第8話 玉姫様

 いつか自分にも訪れてしまうのかとどこかで思ってはいたが、叔母さんの指摘は衝撃だった。本当に来てしまうのか、この前まで男だったこの俺に。

 叔母さんや秋菜が言うには、生理前には肩が凝ったり胸に張りを感じたり、頭痛や腰痛、下腹部の痛みがあったり、甘いものを食べたくなったりするそうだ。うちらの家系は割と軽めのはずだと言うが、家族とはいえ女同士の明け透けな生理トークはかなりヘビーで、精神的にガッツリ抉られた。


 それから二日後、果たして叔母さんの指摘通り、この俺に生理が訪れてしまった。もうすぐ学校も始まるというのに。

 これは、この前まで男だったある少女の、熱く激しい葛藤の物語である。

 いや意外とマジでね。

 念のため、前日から生理用のショーツにしてナプキンを装着しておいたのだが、立ち上がった時に何か出たような気がして確認してみたところ、ナプキンが血に染まっていた。ある程度覚悟は決めていたので慌てたりすることなく、比較的淡々と対応することはできたと思う。ナプキンを換えようと思ってトイレで便器に血が落ちていた時には少々ショックを受けたが。

 下の部屋に降りると今日も祐太ゆうたのヤツは友達とお出かけ中だった。リア充め、楽しそうでいいな。しかし男子がいないのは今の俺には好都合なのだが。リビングの中央に進み、陰鬱な気持ちでソファに横たわる。


「叔母さん、ついに来てしまったよ。叔母さんの言った通りだった」


「そっか。具合悪くない?」


「うーん、体調的には想像していたほど悪くはない。でも精神的なショックの方が大きいかも」


「そうよねぇ。ま、女に生まれたからにはどんと構えてなさい。この先出産という大仕事を控えているんだから」


「いや俺女に生まれてねーし。てか出産とかマジありえねぇ〜」


 叔母さんのとんでも発言に、安心するどころか余計に精神を抉られてしまった。そして叔母さんはそれを放ったまま、事態を収拾することなくキッチンへと行ってしまった。そこへ入れ替わるように秋菜あきなが自室から出てきた。


「おー、夏葉かようちゃんもう来てたんだ」


「おぉ」


「何? 元気ないじゃん」


「ついに来た、恐怖の大王が」


「あっちゃ~。来ちゃったかぁ、それはご愁傷様〜。ま、女の子はみんな経験することだしね、頑張れ〜」


「はぁ、もう俺お婿に行けねぇよ」


「はっは〜、それは無理だねぇ」


「あのさ~、ちょっと質問いい?」


「な〜に?」


 これ、聞いておきたかったんだ。


「風呂って入っていいの?」


「ん? 全然入っていいよ。てかお腹痛い時とかゆっくり温まったらちょっと良くなるかも」


「いいのか。湯船が真っ赤に染まるとかいうホラー展開ないよな?」


「あ〜、大丈夫だよ。……多分」


「多分?」


「うん。それよかお風呂場から出る時注意した方がいいかも〜。床に血が落ちる時あるから」


「ひぃ〜っ。まじかよ怖いよ」


 俺は滴る血を想像して、そのスプラッターな映像に思わず頭を抱えた。


「そんなんでビビってどうすんの? 多い日とか普通に体洗ってる時に血、出るからね?」


「うわぁ~、平常心保てる自信ねぇ……。女の人って、そんなのと毎月付き合ってんの?」


「あったりまえじゃん。て言うか夏葉ちゃんもこれからずっとそうするんだよ」


「うげぇ〜、女子すげぇ〜、ぜってぇ無理」


「しっかり頑張れ、女の子」


「……はぁ〜〜」


 俺はあまりの救いの無さに、大きく溜め息を吐いてソファに突っ伏したのだった。女子尊敬するわ、マジで。


 夕食まで秋菜の家で過ごしてから自室に帰った。後はいよいよ風呂だ。まずは作戦を練ることにしよう。何しろ生理も初めてなら生理中の風呂も初めてのことだ。

 秋菜の話にも出ていたが、血が床に落ちるらしいから、その対策が必要だ。風呂に入るところから出てきて髪を乾かしたり服を着たりするところまでをシミュレートしてみる。

 脱衣所で服を脱ぐ。下着も脱ぐ。風呂のドアを開けて入る。あ、いかん。風呂場の敷居跨ぐところで血が落ちた。ということは、パンツだけ履いたまま風呂場に入って、そこでパンツ脱ぐ? ま、取り敢えずその案を仮採用しておいて、と。

 体洗ってる時とか血が出るって言ってたな。これはどうしようもないだろう、ひたすらお湯で流すくらいしか手が無さそうだ。で、お湯に浸かって、出て……。おっと、また血が出るな。お湯で流して対応だ。そして再び脱衣所だ。

 うーん。ここがまた危険だなぁ。ギリギリまでお湯で股間を流しておいて素早く出るか。次はできるだけ素早くパンツ履いてナプキン付けることだな。しかし手間取ってたらまた血が……。

 ということはだ。風呂に入る前に着替え用のパンツにナプキンを装着しておいた方が段取り的にはいいのか。うむ、さすが俺。しかしそれではまだ不十分だな。濡れてビシャビシャの状態でパンツ履くわけには行かない。かと言ってグズグズしてるわけにも行かない……。っ! ティッシュか。

 タオルは汚したら嫌だし、トイレットペーパーは水に溶けちゃう。やはりティッシュだな、うん、よし。人に絶対見せられないが、逆に見せることは絶対にあり得ない状況だから良しとしよう。

 じゃあ、ティッシュを用意しておいて、素早く数枚抜き取って股に挟むと。その間に体を拭いて、ナプキンセット済のパンツを履く。ティッシュを抜き取って捨てる……いや違うな。パンツを途中まで履いてティッシュを抜いてから最後までパンツを上げる。これか。うぅむ。これならうまく行くな。段取り八分と言うが、この作戦は正にそれにかかっていると言える。ノルマンディ上陸作戦もかくやと言わんばかりの大作戦だ。この戦い、多くの血が流れることになる……。腹をくくるか。よし、いざ出陣じゃ!

 かくして歴史——主に俺史——に残る厳しい戦闘の火蓋が切って落とされたのであった。


「パンツよし、ナプキンよし!」


 脱衣所で着替え用の下着にナプキンを装着確認。お、ティッシュを準備しておかなきゃな。忘れるところだった。新しいティッシュを開封して脱衣所に設置する。服を脱いで裸になる。パンツを少し降ろして出血状況を確認しておく。今は出ていないようなので、素早く脱いで風呂場せんじょうに入った。頭の中では突入の合図となる法螺貝の音が鳴り響いている。

 ふぅ。第一関門突破だ。ここまでの綿密な準備が功を奏したようだ。

 風呂の椅子に座ってかけ湯を浴びた時、肌を伝って紅いものが床に滲んだ。第一関門を突破して少し気が緩んでいたのか、卒倒しそうになりつつも踏みとどまる。いかん、この程度想定内のはずだ。この戦闘である程度の血が流れるのは覚悟の上だったではないか。戦場では冷静さを失うのは命取りだ。落ち着いてまずは戦況の分析だ。

 脱衣所では血は止まっている感じだった。風呂場に入って椅子に座ったら出てきちゃったな。姿勢と関係あるだろうか? そう言えば最初の時、トイレに座った時にも出てきたな。偶然か? う〜ん、特に姿勢と関係なく出た感触があった時もあるな。だとすると関係なく出てるけど、たまたま座った時に、中に溜まってた分が圧迫されて出てきちゃったと考えるのが自然かな。だったら溜まってるやつを気合で出しちゃうことってできないのだろうか。


「フンッ」


 下腹部に力を入れて踏ん張ってみると、意外とあっさり血が出てきた。おぉ? これってもしかしてある程度はコントロールできるのでは? そんなことを思い、今度は扉をぴっちり閉じるようなつもりで筋肉を引き締めてみた。ちょっとまだ慣れないが、これをキープしながら体を洗い始めた。

 時々気にしながら経血が出ていないことを確認して、どうにか髪まで洗うことができた。お湯に浸かるのはちょっと勇気がいる。その前にもし溜まっていたら出しておこうと思い、再び中の方から絞り出すイメージで、閉じるのとは違う筋肉を引き締めてみる。果たして思った通りまた出てきた。

 なるほどな〜。これ、ある程度のコントロールは効きそうだぞ。大発見だ。まぁ、普段はそこまでしていられないけど、そこはナプキンに何とか頑張ってもらうとして、こんな風に風呂に入っている時とかトイレとかでは使える。最後にその部分をしっかり洗って、覚悟を決めて湯船に浸かった。生理中は特に下半身を温めた方がいいというので、温度設定をやや温めにしてゆっくりと温まることにした。

 体育座りは何となくだがまずい気がしたので湯船の中では正座する。その方が蓋が閉まるような気がしたのだ。それがよかったのかどうかは分からないが、バスタブが真っ赤に染まるようなスプラッターな展開もなく、ことなきを得た。

 湯上がりに再度溜まった血を出して洗い流し、ハンドタオルで大まかに体の水分を拭きとってから、いよいよ最終決戦の舞台となる脱衣所へと向かった。

 キュッと力を入れつつ蓋を閉めた状態をキープしてティッシュをガサガサッと取って素早く股間に挟む。これはマジで絶対人に見せられない姿だなぁ、と痛切に感じつつ体を拭き、シミュレーション通りにパンツを履くミッションを遂行した。パジャマを着て髪を乾かして、ついでに歯も磨いた。これですべての任務を完了、ミッションコンプリートだ。

 ふと顔を上げて正面の鏡を見ると、そこには厳しい戦場を生き抜いた勇敢なソルジャーの顔があった。明日も厳しい戦いになる……。


 結局生理による出血はその後五日間続き、二日目と三日目には特に出血量が多くその頻度も高かった。二日目、ゼリー状のちょっとレバーっぽいのがとろっと出た時には若干ビビったが、それ以外には初日より落ち着いて首尾よく対処できた。

 風呂の敷居を跨いだ今日の一歩は、人類にとっては小さいが、俺にとっては大きな一歩なのだ。


 そんな憂鬱なビッグイベントの最中さなか、叔母さんと一緒に買い物に出かけたり、家族みんなでご飯を食べに行ったりして気晴らしした。

 入学式の前日、家族で買い物してから外食。その日は叔父さんから秋菜とお揃いの靴とワンピースを買ってもらった。叔父さんは俺たち二人にお揃いのワンピースを着せて写真を撮りまくって大層ご満悦だった。その写真はすぐにLINEで家族間で共有され、俺の家族からのコメントが付く。この一連の流れは最早工場の流れ作業のようなもので、何かにつけて写真や動画撮影、LINEに投下、家族のコメントで賑わうというひとつのルーティンができている。しかしそんなノリに今ひとつ乗り切れないでいる俺だ。


 他に、風呂以外の特筆すべき最も大きなイベントと言えば、学校が始まったことだ。ワンピース騒ぎの翌日、いよいよ入学式だが生理は相変わらず続いており、ちょっと憂鬱な気分だった。そんな中、秋菜と一緒に初登校。玄関近くの受付で自分のクラスを案内されるが、俺は一組、秋菜は五組だった。


「あ〜ぁ、夏葉ちゃんとクラス離れちゃったね。同じクラスがよかったのに」


「そうか?」


「そうだよぉ。そうすれば色々と助けてあげられたのに」


「そっか、そうだな~。まぁどうにかなるだろうよ」


「ホントかなぁ。いい? 絶対自分が女の子だってこと忘れちゃダメだからね!」


「分かってるって。俺に任せとけ」


「だからそれだよ〜。俺って絶対言ったらダメだから」


「大丈夫だよ。ちゃんとできるから心配するな」


「心配だなぁ」


 秋菜からやけに心配される。信用ないな。確かに家族でいる時は、言葉遣いはほぼ前のままだしな。でも、一歩外に出たら俺だってある程度はできると思うぜ。


「何とかなるって」


 心配する秋菜に言うと、漸く秋菜も諦めたのか、それ以上は言ってこなかった。


「頼むよ? それじゃ、帰りはママと合流して一緒に帰るんだよね」


「うん、覚えてる。LINEで連絡取ればいいだろ?」


「うん、それでいいよ。何かの時は電話ちょうだいね」


「オッケー」


 それから俺たちは別れてそれぞれのクラスへと向かった。

 一組は一番奥の教室になる。教室に入ると机に各生徒の名前が書かれた紙が貼ってあり、プリントの束が置いてある。どうやら席順は五十音順になっているようで、俺の席は廊下側から二番目で最終列からも二番目だった。鞄を掛けて席に着くと後ろの席の子が声を掛けてきた。左右は男子の列になっていて、どうやら男女が交互に横に並ぶようになっている。


「おはよう、秋菜。ショートにしたんだ。似合ってるよ。またおんなじクラスになったね〜」


 あ、秋菜の中学時代のクラスメイトの人かな。完全に間違われとる。


「あ、実は秋菜の従姉妹の華名咲かなさき夏葉かようって言うんだ。よろしくね」


「えっ、ホントに? 超似てるからてっきり秋菜だと思ってたよ〜」


「やっぱり似てるよね。秋菜は五組になったよ」


「わたし、栗原くりはらかえで。秋菜とは小中で何回か同じクラスになってるんだ。よろしくね、えっと、夏葉ちゃん」


 そんなに長く秋菜を知ってても間違うとは、俺たち相当似てるんだろうな。改めて驚くなぁ。


「いたいたー。夏葉ちゃん、おなクラになったね〜」


 ん? 俺のこと知ってる奴なんていたっけ? と一瞬考えたが、声の主を見て思い出した。


「あ、友紀ゆきちゃん。同じクラスだったんだ。知ってる人がいてちょっと安心する」


「ひゃほー。あ〜ん、夏葉ちゃん相変わらずいいニホイ。す〜は〜す〜は〜」


 いきなり抱きついてきて俺の匂いを嗅いでいる。生理中なので臭いを嗅がれるのはちょっとマズいかなと一瞬冷やりとしたんだけど、何か気づかれてないようなのでよかった。そう言えばこの間も後半はすっかり変態全開だったが、今日は仰っけから全開だな。て言うかおっぱいが思いっきり当たってるんだけど、これはもしや俗に言う「当ててんのよ」っていうやつ?


「あれ、友紀は夏葉ちゃんと知り合いだったの?」


「夏葉ちゃんはわたしの嫁だよ。楓にはあげないんだから」


「夏葉ちゃん、この子ウザいでしょう? 実は秋菜と初めて同クラになった時もこの調子だったんだ」


 そ、そうだったのか。抱きついてくる腕がきつく締まってきて苦しいんだが、意識は擦り付けられているおっぱいに集中しているし、頬ずりが気持ちえぇ、ってそうじゃなくて息ができん。苦しい。

 目を白黒させていると、危急を嗅ぎとった栗原楓が俺を助け出しててくれた。スリムな割に怪力だな。でもありがとう。


「ふう、楓ちゃんどうもありがとう。助かったよぉ、死ぬかと思った」


「この変態のせいで危なかったね〜」


「友紀ちゃん、やっぱり変態さんだったんだ」


「ひどっ。やっぱりってひどっ」


 変態さんが俺を批判しているが、マジで苦しかったんだからな。てか、今のでまた出血した気がする。生理真っ只中なんだから勘弁してくれ。どうでもいいが、変態さんってところは否定しないのな。


「変態さんとは春休み中に秋菜と買い物してる時に偶然会ってね。それで知り合ったんだ」


「ちょっと夏葉ちゃん、わたしは変態さんじゃないよぉ〜。モミモミ」

 って言った先から俺の胸を揉んでくる。


「ちょっと変態さんやめて」


 生理中で今おっぱいが張っていてちょっと痛いのだ。マジでやめろウザい。

 って秋菜の友達だしあんま本音でディスれないんだよな。


「変態さんじゃないよ〜。ほら、楓からも説得して」


 栗原楓も呆れた様子でスルーしている。もうこいつマジで変態だな。

 かわいいからいいかと思ってたけど、やっぱ関わりたくねぇ〜。

 さっさと入学式終わらせて帰ろうぜ。既にそんな後ろ向きな気分になったところで、漸く担任の登場だ。遅えよ担任。

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