ハルジオン

K

序章

「私達、上手くやって行けるかしら」

 

 数多の星が瞬いていた。

 無限に広がる冷たい闇の中で、自らの存在を光とし奏でる姿は美しくもあり悲しくもあった。残酷な沈黙に飲み込まれまいと必死で抗うも、紡ぎ出された微かな音色は誰に聴かれる事もない。

〝此処に、此処にいるのです〟

 哀しみの連鎖は銀河を越えてなお、時間を超越した輪廻の終焉を求めて響き渡る。

〝此処です〟

〝誰か、聴こえませんか〟

 幾度も繰り返す。

 時には泣いて声を上げ、叫び、慟哭し、救いの手を永遠の彼方へと伸ばす。無常成る瞬きの中で燃え尽きる命は、余りに脆く刹那的であった。

 その指先は温もりを知らず、凍蝶として儚い羽ばたきを終えて霧散する。漆黒で染められた広大な舞台の上で、またひとつの光が姿を消した。

 何も見えない。

 何も聞こえない。

 何千年であろうか。

 何万年であろうか。

 人類の歴史すら一瞬に過ぎない長き時間を、絶望すら凍らせる孤独だけが取り残されている。

 星が瞬いた。

〝光をもたらす者〟と名付けられた外宇宙探査移住船の片隅にて、彼女は光と闇を領有する世界に心を痛めていた。

 哀しみから逃れる為に奏でられた音色が聴こえた気がして、アンレイラは体を竦ませる。

 その瞳に、宇宙の冷たい煌きが反射した。

「不安なのかい、アン」

 後ろから暖かな腕がアンレイラの細い肩を抱いた。

 夫の温もりにアンレイラは手を重ねると、瞳を閉じて体を預けた。重力が少ない為に、その爪先が緩やかに浮かび上がる。

「少し、怖い気持ちはあるかしら。でも私は、いいえ」

 何かを言いかけ、アンレイラは添えられた夫の手を握る。

「貴方は怖くないのかしら、クライル」

 宙へ逃げ様とする妻の体を強く抱き止め、クライルは耳元で何度も「大丈夫だよ」と繰り返した。

 それはまるで、赤子に言い聞かせる声色であった。その時、すでにクライルは何かを感じていたのかも知れない。

 人との絆。

 妻との絆。

 そして家族との絆。

 ふたりの交わした愛により、幾つもの星団が血色に変わったとして誰が責められ様か。罪なき者が愛を守る為に産み出してしまった罪を、一体誰が裁けるであろうか。

 そこには只、愛する者を守りたいと願う、他者への慈しみだけが存在していたのである。

 それにより失われた星々の命は、何を想うであろうか。

 その命は、ふたりの愛を許すであろうか。

 その愛は、報われるのであろうか。

 その答えは何万年と先へ紡がれた人類へと託される。

 今はそっと、小さな光がふたりの未来を揺らす。

「大丈夫、大丈夫だよアン。我々は選ばれた者なのだから。それに、もう後戻りは出来無いんだ。この先、何があろうと何が起きようと僕が君を守るよ。この命に変えても」

 目を伏せているアンレイラの唇が和らいだ。

「貴方が居ないと困るわ。貴方が傍に居てくれさえすれば、私は何処であろうと幸せよ。だから」

 クライルは愛おしそうに、そして情熱的に、再び力を込めて抱き締めた。その勢いに、ふたりの体は音も無く浮かび上がる。

 長いアンレイラの髪が揺らめき、その隙間から恒星の光が差し込んで金色に輝いた。

「勿論、何処にも行かないよ。君を置いて行く事なんて絶対にしない。君は僕の光であり、生きている理由なのだから」

 アンレイラは、鈴音の様な小さな笑い声を上げた。

「陳腐な台詞ね。でも、嬉しい」

「君が笑ってくれるのなら、どんなに滑稽でも陳腐な事でも言うよ。新しい場所で笑いながら暮らそう。ずっとずっと一緒に、ふたりで何時までも」

 ふたりの体は揺蕩いながら緩やかに回転し、瞼を開いたアンレイラの瞳に光が差し込まれる。細い指が、少し癖のあるクライルの髪を撫でた。

「でも、それは出来無いわ。クライル」

「何故だい」

 驚いて、クライルは愛する者の顔を覗き込んだ。

 アンレイラの両目は細められ、喉を鳴らしている。

「アン、アンレイラ。どうして出来無いんだ。教えてくれ」

「何時までも、ふたりでは居られないわ」

 口元を緩ませる妻に、クライルは真剣な顔を向けている。

「どうしてそんな事を言うんだい。何か君を悲しませる様な事をしたかい。教えてくれアン、僕は」

「私達は、もう今迄みたいには行かないのよ。ずっと、ふたりで居られる事は出来無い。それぞれの役目を終えて、この船と同じ様に新たな旅立ちを向かえるのよ」

「アン」

 何かを言いかけたクライルの唇に、濡れた瞳を瞬かせながらアンレイラはそっと指先を押し当てた。

「だって」

 アンレイラは少女の様に頬を赤らめた。

「これからは、三人で一緒なのだから」

 空気が失われてしまったのであろうか、クライルは驚いた顔で目と口を開けている。

 その様子に、堪らずアンレイラが噴き出した。

 抱き合ったふたりは宙を舞い、恒星の光がお互いの背中を照らし出す。ゆら、ゆらと、アンレイラの髪に黄金の光が走り、クライルの心中へと届けられた。

 固まっていたクライルの口角が上がり始め、その顔に表情が戻ると歓喜が爆発した。

「アン」

 空中に、アンレイラの華やかな悲鳴が響く。

「駄目よクライル。そんなに力を入れたら痛いわ」

「良かった、良かった。有り難うアンレイラ」

 クライルは喜びに我を忘れ、妻の体を抱き絞めると頬に何度も唇を押し当てた。

「僕は父親に成れたんだね。本当に良かった」

「そう。貴方は科学者であると同時に、父親でも有るのよ。だから今後は、眠る時まで科学の力で人類の未来を変えて行く話ばかりでは無く、もっと家族の話もして欲しいわ」

 苦笑すると、クライルは降参と言う様子で額に手を当てた。

「御免よ。そして本当に有り難う。こんな僕をずっとずっと支えてくれて。科学者として成功した事も、この計画が実行出来た事も、全て君のお陰だよアンレイラ」

 クライルは抱き絞めている妻の背中越しに、彼方へと広がる星に目を向けた。

「そうだね。僕達は窮地に立たされた人類の先駆けとして、新天地で第二の人生を歩むんだ。三人で支えあって、この船の皆と協力して生きて行くんだ。僕は人の愛を信じているよ」

「陳腐だわ」

 アンレイラの涙が宙に零れ、ふたりは恒星に照らされながら唇を重ねた。それは銀河に血の星雲を誕生させる、数万年に及ぶ呪いの始まりであった。

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