第83話 口実

「まだ若干腫れてるかなぁ」


 誰もいない部屋で呟きながら鏡を覗き込む。

 昨晩一頻ひとしきり泣いたので腫れ瞼になる危機を感じ、寝る前に蒸しタオルと保冷剤を交互に瞼に当ててケアしたのだがそれでもまだ若干の腫れが残っているようだ。


 もっとも幸い今日は土曜日だし、特に何の予定も入れてはいないので人と会うこともないし別段問題ないだろう。


 そう結論付けて、取り敢えずスマホを手にしてLINEで友紀ちゃんに連絡を取ることにした。

 昨日の一件以来まだ連絡を取っておらず、十一夜君から無事だとは聞いているものの本人に直接安否確認して安心したいというのがまずある。


 直ぐに返信があり、念の為に病院には行ったが何の問題もなく元気だと書かれている。ただライブが中途半端になってしまった為に消化不良であること、そして絶対リベンジを果たすという誓いのような決意表明も記されていた。ブレない娘だわ。


 わたしはと言えば、昨日の今日なので流石に朝のジョギングは取り止めにして、普段よりは少し遅めの起床だ。


 しばらく友紀ちゃんとやり取りが続いた後、朝食のために階下に降りてみれば、そこに繰り広げられているのはいつも通りの様子の家族の朝の団欒風景だが、秋菜がその場にいなかった。


 挨拶してそのことを訊ねると、秋菜は昨晩遅くから体調を崩して寝込んでいるとのことだ。

 滅多に風邪を引くこともない秋菜にしては珍しい。

 後で顔を出しておくか。

 なんてことを思いながら食卓に着けば、直ぐに朝食が出てきた。いつもなら早くから準備を手伝うのだが、今日に限ってはみんなもう食事を始めている。


 お、今日はパン・コン・トマテか。これ、超シンプルなんだけど大好物。


 スライスしたバゲットをトースターでカリッと焼いて、半分にカットしたトマトをガシャガシャとバゲットで擦り下ろすような要領で塗りたくる。先に表面に大蒜を擦り付けてガーリックトーストにしておいても良い。兎に角トマトを豪快にガシャガシャやったら、岩塩をパラパラ落として、仕上げにもこ◯ちばりにオリーブオイルを回し掛ける。


 今朝はこれで決まり! と決め台詞のひとつも言いたくなる程度にはテンションが上がる。言わないけど。


 とそこに、不意打ちで叔母さんから爆弾が投下された。


「夏葉ちゃん、悪いわね。秋菜、今日は雑誌の撮影が入ってるのに寝込んじゃって、穴空ける訳にも行かないし代わりにお願いね」


 帰りに葱買ってきてね、くらいの調子でお願い事をされて、その軽い調子と重い内容とのギャップに、一瞬思考が追いつかずにフリーズした。


 叔母さんが言う雑誌というのは、あの全国誌のディセットのことだ。最近秋菜はそのディセットのモデルをしている。


 目立ちたくないわたしは断固断ってきた仕事だが、叔母さんの

「帰りに葱買ってきてね」

的な軽い声の調子とは裏腹に、その眼差しは非常に強い圧力を伴って顔を背けているわたしに突き刺さる。


 おっと。これは非常にマズいやつだ……。絶対目を合わせちゃダメなやつだ。でも結局観念する以外の選択肢がないやつだ。……詰んだ、これ完全に詰んだぁ。

 まあ今回事情が事情でもあるしね。仕方がないだろうか……。

 少し上がってたテンションはお陰でだだ下がりだ。


 叔母さんは周到にもスタジオの場所と連絡先のメモを準備していて、

「じゃ、これ。お願いね」

と、お遣いで買う物のリストでも渡すみたいに軽く言い渡された。


 助けを求めて叔父さんと祐太の方へチラと眼をやれば、スッと視線を外される。

 ですよねぇ……。


 早々に拒否権を放棄するよりないと悟ったわたしは、気持ちを切り替えてこの後のことを考えることにした。

 こうなると、まだ若干腫れが残っているこの瞼もこのままではまずい。この状態で秋菜のピンチヒッターを務めたとなると、後が怖い。


 叔母さんは早速秋菜がお世話になっている事務所に電話を掛けているようだ。

 どうも秋菜の代わりにわたしが行くというのは既定路線で、わたしの承諾が取れたという確認の電話らしい。なんだかなぁ。


 食事もそこそこに、受け取ったメモをポケットに突っ込んで、準備をするために自分の部屋に戻る。


 部屋に戻り、こんな時のためにこっそり購入しておいた秘薬を救急箱から取り出して瞼に塗る。


 本来の目的では使ったことがないし、使う予定もないのだが、この秘薬=痔の軟膏薬というものには血行を良くする効能があるのだそうだ。その為浮腫むくみを解消するのに効果的で、瞼が浮腫んでしまった場合にモデルさんも痔の薬を瞼に塗るのだと何かの雑誌で読んだ。


 こんな風に本来の用途以外で使用するのは推奨されないとは思うが、背に腹は代えられない危急の事態である。


 果たしてその効き目は噂に違わず抜群で、塗布後暫くすると効果が現れた。

 本来の使い途でお世話になる日が来ることのないように祈りを込めて、軟膏薬を救急箱の片隅にそっと仕舞った。



 撮影は十時からということなので、そうのんびりもしていられない。

 今日はスタジオ撮影だが、ロケの場合には早朝集合というのも普通だそうだ。

 まあわたしもCeriseスリーズの撮影では、実際早朝からということもちょくちょくある。


 出がけに一応秋菜の部屋を覗いてみるが、余程具合が悪いらしく、わたしに気付かず寝ている様子だ。


「お大事にね。じゃ、秋菜の代わりにひと仕事してくるわ」


 小声で声を掛けてから撮影スタジオの住所をスマホのナビに入力して家を出る。


 途中でディセットの編集長の瀬名さんから電話が入る。

 その電話で説明を受けながら、適宜分からないことなんかを質問して教えてもらう。現場でも教えてくれるとのことだが、多分撮影が始まったらスタッフさんたちも忙しいだろうし、なかなか聞ける雰囲気じゃないのではないかと心配だ。


 スタジオに到着して改めて瀬名さんに電話を入れると、わざわざ入り口まで出迎えに来てくれた。


「よく来てくれたわねぇ。……秋葉・・ちゃん、で間違いないわよね?」


 あぁ、ここでも秋菜の設定が生きているのか。秋菜と双子の妹で秋葉という設定が。

 まぁ、秋菜の代理でこういう仕事をすることも滅多にないだろうし、今回だけだから取り敢えずその設定のままでも構わないか。ていうかよく考えたら本名バレたら色々とダメじゃないか。


「はい。華名咲秋葉です。今日は秋菜が急病で来られなくなって、ご迷惑をお掛けします」


「そうよね。いや、あまりに秋菜ちゃんと瓜二つだから、もしかして秋菜ちゃんが来たのかと混乱しちゃって。じゃあ秋葉ちゃん。今日はよろしくね」


 やはり慣れないとわたしと秋菜とがあまりにそっくりで戸惑うらしい。


 瀬名さんは相変わらず颯爽としたできる女って雰囲気を振り撒きながら、わたしを撮影場所まで連れて行ってくれた。


 撮影前に、今回だけとはいえ雇用契約を交わす必要があるらしく書類に目を通してサインする。

 それからスタッフの皆さんに紹介していただき、そこではやはり秋菜じゃないのかと一度驚かれるというルーティンが待っていた。


 撮影は、スタイリストさんにコーディネイトされた衣装を着て、メイクやヘアメイクをして、色んなポーズを取りながら写真を撮るという流れの繰り返しで進む。


 それなりに緊張したのだが、Ceriseスリーズでの撮影も毎月やっているので初めてやるよりは多少緊張の度合いが軽いのか、恙なく進めることができた。


 秋菜は全国誌のモデルをやると自分で決めてから、本格的にモデルレッスンを受けるようになった。

 そこでポージングも習うらしく、家でも大鏡に向かって一人で黙々と練習していたりする。


 わたしもCeriseの撮影が定期的にあるので、時々秋菜にポージングを習って練習したりして、撮影に活かそうとしている。そのお陰なのか、今日の撮影でカメラマンさんやスタイリストさんからポージングを褒めてもらえた。

 まぁ、初心者にしてはという枕詞が付くのだろうけど。


 でも、モデル事務所に所属しているようなモデルさんでも、きちんと講師についてポージングを練習しているとは限らないようで、自己流だったりする人も多いらしい。

 だから褒めてもらえたのは素直に喜ぶことにした。秋菜の努力のお溢れみたいなものだけど。


 撮影を終えて、スタッフの皆さんとお礼や挨拶を交わしていると、当然「また次もよろしく」なんていう言葉を掛けられたりもする。


 些か気まずく感じるが、取り敢えず

「機会がありましたら、また」

と愛想笑いを浮かべて応じておいた。


 またの機会などもう来ないことを心から所望する。なんてなことが頭を過るこれ、もしかしてめっちゃフラグ立ててる気がするんだけど、気のせいであってほしい。


 帰り道、自宅の最寄りの駅で降りて通りに出たところで、向かい側の書店から出てくる転校生のまゆずみ君を見かけた。


 この辺に住んでいるのだろうかと思って眺めていたら、直ぐに彼のお父さんらしき男性も後を追うように出てきて何か話しかけながら歩いて角を曲がって消えた。


「仲良し親子か」


 特に意味もなく感じたことをただ呟いて、家路を急いだ。


 帰宅すると、すっかり元気そうな秋菜が待ち構えていて、早速私の部屋へとやってきた。


「何だ、元気そうじゃん。具合良くなった?」


「え、あ、うん。ゲホッゲホッ。ま、まだちょっとイマイチかな、うん」


 て、あれ? まさかの仮病?

 いや、仕事に関しては真面目に取り組む秋菜の性格からして、仮病でサボりなんてことはないよな……。

 不思議に思って、今日一日のことを思い返す。何かおかしなことはなかっただろうか……。


 叔母さんの段取り。わたしが降りてきたときにはもう編集長との話は付いていた様子だった。

 秋菜は珍しくわたしが顔を出したのにも気付かないくらい体調が悪かった……ように見えた。

 そう言えば、編集長に挨拶した時、秋菜の体調を気遣うような言葉は一切出なくて、わたしはちょっとそこに違和感を感じたんだよな。

 これらを鑑みて導き出される答えは……。


「秋菜。一芝居打ったよね」


 睨みを効かせて秋菜に詰め寄る。


「え、何のことかなぁ〜。そ、それよりかさ。撮影どうだった? うまく行った?」


「秋菜」


 もう一度睨みを効かせて詰め寄る。


「あ、え〜と……。そうそう。あのっ、蒲田さん、元気してた?」


「今日は蒲田さんじゃなくて亀山さんって人だった。そんなことより、白状しなよ。秋菜」


「ヤバ。もうこんな時間か。晩御飯の支度手伝わないとママに殺られる。じゃ、先に降りとくね! 後で」


 秋菜は逃げるように……てか、逃げた。


「はぁ……」


 つまりはこういうことだ。

 秋菜と叔母さんと編集長。この三人は、わたしがディセットのモデルをやるように共謀していた訳だ。

 わたしがなかなか引き受けると言わないことに業を煮やしたのだろうか。待ち切れずに謀計に打って出たというところか。


「チッ」


 遠い目をして舌のひとつも打ちたくなる。秋菜だけならいざ知らず、叔母さんも一枚噛んでいるとなると、わたしには到底太刀打ちできないのだから。


 部屋着に着替えて、わたしも夕食の手伝いに降りると、いつにも増してにこやかに叔母さんから迎え入れられた。怖い……。

 今朝と同じく、拒否権を手放すよりないと改めて悟った夕暮れ時だった。

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