第5話 彼女は浪人生なのか
慎吾の脹脛の彼女探しは頓挫していた。
もちろん、三年生を除く女子生徒全員を確認したとは言えないが、慎吾の胸中には、根本的な何かを見逃しているのではないか、という疑念が沸き起こっていた。
数日後、慎吾は日課である朝礼の催促をするため、担任の藤原を職員室に訪ねた。職員室といっても、テレビドラマなどで散見される一般的なそれとは趣を異にしていた。担任だけでも三十人はいるわけだから、一ヶ所に納まらないのは当然なのだが、藤原は年次別の職員室でもなく、特別に個室を与えられていた。まさか、飲酒を隠蔽するためでもないだろうが、彼は特別扱いされていたのである。
失礼します、といって慎吾が戸を開けると、いつものように、ぷーんと酒の匂いが漂って来た。
――どうやら、今日も僕が朝礼をしなければならないようだな。
と思った慎吾は、自分でも気づかなかったが、瞬時顔を歪めたらしい。
「そう、露骨に嫌な顔をするな。そのような軽蔑の眼差しを向けられると、わしとて傷付くではないか」
と、藤原は小言を吐いた。
「すみません。そういう訳ではないのですが」
慎吾が気まずそうに弁解するや否や、
『花 間 一 壺 酒
独 酌 無 相 親
挙 杯 邀 明 月
………………………』
と授業のように漢詩を朗読し始めた。
「李白の『月下独酌』ですね」
「おっ。やはり、お前にはわかるか」
藤原が嬉しそうに言う。
「巨星である李白の、しかも有名な詩ですから……」
そう答えた慎吾だったが、実を言えば彼は子供の頃から、李白の詩は耳に親しんでいた。
子供の頃、中国文学に造詣が深かった母方の祖父から李白や杜甫の詩を聞かされていたのである。
「弁解するわけではないが、酒無くして何の人生ぞ。酒が飲めなくなったら、わしはいつ死んでもかまわんとさえ思うぞ。まあ、それは良いとして……津森、まあここへ座れ」
――だからと言って、こう毎度毎度酒浸りで良いはずがない。
慎吾は反論したくなったが、その思いを仕舞い込んで、
「ですが先生、朝礼を済ませませんと、一限目の授業が始まってしまいます」
と至極真っ当なことを言った。
藤原がにやりと笑み浮かべる。
「素面のお前が何を寝ぼけたことを言っている。今日の一限目はわしの漢文じゃ。少しぐらい、待たせておけば良い」
「あっ、そうでした」
ばつの悪い顔をしながら慎吾が机の前の椅子に座ると、藤原の顔つきが神妙なものに変わった。
「お前とは一度、ゆっくりと話をしたいと思っていたのだ」
「僕なんかとですか」
慎吾は怪訝な顔を向けた。
そうだ、と藤原が肯く。
「なあ、津森。なぜ、わしがお前を学級委員長にしたと思う」
――ん? 急になんだ……。
と思いながらも慎吾は覚悟の顔をした。彼にしても訊きたい謎ではあったのだ。
「正直に申しまして、わかりません。ただ他のクラスのように、入学試験の成績がクラスで一番ということではないと承知しています」
「その通り。お前の入試成績は、26Rでも真ん中辺りだった」
「やはりそうですか……」
慎吾は肩を落とした。
推量はしていたものの、藤原の口からこうもはっきりと宣告されると、少なからず気落ちする。
「だがの。国語の成績は九十六点、中でも古文と漢文は満点だった」
「はあ」
「国語の成績だけだと、全体で九番。古文と漢文に限って言えば、満点取った者は三人しかいなかった。しかも、採点したわしからすると、たしかに解答においては満点は三人いたが、敢えてその内容に順位を付けるとすれば、お前の解答が一番じゃった。わしはなあ、津森。お前には漢文の素養があるのではないかと睨んだのだ」
「僕が、ですか」
いきなり言われても、ピンとくるはずがない。
「そうだ。それに、もっと大事なことがある」
「はあ」
「お前の祖父の佐野正一郎さんは、わしの恩師なのだ」
「えっ、祖父が先生の……」
これには慎吾も目を丸くした。
「わしが中学三年生のとき、大学を卒業されたばかりの佐野先生が赴任されて来られた。先生は国語の先生で漢文も教えて下さったのだが、先生の授業はそりゃあ面白かった。必ず、時代の裏話や下世話な話を講談調にして下さった。わしはすぐに先生が好きなった。休憩時間や放課後も、職員室へ行って先生に付きまとうようになった。そんなわしに、先生は嫌がらずに接して下さった。四十年も昔の事だから、今と違いどこか牧歌的なおおらかさがあった時代だった。
ある日の放課後のことだった。いつもように職員室へ先生を訪ねると、先生は本を読んでおられた。それが李白の漢詩だった。わしは先生から詩の意味を教えてもらい、興味を持つようになった。つまり、わしが今こうして多少なりとも漢文の世界で名を知られるようになったきっかけを作って下さったのが、お前の祖父の佐野正一郎先生というわけだ。先生とは今でも親交がある。お前が湘北高校に合格した直後、先生から連絡があり、お前が先生の孫だということを知ったというわけだ」
藤原は一気に捲し立てた。昨晩の酒気が抜け切っていないからではないかと思うほど、いつにも増して饒舌だった。
「はあ、なるほど」
と、慎吾は頼りない相槌を打つ。
「だからの、22Rから30Rの普通科クラスの中から担任するクラスを選ぶとき、わしは迷うことなく、お前が振り分けられた26Rを選んだのだ。わしの見込んだ通り、さすがに佐野先生の血を引くだけあって、間違いなくお前は漢文の素養がある。お前さえ良ければ、わしはわしの持っているものをできる限りお前に伝えるつもりでいる。お前も、そう承知しておいてくれ」
「……」
青天の霹靂とはこのことだ。
この先大学を卒業したら、祖父の興した日本海水産を継ぐと決めている慎吾に、学者や教師になる気など爪の先ほどもないのだ。
だから慎吾は、
――勝手に見込まれても困る。
と言いたいが、上機嫌の藤原を前にして、言えるはずもない。
慎吾はただ沈黙を通すしかなかった。
佐野正一郎は慎吾の母方の祖父であり、たしかに松江で中学校の教師をしていた。佐野家と津森家はともに浜浦にあったので、子供の頃、兄弟のいない慎吾はよく佐野家に遊びに行っていた。正一郎も内孫が女の子ばかりだったせいもあってか、慎吾を大変可愛がってくれたのだった。
「そろそろ、行くとするか」
藤原の一言で慎吾は我を取り戻した。時計に目をやると、一限目の授業の開始時刻から十分が過ぎていた。
個室を出て、しばらく廊下を歩いていたときだった。慎吾の目に、違和感のある姿が飛び込んで来た。ジーンズにポロシャツという、真にこの場に似つかわしくない、ラフな服装をした男が目の前の廊下を横切ったのだ。
「先生、妙な男が校内に入り込んでいます」
慎吾は思わぬ闖入者に声を上げた。
だが、藤原は穏やかな声で、
「何を言っているんだ、津森。彼は湘北高校(うち)の生徒だよ」
「えっ? でも、先生。彼は制服を着ていませんでしたよ」
ははは……と藤原は高笑いをする。
「お前は知らないのか。彼は普通の生徒ではない。補習科生だ」
「補習科? 先生、補習科って、何ですか」
「補習科というのは、過年度生のためのクラスだ」
補習科と言うと、出来の悪い生徒が特別授業を受けるクラスのように聞こえるが、そうではなく、湘北高校は全日制普通科と理数科の他に、卒業生の受験勉強を請け負う、補習科と称するクラスを、理数系と文科系の両方に、一クラスずつ併設していた。
戦後まもなくという古い話になるが、松江市は島根県の県庁所在地であり、県下一番の街ではあったが、こと受験勉強に関して言えば、東京や大阪のように予備校が充実していなかった。そこで、PTAの要請にこたえる形で補習科を新設したのである。それが今日まで継続されていた。
「なるほど、そういうこと……」
と言い掛けて、慎吾は、はっとなった。
――もしかして、彼女は補習科の生徒なのでは……。
そう気づいた慎吾は、
「補習科の生徒は、制服を着て登校しても良いのでしょうか」
と興奮を抑えるように低い声で訊ねた。
「もちろんだ。制服でも私服でもかまわない」
――間違いない。彼女は補習科の生徒なのだ。
藤原の言葉でそう確信した慎吾の胸に、希望の灯が再点火された。
だが同時に、悩ましい問題も生まれていた。
もし、彼女が補習科の生徒だとすれば、少なくとも慎吾より三歳年上ということになる。しかも、三年生と卒業生の間には一年以上の重みがあった。卒業生には、高校生という同一の範疇から外れ、一気に大人の感覚を抱かずにはおれない。
その一方で、まだ女性というものを知らない慎吾は、年上の美女の手解きで性の世界に導かれるかもしれないという思春期の少年が等しく抱く妄想にも駆り立てられた。
とはいえ、その都合の良い妄想も一瞬のことだ。
――大人の入り口に立った女性が、子供のような自分を相手にしてくれるだろうか。
という不安がどうしても勝ってしまう。
しかも、捜索は難航を極めることが予想できた。
補習科室は、三年生棟の裏側に独立した建物としてあったからである。建物自体は渡り廊下で繋がってはいたが、学生が行き来することは滅多に無く、在校生とは一線を画していたので、それこそ真っ当な理由がなければ近づくことさえできない、言わば陸の孤島のようなものだったのである。
慎吾の心中は振り子のように揺れ動いたが、年長者への恋心はともかく、あの麗しい脹脛の持ち主を探し出したいという欲求は少しも衰えることがなかった。
慎吾は補習科棟に近づく方法を探して、再び深い思考を重ねた。
同時に、
――いったい、この狂おしいまでの情熱はどこから生まれて来るのだろうか?
と自分自身に驚いてもいた。執念ともいうべき熱い想いが、自身の体内に宿っていたことが信じられなかった。慎吾は、何者かに操られているような感覚にすら陥っていた。
しかし、懸命の思案にも拘わらず、補習科棟に近づく方法は見つからなかった。
休憩時間になると、慎吾は一人で二年生との間にある中庭の草木を眺め、気晴らしをするようになっていた。
五月は赤、黄、紫、橙色と、色とりどりの庭躑躅が絢爛として咲き誇っていた。蜜蜂がどこからともなく飛んで来て、せっせと蜜を吸うと、またどこへともなく飛んで行った。
何気に見上げると、澄み切った紺碧の空に、一片の雲がその高いところに浮かんでいて、裏日本と揶揄される山陰特有のどんよりした空気感はどこにもなかった。
授業の準備をするため、教室に戻ろうと、寄り掛けていた体を窓枠から起こしたときだった。右手の方角から、作業服を着た初老の男性が視界に入って来た。
――何をするのだろうか。
とそのまま注視していると、彼はおもむろに中庭の草取りを始めた。男は湘北高校の用務員だった。
これだ! と慎吾の脳裏に閃きが走った。
用務員室は、あの補習科棟のすぐ隣にあるのだ。
慎吾は用務員と親しくなれば、用務員室から補習科を観察することができると考えた。同時に慎吾は、用務員と親しくなる方法も思いついていた。
簡単なことだ。彼の草取りを手伝えば良いのだ。
次の休憩時間、慎吾はさっそく庭に飛び出して行ったが、もはやそこに彼の姿はなかった。中庭の草取りは終わっていたのだ。
だが、中庭は他にもある。
慎吾は二年生棟と三年生棟の間の中庭に向かった。
慎吾の睨んだとおり、用務員は場所を移して草取りを続けていた。
慎吾は走り寄って彼の横にしゃがむと、無言で草取りを始めた。
「なんだ、君。本校生徒がそんなことをするんじゃない」
用務員は怒ったような声で止めた。
年は六十代の半ばを超えているだろうか、日焼けした顔は皺だらけで、短い頭髪も白い。
「いえ。手伝わせて下さい。草取りなんて、懐かしいものですから……」
「草取りが懐かしいだと?」
訝しげに訊いた用務員に、はいと慎吾は肯く。
「子供の頃、畑仕事に出向く祖母に着いて行き、草取りを手伝ったものです。祖母は草木の名前を一つ一つ教えてくれました。言わば草取りは遊びのようなもので、祖母との思い出がいっぱい詰まっているのです」
「畑仕事というと、君は田舎に住んでいるのかね?」
「半島の方です」
「半島? 半島の、どの辺りかね」
「浜浦です」
「浜浦? 浜浦神社のある浜浦か」
用務員の口調に興味の色が滲んでいた。
「そうです。浜浦神社の神官は僕の親戚が務めています」
「なんだって!」
用務員の声が上ずった。
「それは奇遇じゃなあ。わしはその昔、浜浦神社にお世話になったことがあるのじゃ」
「世話、ですか?」
「そうじゃ。わしが高校生の頃じゃから、半世紀近くも昔のことじゃが、夏休みに隠岐へ行く途中、浜浦神社に立ち寄った。何分、貧乏学生じゃったから、旅費など十分にある筈もなかった。夏じゃったから、わしは、神社の軒先をお借りして、野宿するつもりだったのじゃが、そんなわしを見つけた浜浦神社の神官さんが無料で宿泊させて下さったんじゃ。宿泊だけでなく、夕食と翌日の朝食、おまけに昼食としておにぎりまで持たせて下さった。見ず知らずのわしに、そこまでの情けを掛けて下さるとは……わしは、あのときの感激を今も覚えているのじゃよ。そうか、そうか。君は、あの浜浦神社の縁者か……」
用務員は何度も肯きながら懐かしそうに語った。
――そんなことがあったのか……。
赤田勝次といい、藤原先生、この用務員といい、人の世は不思議な縁で繋がっているものだ、と慎吾はしみじみと噛み締めた。
「あのときの神官さんは、ずいぶんとお若い方だったが、今もご健在かね」
「はい。もう八十歳になりましたので、神官職は義伯父に譲りましたが、元気で暮らしています」
「そうか。それは良かった。ところで君、名前は何というのかね」
「津森慎吾といいます」
「津森君か。わしは野沢光男じゃ。どうだ、津森君。明日に昼休みにでも用務員室へ遊びに来ないか。もっと君と話がしたい。コーヒーとお菓子も用意しておくぞ」
――しめた!
慎吾は心の中で両手を打ったが、平静を装う。
「しかし……」
「何も心配はいらん。学校側も、わしのところへ出入りするぐらい目くじらは立てたりはせん」
用務員は笑顔で言った。妙に説得力があるのは人徳だろうか。
「それなら、明日おじゃまします」
慎吾は喜びを押し隠すように言った。
次の日から慎吾の用務員室通いが始まった。
昼休みになると、売店で買った昼食を用務員室で食した。用務員室は思いの外快適な空間だった。二LDKの広さで、冷暖房完備、トイレと風呂もあった。
慎吾はテレビを観ながら昼食を終えると、野沢が入れてくれたコーヒーを飲んだ。
慎吾に気を使っているのか、野沢から話し掛けて来ることはなかった。ときどき慎吾から話し掛けたとき、嬉しそうな笑みを浮かべて応じるだけだった。
慎吾は、深く詮索したりしなかったが、彼の言動から漠然と彼の寂しい身の上を察した。同時に、なぜか彼の現在の境遇が、決して悲観すべきものではないような気もしていた。
高校生の慎吾に、人生の何たるかなどわかるはずもない。だが、少なくとも彼が接してきた大人たち、日本海水産を創立した祖父、現社長の父、中学校の校長を勤め上げた母方の祖父、由緒正しい浜浦神社の神官職にある義伯父、そしてその世界で三本の指に入るほどの大家である藤原と比較しても、人間的になんら劣るとは思えず、ましてや彼が人生の落伍者でないことぐらいは皮膚感でわかった。
慎吾は彼女探しのことを野沢に打ち明けた。胸の奥に仕舞っていた秘事を告白する気になったのも、野沢に一種の親近感を覚えていたからに他ならなかった。そして何より、野沢であれば、己の変質的な行動を真摯に受け止めてくれると確信していた。彼なら一笑に付したり、侮蔑の眼差しを向けることはないと信じていたのである。
「そうか。若いというのは良いのう」
野沢は羨ましような顔で言う。
「脹脛に惚れるなんで、おかしくありませんか」
「そんなことはありゃしない。どちらかと言えば、まだまともな方じゃ。いわゆるフェチというのは人それぞれじゃ。男の指先や浮き出た腕の血管に惚れる女もいる。わしは小またの切れ上がったうなじに弱いがの」
ははは……野沢は高笑いをすると、
「そういうことなら、好きなだけここに来たらええ。そうだな、脹脛はともかくとして、背が高くて髪の長い女生徒を見掛けたら、気に留めておこう」
真顔に戻して約束した。
慎吾の思ったとおり、野沢は真面目に応じてくれたばかりか、協力まで申し出てくれた。慎吾は、物心両面で力強い見方を得た思いだった。
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