第6話 Orange Juice Blues (Blues for Breakfast)
家族の引っ越しは、俺にとっては割合あっさりしたものだった。でも家族は俺の新しい生活を心配してくれているようで、結構しっとりと言うかねっとりと言うか、撫でられたり揉まれたり絡みつかれたりして、尚且つも名残惜しそうな様子だった。悲しいかな、皆男の俺より女の俺のことが好きらしい。俺の十五年は何だったのか。そんな風に思うと何とも遣る瀬のない複雑な気持ちで、旅立つ家族を見送ることとなったのだった。
叔父さんも叔母さんも、俺と秋菜の二人を
最早男としての俺は、身内によって完全否定される存在と成り下がってしまったのか……。そして皆が俺に求めているのは、女として生きることなのか……。やはり、女としての人生を全面的に受け入れて、これからの人生を歩んで行くことについて真剣に考えるべきなのだろうか……。
女の体になった直後はそれどころではなかったのだが、身辺のことが整って来るに連れて、本格的にこの問題と向き合いつつある。ネットで性同一性障害について色々と調べてみたんだけれど、そういう人たちだってかなり悩んでいる。俺なんて途中からいきなりそうなっちゃったんだ。先行き不安になったり、憂鬱な気分になったりしても、全く不思議はないだろうよ。いや、女になっちゃったのはどう考えても不思議なんだがね。
男が女に変わっちゃうことなんて他にも事例があるのか、と疑問に思ってネットで調べてみたところ、どうやらあるにはあるようだ。但し思春期の極初期に、ドミニカ共和国のある村でそのような現象が観察されるという。これは思春期に入って男性あるいは女性ホルモンが急激に増えることによるらしい。俺のように思春期真っ只中で性転換が起こっちゃった、という話は見つけることができなかった。十歳から十四歳の思春期の子どもたちに起こる現象だが、俺は十五歳か。うーん、大きくは外れていないけど、ズバリって感じでもないなぁ。
情報として満足の行くものではなかったが、それでもそういう例があるという事実を見つけることができて、多少は光が差した気もする。尤も元に戻れた事例が見つかったわけではないので、まあ気休めに過ぎない気もするけどね。実際すっきりしたわけでもない。
何となく心に霞がかかったような状態ですっきりしないまま、今日も一日の終わりを風呂でゆっくりと過ごすことにした。最初は風呂ですら戸惑いと緊張状態でリラックスには程遠い情況だったが、漸くリラックスできる時間として風呂を楽しむことができるようになってきた。この体にも日々少しずつではあるが、慣れてきている。立ち居振る舞いについても、毎日秋菜や叔母さんから口煩く言い聞かされている。抗いたい俺の本心とは裏腹に、徐々に俺の領域が女性に侵略されて行っているように思える。
ボディソープをたっぷりと泡立てて、柔肌を優しく洗う。ん? もしかしておっぱいがまた大きくなった?
そう言えばあのできるボディコンシェルジュ——武藤さんといったか——が言ってたっけな。正しくブラを着けてしっかりとカップの中に肉を収めるようにすると、そのうち掻き集めた肉が自分はおっぱいだと勘違いしてバストサイズがアップするのだと。
泡々の状態で手を滑らすようにして乳房を優しく揉んでみる。うん、やっぱり大きくなっている気がする。大きくなったからと言って、揉んで快感が走るというようなことは、相変わらず無かった。まぁ、そんなことでいちいち反応していたら生活が成り立たんわな。母乳あげる度にアフンアフン言ってるお母さんがいたら怖いだろ。そういうことだ。
でも風呂に入る度に、一応確認だけはしているのだ。あくまで自分に課した業務としてな。そう、いつもの俺のジャーナリズム的な使命感なのだよ。邪な気持ちじゃないんだ。ほ、ほんとだってば……。
そんな俺からのアドバイス。
しつこいようだが、AVのあれはインチキだ。所詮、男の妄想を満足させるだけの
ハッハッハ。聞きたくないだろう、認めたくないだろう。信じられないかい? 俺のことが憎いかい?
かの新井直之は著書「ジャーナリストの任務と役割」の中でこう言っている。ジャーナリズムとは「いま伝えなければならないことを、いま、伝える。いま言わなければならないことを、いま、言う」ことだとね。俺は、世の男性に真実を伝えるために女性界に使わされた使徒なのだよ!
————ってさっきから誰に向けて熱く語ってるんだよ、俺は……。すみません、取り乱しました。違う意味で興奮してしまったようです。
だって、またおっきくなってるんだもん。もったいないけどそろそろブラ新調しなくちゃね。合わない下着なんて百害あって一利無しだ。
俺のジャーナリスト魂がこう告げるのさ。
「いま変えなければならないブラを、いま、変える」
とね。
バカバカしいそんな妄言に自分で呆れた俺は、結局風呂は早めに終わらせて、髪を乾かし早々にベッドに入り、いつの間にか深い眠りに落ちていた。
久し振りにぐっすりと眠り、目覚めはいつになく爽快だった。
ベッドから出て部屋着——ジャージだけど——に着替えて洗面所へと向かった。
その後はついに待ち侘びたキン◯ダムの時間だ。
冷蔵庫からヨーグルトを出して器に装い、オレンジジュースをコップに注いで部屋に持ち帰って朝食代わりとした。やっと念願叶ってのキング◯ムタイムだ。至福のひと時を満喫しようぜ。
学校が始まったら、朝食から秋菜の家で一緒に食べるルールになったのだが、それまでの期間は昼からでいいことにしてもらっている。ゆったりと自分だけの時間を過ごせるのは久しぶりだ。思えばこのところ妹に纏わり付かれ、秋菜には連れ回され、母や叔母さんのお喋りに付き合わされ……とまあゆっくり独りになれる時間と言ったら風呂ぐらいしかなかった。
これからの俺の方針についても考えておかなきゃな。まずは何より男に戻る道を探る。どうやって探るのかということも含めて探る。取り敢えずはネットかな。それとついでに……あくまでついでに、こ、この体の、開発業務である。あくまでついでな。
安心しろよ。夢を打ち壊すようなことばっかり言ってきたが、探究心はまだ死んでいないぜ。俺のジャーナリスト魂はまだ死んでいない。そして最後にはその経験を男として持ち帰るのだ。いつか
なんてバカなことを考えているうちに、またキン◯ダムを読み損なってしまったじゃないか。こんなはずじゃなかったのに。また全然読み進めてないじゃないか。
食べたものを片付けて、洗濯や掃除をして、ちょっとネットサーフをしたら、すぐに昼前になってしまった。下のフロアに降りると、
「ういーっす。あれ、
「友だちと遊ぶんだって。朝から出かけたよ」
「ふ〜ん、そうなんだ」
「あ、
キッチンから俺を見つけた叔母さんは、手招きして俺に手伝うよう促す。
「オッケー。何すればいいの?」
「はい、これ使って」
と手渡されたエプロンは、マリメッコの大きな花柄プリントのもので、俺としては抵抗感を禁じ得ないかわいいデザインだった。エプロンを手にとってはみたものの、その花柄に思わず固まっている俺に対して、叔母さんの容赦ない命令が飛ぶ。
「ほらほら、さっさとしないとそのエプロン着けたままお使いに行くところまで追加するわよ」
「そ、それだけは……」
小さい頃からうちと叔母さんのところはお互い親子も同然に過ごして来ているので遠慮がない。遠慮がないだけならまだしも容赦がない。
「夏葉ちゃん、エプロンの着け方分からないならわたしが着けてあげようかしらぁ?」
「秋菜うるさいぞ。お前も手伝えよ」
「そうしたいのは山々なんだけど、夏葉ちゃんの花嫁修業のためだからねぇ。ここは涙を呑んで我慢しとくわ」
「誰が花嫁修業じゃ」
「あら夏葉ちゃん、彼氏ができたら叔母さんに一番に教えなさいね。しっかり見極めてあげるわ」
「いらんわっ! てか何で彼氏じゃ」
「フフ、夏葉ちゃんったら照れちゃってかわいいわ」
「かわいいわ」
叔母さんの悪乗りに秋菜も被せてくる。面倒臭いことこの上なしだ。うちの母親がこの場にいないことがまだしもの救いか。いたらウザさが三乗倍だからな。
諦めてかわいらしいマリメッコを着けて、やるべきことをやる。それだけのことだ。
「はい、お利口さん。とっても似合ってるよ、夏葉ちゃん。じゃあパスタにするからお湯沸かして頂戴ね」
パスタ鍋を棚から取り出してお湯を張って粗塩を一掴みだ。一摘みじゃないぞ。
料理番組なんかでよくお湯に対して1%の塩なんて言ってるがあんなもんは信用してない。あるイタリア人の料理人は以前、海水で茹でるくらいのつもりでやれと言っていた。海水といえば塩分濃度は3%以上あるからな。まぁ、ソースの種類にもよるけどね。
「はい、ありがとう。じゃあ夏葉ちゃん、
「了解、任せて」
慣れたものだ。俺は料理に不自由はしない方だと思う。どうせ料理なんてできないだろうし、手伝いがてら簡単なことから覚えさせようという魂胆だろうが、何を隠そう料理は得意なのである。
大蒜は皮を剥いてから中心の芽を取り除く。これもイタリア人の料理人が言っていた。芽を取り除く一手間で香りも違ってくるし、ついでに胸焼けも防ぐことができるらしい。その大蒜を包丁の腹で叩き潰してから手際よく微塵切りにする。冷たい状態のフライパンに刻んだ大蒜を入れて塩も一摘み振っておく。またまたイタリア人が言っていたワザだが、この塩によってオリーブオイルの沸点が変わり、大蒜の風味をより引き出しやすくなるのだそうだ。
「あら夏葉ちゃんたら、料理分かってるわねぇ〜。修業が必要なのはむしろ秋菜ちゃんだわ」
「でしょ~。聞いたか秋菜」
「げっ、何あんた。いつの間に料理なんか覚えたわけ?」
急に矛先が自分に向いたものだから慌てて秋菜が話題を俺の方に振ってくる。
「さぁ? 料理なんていつの間にか覚えちゃったよ。因みに裁縫もイケるからな」
「何それ? 女子力高っ! その見た目で料理も裁縫もできるなんて反則だわっ。もうこれ以上の女子力アップ禁止!」
「お〜、願ったり叶ったりだね、それは」
「ちょっと秋菜ちゃん。軽く女子力で夏葉ちゃんを下回っているからって、あなたそれはダメよ。夏葉ちゃんの女子力はもっともっとこれから上がるんだから、あなたが頑張りなさい」
馬鹿め、墓穴を掘りおって。俺は割り合い凝り性な方だからな。この性分は多分叔父さん似だと思うが、料理も裁縫も家庭科の授業でハマって以来結構探求してきたのだ。今では原型から型紙起こしてシャツを仕立てるくらいの腕はある。よく考えてみたら女子力めちゃ高いな、俺。
俺がイタリアンに少々詳しいのは、そもそも小学生の時に料理に興味を持ったんだが、それを知った親父が、レストランの厨房を見学させてくれたからなんだ。それ以来そこのイタリア人シェフをたまに訪ねるようになって、中学生になってからは料理のちょっとしたことを彼から色々と教わったんだ。もちろん、皿洗いを手伝ったりしながら駄賃代わりにね。
サントーニさんっていうシェフだったけど元気でやってるかな。今はイタリアに戻って自分の店を持ってやってるそうだけど。
そんな具合で、一度興味を持つと、とことん追求するタイプなのさ。他にもチビの頃からの趣味を加えると色々とあるぞ。
パスタの方は下拵えをちょっと手伝った程度で、後は叔母さんが手際よくトマトベースのペスカトーレを作ってくれた。俺もサラダを盛り合わせたりして3人で昼食となった。
「う〜ん、美味しっ。ママのパスタは最高だわん」
「あら嬉しい。秋菜ちゃんも今晩から特訓ね。そしたらこんな美味しいの作れるようになるわよ」
「うげ」
「精々頑張ってな」
「その勝ち誇った上から目線がかわいくないよっ、夏葉ちゃん」
「え? 聞こえないなぁ。俺より女子力上がったらもう一回聞いてやるよ」
「うっさい。俺って言うな、ばかちんが」
「二人ともいい加減にしなさい、食事中まで」
女三人寄れば
「もうすぐ学校始まるね。夏葉ちゃんと一緒に学校行くの楽しみだな」
「そうか? 俺は不安しかないよ。馴染める気がしねぇ……」
実際不安だ。体が女子になって、それ自体にもまだ慣れていないのに、新しい学校に、しかもJKとして通うんだ。中身が男の俺が、いきなり女子の輪の中に入って行けると思うか? どう考えてもスムーズに行くはずがない。兎に角、今はこの体の変化に付いて行くだけでも必死なんだ。この上女社会にも馴染んでいかなきゃならないなんてな。ホント、これで海外生活なんて絶対無理だったと思うわ。いやぁ、マジで不安。
てかさ、女子の制服着ていくわけだよね、俺が。俺、客観的に見て外観はかわいいけど、中身は男。そりゃきっと制服姿も似合うだろうことは、秋菜の姿を見てりゃ想像はつくけど、精神的には男が女装している言わば男の娘だ。ただ、そういう人と違うのは、俺の場合は自発的な女装でないということだ。外見が女の子だからそれなりの格好をせざるを得ないが、気持ちの上では納得できない状態。なので、どちらかと言うと性同一性障害の女性、FtM(Female to Male)と限りなく近いのじゃないかと思うんだ。
「夏葉ちゃん、顔が真面目になってるよ」
「ホントだわ。ちょっと、大丈夫? 夏葉ちゃん」
二人が俺のことを心配して顔を覗き込んでいる。
「俺、普段どんだけ不真面目な顔してるの?」
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