合は河床の更に下に菌が居る訳でそこに居る菌が少なければ、水面の下で低重力圏が終わってしまう可能性も有る。嘗ては街道でも旅人が不意に土星本来の高重力に捉われて身動き出来無く成り、そのまま餓死してしまったと云う例が有ったらしいが、今は街道だけは定期的にパトロールが行われている。パトロールの中には土星の核附近に棲まうと云われている大いなる古き者の一柱で超菌類の女王|Dellonghaを召喚出来る者が必ず一名は居て、万一、重力が正常の所が有ればDellongha《デロンガ》を召喚し、彼女の落とし仔達の一つである低重力菌の株をその地に落として貰うのだ。菌類は土星の大地の上層に巣食う菌類の一種を常食としており、忽ちの内に繁殖して行く。排泄も行われ、これが他の菌類の排泄物と混じって土星の大地の独特の臭いの元と成るのだが、同時にこれが一定の範囲の低重力圏を発生させる。何故彼等の排泄物が低重力をもたらすのか、物理学的な研究は未だ足踏み状態らしいが、通常、土星の大地は上空方向に一万メートルは低重力圏であると云われている。もっとも、稀に深さ数千メートルの地割れなどが現れるのが土星なので、万一、深さ一万メートルを超える地割れでも在れば、その上は地上と同じ高さで既に土星本来の重力に成ってしまっている事に成るので用心が必要だ。幅数十センチの地割れを飛び越えようとして重力に引かれて地の底へ落下する事故も、数年に一度は起きているらしい。まあ、河の場合は深さは一万メートルどころかせいぜい十メートルくらいなので、心配は要らぬのだが。

 尚、Morghiの河流れと云うのは、Eibon師と共に土星流しの目に遭った、嘗てはEibon師の敵でYhoundehイホウンデーの僧侶であるMorghi司祭が、何故か行き成り出現した河に嵌って漸く流れの緩やかな所で河から這い上がったら、そこはEibon師の庵の真ん前だったのだと云われており、これが河の名の由来にも成っているMorghiの河流れだ。

 地表もしくは地中の水が冷たく無いのには理由が有る。土星では水は氷から出来る。土星の地表はガスの上を厚さ数万メートルに渡って覆う菌糸の屍骸と、その上を数十メートルから数分メートルに渡って覆う生きて活動中の菌糸、そして最上層を覆うのは菌糸の生態活動から発生した分泌物と云った構成だ。だが、この最下層である菌糸類の屍骸で固められた地下にも僅かながら活動中の菌類も棲息しており、活発な菌が多い時は、その熱で氷が溶ける場合が有るが、温度は辛うじて零度を超えている程度から暖かくても冷泉程度だ。更に最下層である菌糸類の屍骸の更に下のガス中に、嘗ての古き神共エルダー・ゴッズ古き者共オールド・ワンズの争いの余波と云う事に成るらしいが、落下して菌類の屍骸に埋もれたままCthughaクトゥグァの子等が眠っていたりすると、近くの氷は熱で融解して液体と成る。それが稀に地上に出ると河か湖、又は池と成る。中には沸騰した湯水の場合も有るが、適度な温度だと温泉に使える。

 Morghi河の中程で明るく成って来た。土星の輪を構成する物質の一部が陽光を何倍にも増幅して反射して地表を照らすのだ。尤も照らすと云っても地球暮らしに慣れたわたし達から見れば薄明り程度なのだが、それでも月々明りに見るよりは、遥かに物が良く見える。

 やがて岸辺にボートハウスが見えて来たので、わたし達はそこでボートを降りた。地面はわたし達が土星に第一歩を踏み出した所よりずっと熱かった。地下に居る菌類の活動が活発化しているのか、それとも活動中の菌類が地表に出て来ているのか、どちらかだろう。この辺りなら二階建てでも寒くはないかも知れない。足元の菌類はうまくすれば顔の辺りくらい迄は大気を暖めてくれるが、「身の丈の五尺を超えて頬寒き、足元暑き土星暮らしかな」の川柳にもある通り、土星の大気は基本的には冷たい。尤も、この川柳に歌われている頬の辺りにしても、本来の大気温度からすればまだ暖かい。菌類の発する熱は可成りのもので、四階建ての塔を作っても天辺の温度は零下四十度程度を保っていられる。但し人が普通に住むには屋根を低くした二階建てが限界だと云われている。

 ボートハウスから少し歩いた所に地下街への入り口が見える。此処から先は菌類の屍骸の堆積が山と成り地崩れを起こし易いので地上は立入禁止区域にされている。

 地下街は狭く、天井も低い。恐らく高さは二メートルも無いだろう。横幅は人が三人並び立てる程度だ。人の体臭に菌類の匂いが入り混じった臭気が立ち籠めていて、菌類の中に洞窟を掘ったせいか暑くてじめじめしていた。

 姫、大丈夫?と暗黒寺さんが気遣う様子を見せたが、姫は全身から汗を滴らせながらも大丈夫だと答えていた。姫は普通の人よりは暑さに弱い。彼女はIthaquaイタクァ様の末裔に当たる。姫の何代か前の母方の祖先がIthaqua様が人間の女性にお産ませに成ったご令息だったそうなのだ。そしてIthaqua様の直系の血筋に当たる人間は、暑さに弱く寒さに強い。しかし姫に流れる大いなる古き者の血はそれだけでは無い。Sfatlicllp様がとある人間の男性を寵愛され、その人間との間にお産みに成られた流血と復讐の御女神、血を以って成す報復の姉御Tattanuiquellsphooorタッタニケルスポーオオルが、今度はAtlachアトラック-Nachaナチャ様との間に人の皮をも被れるご令嬢にして忍びと暗殺の御女神たるまんじ絡新婦じょろうぐもFereriorフェレリオール-Barrellmonfoバーレルモンフォをお産みに成られ、かの忍びと暗殺の女神が女郎に身を変じておられた時、そうとは知らぬ伊藤博文に札束を渡された際、事の最中さなかに開戦の知らせがもたらされ、それでも万事を耳にしながら精力を殺がれもせず事に及んでいる政治家の姿に興味を示された女神は、この男の子供を産んでみようと気紛れを起こされ、それでこの世に生を受けた男性が、姫の父方のお祖父様なのだと云う。只、女神の期待外れだった事に政治家は生物的にも生命力でも凡庸な人物だったらしく、生まれて来た息子もごく普通の人間でしか無かったそうだ。そんな訳で、姫はthaqua様の子孫にしては暑さに抵抗力が有るのだ。それでもわたし達に比べれば暑さに弱い筈だった。暗黒寺さんは自身も大いな古き者の血筋なので、姫にも人一倍気を遣いがちなのだろう。暗黒寺さんはVhuzomヴゥゾム・・・何とかと云う両性具有の海の神様の娘だ。生物の性的快楽を己の糧とする大いなる古き者で、魔女の家柄である暗黒寺家の跡取り娘だった母親が、Massachusettsマサチューセッツ州で同州のDunwichダンヰッチから流入して来た魔女達の末裔が住むと云う港町に行った際、湾での召喚儀式に参加して身籠ったのが暗黒寺さんだ。父親が海棲神なので人一倍乾燥に弱く、今も背中から伸びた数本の触手の先にそれぞれペットボトルを抱えて歩いている。

 地下街は数メートルおきに入り口が開いている。たまに障子の引き戸が閉まっている所も有るが、大抵は開け放されていて中が丸見えだ。ひょいと見るとシャツにステテコ一枚で胡坐をかいているおじさんと眼が合ってしまって、慌てて顔を逸らした。ちなみにお店や何かの事務所の場合は暖簾が入り口に下がっている。わたし達のコースでは、物が買える所はこの地下街が最後なので、皆、此処でお土産を探した。あまり観光客が来る事は無く、来てもこの惑星ほしの他の日本人街からの人々が殆どなので、下手すると地球では使用出来無いものも有るので要注意だ。銃や刀もそうだが、例えば綺麗だが、此処で販売されている観賞用菌類は此処の地中に棲息している菌類を糧としているので、地球へ持って行ったら忽ち死んで塵に成ってしまう。

 わたしはTsathoggua様の眷属をモデルにした掌サイズの彫像を幾つかと真空パックに成っている菌類で作られた土星麺を幾つか買った。かおるさんはCthugha様を象ったアクセサリー類と矢張り土星麺を、暗黒寺さんはZstylzhemgni様の落とし仔達の似姿の置物を幾つかと土星酒の詰め合わせを、姫はSfatlicllp様のタペストリーと菌類製のパンとクッキーの詰め合わせを買った。

 地上に出ると伝書Shoggothが待っていた。ジェーンからで、内容は二点、わたし達の目的地に関する指示と、わたし達との待ち合わせ場所についてのものだった。ジェーンは、わたし達の目的を知っていて何処を目指せば良いか前もって調べておいてくれたのだ。何しろ事前の調査では大雑把にしか判らず、月組に依る昨年も、天王星組に依るその前年も、先輩達は目的を達せ無かったのだ。そう云う点では、今年のわたし達には秘かに期待が寄せられていた。「どうも土星組の人達の時は失敗しないってジンクスが有るみたいなの」とは、かおるさんのお姉さんで二年先輩のあきらさんの言葉だ。

 わたし達は、その伝書Shoggothにお礼を云って先に進んだ。

 暫く進むとぽつりぽつりと平屋の建物が見え始め、その中に一軒だけ二階建ての家が見えて来た。看板には”鰆カフェ ”の文字が躍り、牛鍋屋の幟が脇に立っている。幟の手前には、栗色のストレートな長髪に整った顔立ちで、水色の地に人参とピーマンをあしらった裾の長いワンピースの上に茶色の革のベストを羽織り、テンガロンハットとブーツ姿の娘が居た。横には彼女の背丈よりも長いドリルが地に突き立てられている。彼女は、わたし達を見るとすぐに手を振って来た。こちらも皆、一斉に手を振る。彼女こそが、わたしの親友のジェーン桜川だった。ついでに云うと彼女が今纏っているのは、彼女が天開女子高に通っていた頃の制服でもある。ドリルを持っている所を見ると、晴れて桜川流掘削術の免許皆伝と成った様だ。土星式井戸掘削術は江戸時代から明治時代に掛けて幾人かの日本人達に依って開発された。ジェーンの祖父もその一人で、薩摩士族の一員でありながら西郷のやり方について行けず他の士族達と衝突し西南戦争の最中さなかに地球から出奔、土星の地で古き神エルダー・ゴッドの一柱と遭遇して重力子ドリルを授けられた事から桜川流掘削術の開祖と成った人物だ。現在、開祖である桜川剛之進の弟子や孫弟子が幾人も土星各地で活躍中だ。しかし剛之進は子供には恵まれ無かった。彼は土星で結婚したものの最初の妻と子供は土星の地に於ける地球人居留地間の紛争に巻き込まれて死亡、再婚したものの二度目の妻と子供は、今度は大いなる古き者共と古き神共の覇権戦争に巻き込まれて死亡、天秤を維持する者達を名乗る第三の神々の介入に依り土星が一種の緩衝地帯と成った事で三種の神々それぞれが祀られ居留地間の紛争も無くなってから、剛之進は三度目の妻を迎えた。しかし三度目の妻との間に生まれた子供は父の故郷である地球に憧れを抱いた。そして彼は父の許しを得て日本へ赴いた。時あたかもバブル経済の時代、そこで日本に居続けたいと願った彼は戸籍の壁にぶつかってしまう。土星生まれの彼は日本の、いや地球上の何処にも戸籍が無かったのだ。土星の居留地からの要望が有れば天開町では戸籍を用意して貰える。しかし一時的な日本行きの形であった為、剛之進は息子の戸籍取得を依頼していなかった。彼も剛之進の手前、戸籍取得を父に願う事はしていなかった。けれども或る日、彼はアメリカから来たTsathoggua様を信奉する秘密結社のグループと接触し、その一員と成った。そして秘密結社の一員であるアメリカ人女性と恋仲に成り、そこで初めて事情を剛之進に話し日本で暮らしたいからと戸籍の取得を願い出たのだ。剛之進は息子の我侭を認め戸籍を取得させた。二人は結婚すると日本を中心に世界各地で暗躍したが、妻が身籠ると、天開町に職を得て落ち着いた。そこで生まれたのがジェーンだった。しかしジェーンが幼稚園に上がる頃、二人は再び結社の一員として活動を開始、結局、剛之進の妻が二人の所へ行って一緒に住み、ジェーンの面倒を見る様に成ったのだ。お蔭でジェーンは両親の顔をあまり見る事無く幼稚園、小学校、中学校と進み、高校の時に不意に両親は亡くなった。二人の乗った旅客機が事故で墜落し乗客乗務員全員が死亡したのだ。死亡事故とて扱われたが、たまたま桜川家に侵入しようとして剛之進の妻に捕らわれた古き神の騎士団Orders of the Elder Godsの一味に依り、事故が両親を狙った彼等の仕業である事を知ったジェーンは復讐を果たし、祖父の跡継ぎと成る事を決めたのだった。あの時のジェーンの辛そうな顔は今も忘れられない。同時に復讐を果たした後の晴れやかな顔も憶えている。あの時からこちら、わたしは一度もジェーンの辛そうな顔を見た事は無い。彼女の顔はいつも笑顔だ。

 ジェーンは今も変わらぬ笑顔を見せると地面に突き立てられ重力レベルで固定されているドリルから鍵を外し、わたし達と一緒に店内に入った。さわらの姿の名物店長が「いらっしゃい」と迎えてくれる。この鰆カフェは鰆が店長をしているカフェなのだ。カフェと云っても定食や鍋物もやっており、下手するとそちらの客の方が多いらしいが。

 どう見ても鰆が縦に成っている様にしか見えない店長は腹部から伸ばした六本の腕を使ってカウンターの中で器用に料理をしている。ちなみに手の先は六本指だ。彼は大いなる古き者の一柱で名をJybdequellellollジブデクレロルと云う。Tsathoggua様の子孫なのだ。土星に行けばTsathoggua様の子孫が多いので、すぐに大いなる古き者に会えると想っている人も少なく無いが、それは間違いだ。土星を歩いていても滅多に出会えるものでは無い。なので、この店は必ず大いなる古き者に会える店として観光客に人気だった。わたし達が席に着くと、尻尾で器用に跳び跳ねながら店長が鍋と具材を持って来てくれる。店長は前に人間に変身して日本に居た事が有るらしい。そこで或るチェーン系のカフェを気に入って土星に戻った後、わざわざ日本人の街でカフェを始めたのだが、そこで店名を間違えたのだと云う。鰆カフェの名前は本当は魚偏では無く木偏にすべきだったらしい。つまりは植物の、花の名前を付けるべきだったのを、魚の、食用魚の名前にしてしまったのだ。しかし、そこは流石にTsathoggua様の子孫。すぐに鰆を調べてその姿に変身したのだそうだ。そして、嘗てはEibon師が書いている通り蛙に似た姿をしていたものの、今ではこの姿を気に入っていて新たな自分の姿に定めたのだと云う。人間向きの名前もどうやらその時に決めたらしい。Tsathoggua様の子孫なのに、こうして働くのが好きでサービスも良いと云う評判の神様だった。

 五人で土星牛と土星で栽培された野菜、それに土星独特の菌類を用いた土星風牛鍋を堪能して、わたし達は近くの温泉に向かった。Shicthagghuahシサッグァー様と云うCthugha様の娘に当たる炎の女神様をお祀りしたお七神社の境内に池と云うより湖の如き温泉が在る。何故、お七神社と呼ばれているかと云うと、自分がまだCthugha様の娘と気付かず只の八百屋の娘として日本に居た頃の名がお七だったからだ。しかし不意の発情に依り肉体のメタボリズムが急速に変化し、放出された体熱が原因で江戸の街を焼いてしまい、人間として死刑に処された際に人間としての肉体を放棄、後、天道宗の僧侶の仲立ちで土星に来て、今はこの地下でゆっくり眠っているのだと云う。

 脱衣所は無い。男女関わり無く手頃な所で服を脱ぎ、池の中に入る。広いがボート類の使用は禁止されており、事故に遭う心配は無い。中央は深いものの、今の所、溺死者の話は無い。溺れかけた人は居るかも知れないが、普通は助かる。と云うのは温泉の底の方には入浴客達を怪我から守るべく硬く尖った岩などを自らの身体で覆っているShoggoth達が居り、誰かが沈めば彼等が助けてくれる。又、この温泉には何処で知ったか深き者達が来ている事も有り、彼等が貧血で入浴中に倒れた人を救助したと云う話も有る。変わった所ではMordbelponzodarモルドベルポンゾダールと云う鷲の翼を背に生やした橙色のカピバラの如き姿をしたTsathoggua様の子孫の神様が溺れかけて、偶々水浴びに来ていた一体のShantak鳥に救われたと云う話も有る。まあTsathoggua様の子孫なのだから溺れた所で温泉の底で眼を回してのぼせているだけだと想うのだけれど。

 わたし達は用心して岸に近い浅瀬の所に居た。下手に中央迄泳いで行って足の届かぬ所でのぼせて倒れでもしたら面倒な事に成る。実際、お湯はわたしにとっては少し熱めなくらいだった。姫も熱そうにしていたが、入れぬ程では無さそうだった。日本ではプールや公衆浴場を避けている暗黒寺さんも、此処なら存分に裸体を晒す事が出来る。此処ならば、下半身から触手が何本か飛び出していても誰も気に留める事は無い。触手が水面から飛び出して愉しげにゆらゆらと揺れている事から彼女がリラックスしている事が判る。只、先端が男性器そっくりなので、わたしはあまり見ない様にしていた。

 少しして上がると、巨大な池の端からお湯が川と成って流れ出て行くのを見ながら牛乳を飲み、わたし達は火照った身体を冷ました。全裸のまま温泉のほとりに佇んでも此処だと全く恥ずかしい気がしないのが面白かった。ちなみに牛乳は土星産だ。地球から連れて来られた乳牛や肉牛がこの地に設けられた牧場で育てられており、牛乳もチーズも肉も全てこの惑星で生産されている。

 服を着た後、わたし達はShicthagghuah様に参拝した。地元の人達は湯から上がったまま裸で詣でる習慣らしく着衣での参拝はわたし達くらいのもので少々居心地が悪かった。又、男の人も素っ裸で居り、少しばかり眼のやり場に困ったものの、しっかり見るべき所は見てしまった。尤も眼を逸らしながらもちらちらと見ていたのは、わたしとかおるさんだけで、姫は眼を逸らす振りも見せずにじっと男の人達の股間を凝視していたし、暗黒寺さんは顔を上気させて妖しい雰囲気を醸し出していた。服を着ていて矢張り良かったと想った。暗黒寺さんは性的な刺激に弱い体質で、恐らく、今、彼女の身体は顕著な反応を示している筈だった。それに触手も性的興奮で大きく形を変えてしまっているだろう。わたし達は境内の森などをしばし散策し、その間に暗黒寺さんも落ち着いて来て元に戻った。その後でわたし達は目的地に向かった。街道どころかその他の道路からも外れた山道を足早に進む。

 下り坂の途中で此処からは静かにね、とジェーンに注意され羊歯類の茂みを抜けてゆっくり進むと谷間に出た。正面にる小山の如き巨体が見える。皆で顔を見合わせて頷き合い、わたしは信号のスイッチを入れた。少しして空からドラゴンの如き姿に変じた巨大なShoggothに吊られて大型のタンクが降下して来る。その気配に小山が動くがその機を逃さず、わたしは精一杯叫んだ。「Hziulquoigmunzhah!」

 小山の如き巨体が、のろのろとわたしの方を向く。降下して来たタンクの中身が開きHziulquoigmunzhah様が興味深げにそちらに顔を向けた。粘り気の有る液体重金属がHziulquoigmunzhah様の足元に流れて行く。土星には存在していない種類の重金属で、日頃、Hziulquoigmunzhah様がお飲みに成られているものより上質な液体金属だ。Hziulquoigmunzhah様の好物である事は、過去の修学旅行で実証済みだ。案の定、Hziulquoigmunzhah様は足元に流れて来た重金属に舌を伸ばして美味しそうに食事を始められた。それっとばかりにわたし達はHziulquoigmunzhah様の方に向かう。タンク一杯の量はAzathothアザトースの孫たるHziulquoigmunzhah様にはほんの二口ふたくち三口みくちの量であらせられた様で、アッ、と云う間に土星の菌類がもたらす大地に注がれた液体金属は干されてしまった。そして舌をしまわれたHziulquoigmunzhah様は、わたし達の接近に気付かれると面倒臭げに「Iqhuiイクィー dloshドロッシュ odhqlonqhオドクロンクー」とだけ仰られ、その場にうずくまってしまわれた。Eibon師の土星上陸第一歩の際に矢張りHziulquoigmunzhah様から告げられた土星語をわたし達もこの耳にしたのだ!そして、わたし達があっちに行くのをHziulquoigmunzhah様は何もせず、只じっと待っておられる。Hziulquoigmunzhah様は御自身で何かをされる事を。面倒臭がっておられるからだ。

 今の内だ。わたし達は皆揃って「は~い」と声を張り上げるとHziulquoigmunzhah様の前に並んだ。ジェーンは降下して来たShoggothにドリルを預けると一緒に並ぶ。そのShoggothは頭上から伸ばした触手の一本をわたし達に向けた。触手の先に掴まれた機械がカチリと軽いシャッター音を起てる。

 わたし達はHziulquoigmunzhah様を振り向いて見上げると「お邪魔しました!」と皆で最敬礼し、それから云われた通りにした。あっちに行ったのだ。

 かくしてわたし達、土星組の教室の後ろの写真が一枚増えた。

 歴代修学旅行写真の最新の一枚では、Hziulquoigmunzhah様を背景にして、ジェーンを真ん中にわたし達五人が笑顔ではしゃいでいた。

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