第2話


 そして七月下旬。

 長かった梅雨が開けた翌日、ひどく寝覚めの悪い夢にうなされて、起き抜けの気分は最悪だったけれど、それでも午前の授業を受けているうちに、わたしの機嫌は回復した。なんといったってその日は、水曜日だったから。

 ようやく梅雨が明けて、いっぺんに日射しがきつくなった。日焼け止めの効き目なんかこれっぽっちも信じられない季節。お金はないけど可愛い日傘を買おうかな、だけどバイト増やしたら本読む時間減っちゃうな、とかそういうようなことを考えながら、図書館まで歩くわずかな時間で汗びっしょりになった。

 須田原の顔を見つけたときには、もう朝から見た験の悪い夢のことなんか、ほとんどきれいに忘れていた。

 まえの週に須田原から教えてもらったミステリ小説が、やっぱりものすごく面白くて、その日の話はもっぱらその作家のことだった。

 それで、同じ作家の別の本をまた勧めてもらって借りて。須田原が家から持ってきてくれた漫画もあったから、もうすっかりいつものことになりつつある大荷物で、よろよろしながら図書館を出た。

 須田原は図書館のすぐ近くに住んでいるらしくて、それも駅と方向が同じなので、いつも帰りぎわには、途中の交差点で道が分かれる。だからこの日も、いつものとおり、そこでじゃあねと手を振るつもりだった。

 だけどいきなり、豪雨に遭った。

 ひどく極端な天気だった。午後イチ、図書館に向かったときにはきれいに晴れていたというのに、カフェを出るころにはちょっと雲が出てるなと思ったら、そこから五分も歩かないうちに雨粒がばちばち地面をたたき出して、あっという間に猛烈な土砂降り。

 折りたたみ傘はいちおう持ってきていたのだけれど、そんなものじゃたいした役には立たなかった。借りた本、と慌てたのは二人とも。

 荷物を抱えなおしながら、須田原が何か叫んだ。ほとんどは雨音に紛れたけれど、うち、すぐ、傘、それだけがかろうじて聞きとれた。

 とっさに躊躇した。だけど須田原はすぐに走り出して、それで結局、そのあとについていった。



 須田原のうちは、本当にすぐそこだった。

 ちょっと年季の入った一戸建て。てっきり一人暮らしだと思っていたから、ちょっと面食らった。飛び込むようにして軒先に入れてもらったはいいけれど、須田原が鍵を開けるのを待っている間にも、横殴りの雨に打たれてますますびしょ濡れになっていく。

「ちょっと雨宿りしてったら」

 玄関戸を開けながら、須田原が振り返った。

「や、軒先貸してくれたらいいよ」

 とっさに口からそんなセリフが出たのが、純粋な遠慮からではなかったのは、須田原にも伝わったと思う。

 自意識過剰なのは自分でもわかっている。この状況をまったく警戒しなかったらそれはそれで女子としてどうなの、というのを差し引いても、たぶんわたしの反応はちょっとばかり、大げさだった。

「けど、軒先ったって」

 須田原があきれ顔で指さしたのももっともなことで、横殴りの雨で玄関戸がびしょぬれになっているというのに、軒先もへったくれもなかった。

 ごめんそれじゃあちょっとだけ玄関に、と肩をすぼめてお邪魔したら、廊下をぬらしながら上がっていった須田原が、洗面所からタオルをほうり投げてくれた。抱え込んでいた荷物からまず図書館の本を救出して、それからびしょ濡れの裾やらなにやらぬぐっていたら、とてもタオル一枚では足りなくなって、

「すごい降りだな」

 須田原が窓のほうを見ながら、追加のタオルを手渡してくれた。

 夏だというのに、雨が降るなりぐんぐん気温が下がって、濡れた足が冷たい。鳥肌が立ってきたのを見たわけでもないだろうけど、須田原がためらいがちに口を開いた。

「上がったら。玄関先冷えるだろ。この家、古いから」

 あ、うん、と曖昧な返事をしながら、ちょっとそわそわしたのは、やっぱり自意識過剰なんだろうけど。

「須田原、実家だったんだね。女の子つれてきたら、おうちの人に誤解されない?」

 半分冗談、半分本気でそう聞くと、須田原はあっさり首を振った。

「いや、俺ひとり暮らしだよ」

 なんでもないような口調だったけれど、どきりとした。

 どういう事情があるのかわからないけれど、もしかして悪いことを聞いたのかも、というのが半分。一人暮らしならなおさら、付き合ってもいない男の家にお邪魔するってどうなの、とまたしても自意識過剰なことを考えたのが半分。その葛藤だか躊躇だかが、思い切り顔に出たんだろう。須田原が頭を掻いて、困ったような顔をした。

「あ、ええと、ごめんその」

 ごめんというのもなんだか変な気がしたけれど、とっさにそう言うと、須田原はちょっと笑った。

「いや、悪い。一人暮らしの男の家に上がれって言われて、警戒しないほうがどうかしてるだろ」

 その口調が、なんというか、この上なく常識的だったので、よけいにいたたまれなくなった。

「けど玄関先にお客置いたままじゃ、俺も落ち着かないしさ。半径二メートル以内に近づかないから、茶くらい飲んでったら。雨、しばらく止まなさそうだし」

 たしかに雨足はまだまだ強くて、雨のせいで空は暗いけれど、時間的にはまだ午後四時くらいのものだった。そういうあれこれを、つい心の中で言い訳しながらも、それじゃあとのこのこ上がったのは、むしろこっちのほうに下心があったと言われてもしかたがないような気がした。須田原のセリフじゃないけど、それこそもし何か事件とかあったときに、世間様からは女のほうも軽率だったとかいうようなことを、おそらくはその百倍くらい毒気のある口調で言われちゃうようなパターン。

 遠慮しいしい軋む廊下を通って、居間にお邪魔した。須田原の言うように、かなり年季の入った家のようだったけれど、一人暮らしだというわりに、全体的に小綺麗なというか、こまめに掃除している感じがした。七月だというのに居間にはこたつが出しっぱなしで、そこだけが唯一それっぽいずぼらさで。

「乾かすのに、こたつか電気ストーブならあるけど……さすがに暑いよな」

「いいよ、そのうち乾くでしょ。タオルありがとう」

 洗濯も自分でするんだろうに、なんか悪いなあとか思っているうちに、須田原はわざわざ急須を引っ張り出して、日本茶を淹れてくれた。その上、湯飲みをこたつの上に置いてから、自分はそそくさと、ほんとうに二メートル離れた場所に移動する。その律儀さが可笑しくて、つい吹き出してしまった。

「なんか痴漢冤罪を恐れるサラリーマンみたいだよ、須田原」

 軽口を叩いたら、やっぱり笑いながら「似たようなもんだろ」と返ってきた。まあそうだろう。

 須田原が間が持たない風にテレビのスイッチを入れて、「そうだ、さっきの漫画の続き、持ってくる。何だったらここで読んでけば」とか何とか言いながら、階段を上っていった。それで居間にひとり取り残されたわたしは、つい、きょろきょろしてしまった。

 取りに行く、というからには二階に本棚があるんだろうけど、居間にもいくつかカラーボックスがあって、その中にも本がぎっしり詰まっていた。

 本人が言うように、SFが一番多い。ざっと見ただけでもそのほかにミステリ、歴史、時代小説に冒険小説、純文学もあった。そしてやっぱりノンフィクションの、司法制度の裏側がどうの、遺伝子ビジネスがどうのとかいうような、ルポやエッセイなんかもちらほら入っている。

 自分でもこれだけ買って、さらに図書館にも通い詰めるんだから、ほんとうにたくさん読んでいるんだなあとか、そんなことを考えながら、ついつい本のタイトルを目で追いかけて。

 そのカラーボックスのすみに、なにか黒っぽい汚れが染みついているのが、ふと目についた。

 顔を上げたら、すぐそばの襖にも点々と同じような染みがいくつか、

 血しぶき?

 うっかり、怖い想像をしてしまった。

 さっきまでミステリの話で盛り上がったりしていたのがいけなかった。しかも隣のふすまはそれだけ新しくて、最近になって交換されたみたいだった。よけいに怖い。

 思わず腕をさすったのは、雨で寒いからだけじゃなかった。

 間の悪いことに、ちょうどニュースの時間になって、須田原がつけていったテレビが、殺人事件の続報を流しはじめた。それで思わず、襖の染みから目が離せなくなって。

 なんだろうこの染み。須田原が戻ってきたら、冗談ぽくさらっと聞いちゃおうか。なにこの家で殺人事件でもあったの、とかそんなかんじで。そうしたらたぶん、何でもないような理由が返ってくるんだから。

 だけどうっかり本当に怖い話が出てきたら、どうしよう。たぶんないけど、でも、絶対に有り得ないということでもない。だって一人暮らしだって言ったし、もしご両親の亡くなった理由とかに関係してたら、それこそ爆弾もいいところで。いやだけどやっぱりちょっと気になる、

 とかいう余計なことをぐるぐる考えているうちに、須田原が階段を降りてきた。

 話しかけようとした言葉をとっさに飲み込んだのは、須田原がちょっと、怖い顔をしていたからだ。

 わたしまた何かやらかしたかな、なんて思ったのは一瞬で、須田原の目は、まっすぐテレビの画面に向いていた。レポーターが殺人現場の前に立って、当時の状況を繰り返している。

「怖いねこれ、」

 現場、殺された人の家のすぐ近くだったんでしょ、と世間話のつもりで振ろうとして、だけど途中で口をつぐんだ。須田原がまだ怖い顔のまま、こっちを振り返ったから。

 須田原は、殺人事件には何もコメントしなかった。手に持っていた漫画をやっぱりこたつの端においてから、やっと思い出したように、表情をゆるめた。「そうだ、二メートルだった」なんて、おどけたように笑って、距離を取る。

「いま読む?」

 聞かれていったんはあいまいにうなずいて、さっき借りた一巻をバッグから取り出したけれど、やっぱり落ち着かなくて、たいしてページもめくらないうちに顔を上げた。「やっぱり借りてって、ゆっくりはまって読むわ。面白そうだし」

 今日は荷物多いし、続きはまた今度貸してくれる、とかなんとかいいながら、ずっと内心でそわそわしていた。

 雨、早く止まないかな。

 さっきよりはわずかに雨足が弱まったようだったけれど、それでもまだまだ本降りの気配で、帰りが遅くなるからと言って立ち上がるには、いくらなんでもあんまり早い時間だった。

 ニュースはまだまだ殺人事件の続報を流している。画面に視線を戻した須田原は、やっぱりどこか不機嫌そうな、硬い横顔を見せていて。

 何がそんなに気に入らないんだろう。そんな顔するくらいなら、チャンネル変えちゃえばいいのに。そう思いはしたけれど、言い出せなかった。

 いっそ、見たい番組があるとかなんとかいって、空気読まずにリモコンとって変えちゃおうか。だけどこんな時間に何の番組やってるかなんて知らない。

 画面には、殺人現場の再現シミュレーション動画が示されていた。被害者が犯人に抵抗する場面で画像を静止させたキャスターが、飛び散った犯人の血をズームさせて、原稿のつづきを読み始めた。

『――犯人逮捕につながった決め手は、現場に残された血痕のDNA鑑定結果でした。いまだにプライバシー保護の観点から、廃止を求める声が聞かれる遺伝子情報登録法ですが、一方では成立以来、犯罪検挙率が大幅に上がったというデータもあり……』

「これ、さ」

 急に須田原が口を開いた。え? と聞き返したら、DNA登録法、と帰ってきた。

「覚えてる? 成立したときのこと」

 そういえばちょうど今朝、そんな話題をテレビで見かけたばかりだった。聞き飽きた内容の市政広報だったから、すぐに消してしまったけれど。

 正直言って、あまり覚えてはいなかった。「中学のときだったっけ。一時期やたらニュースで騒いでた気がするけど」

 あいまいな記憶をたぐりながら首をかしげたら、須田原はちょっと皮肉っぽく笑った。ぎくりとしたのはその表情が、大学で見る作り笑いとも、本の話をしているときのたぶん素の笑顔とも、ぜんぜん違っていたからだ。

「俺はよく覚えてる。二〇二五年の秋だった」

 顔は笑っていたけれど、声音は硬かった。須田原は画面のほうをじっと見たまま、振り返らずに、話しはじめた。

「ちょうどそのころ、立て続けにいくつも、凶悪事件の話題が報道されてさ。遺留品が残ってるのに、結局犯人が特定できないまま長引いてるやつの。同じ頃、DNA鑑定で何十年越しかで冤罪がわかったってニュースも、何件かあって……」

 そんなだったかな。おぼろげな記憶を辿ろうとしたけれど、あいにく中学生の頃の自分は、どう考えてもニュースになんか全然関心がなかった。須田原は子供のころからしっかりしてたんだなあとか、どこをどう振ってもそんな残念な感想しか出てこない。

 まともな相づちも打てなくて、だけど須田原はそんなこと気にもしてないように、話を続けた。

「どこだったかな、ヨーロッパの国でさ。日本より先に、国民にDNA登録を義務づける法律が可決されたところがあって。国民投票かなんか、やったんじゃなかったかな。それで犯罪が減ったとかで、それまでぜんぜんそんなことニュースにもなってなかったのに、急に議論が始まって」

 少し早口気味に、須田原は喋った。その声が、ちょっと緊張したように掠れていて、話の中身よりもそっちのほうに、わたしは気を取られていた。

「うちの親父は、監視社会がどうだのって文句言って顔しかめてたけど。母親のほうは、あらいい法律ね、犯罪減るんならいいじゃないなんて、たいして深く考えもしないで言ってて」

 お母さんのことをハハオヤって呼ぶときの声が、なんていうか、ひどく冷たくて。

 この話は、どこに行くんだろう。

 聞き続けるのが怖いような気がした。だけど口を挟むこともできなくて、わたしはただ息を詰めて、須田原の表情から目を逸らせずにいた。怒ったような、緊張しているような横顔から。

「俺、それまでどっちかっていうと母親のほうと仲良くて、親父のことは嫌ってたんだけどさ。いつも人の言うこととかにケチつけるばっかで、他人のこと、全然ほめないんだ。自分だけが賢くて、世の中のこと全部判ってるみたいな顔してて。そういうのが子供心にも嫌でさ。それに比べて母親は、たいがい呑気っていうか、ポジティブっていうか。あらいいじゃない、が口癖で……」

 そこで須田原は口をつぐんだ。ニュースの画面が切り替わったからだ。報道が終わったわけではない。加害者の家の近所の人とかいう、顔を見せないショット。

 いつも表情が暗くて、何を考えてるのかよく分からない子だった。昔からちょっと変わったところがあった。そういうお決まりの定型句のような言葉が続いて、カメラがスタジオに戻る。

『――また犯人の遺伝子型が、いわゆるMA-K2型であることが、今朝、N県警の発表から判明しました。これは一時期、殺人遺伝子と呼ばれて議論を呼んだ遺伝子の組み合わせパターンで、今年に入ってから起こった殺人事件のうち、逮捕された犯人の三割強が同様の型であると言われています。県警は、動機については引き続き捜査中としながらも……』

 ずっと画面をにらんでいた須田原が、そこでふっと、こっちを向いた。

 じっと見られて、わたしは落ち着かなく身じろぎをした。須田原は何度か口を開きかけて、ためらって、それから、

「俺、これなんだってさ」

 吐き捨てるように、ひとことそう言って、黙り込んだ。

 話についていけなくて、わたしは馬鹿まるだしの顔で、ぽかんとしていた。テレビの中ではゲストが好き勝手に、推測なんだか憶測なんだかわからない因果関係を議論していて、無責任な野次馬のコメントなんかもテロップで流れていて、

「これ、って」

 ようやく口から出たのは、それだけだった。

 須田原は目を伏せた。伏せて、低い声で、囁いた。

「殺人遺伝子」

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