第一話 俺の幼馴染はかわいいだけじゃない

五郎次爺ちゃん特製ドリンクは即効流しに捨てて、俺は学校に行く支度をすませる。それを目にした五郎次爺ちゃん再び寝室に閉じ篭って寝込む。自分の思い通りにならないとすぐこんな風に拗ねる癖があるのだ。シルバーストライキである。

 午前八時ちょっと過ぎ、学校がある日はいつもこの時間帯に玄関のチャイムが鳴らされる。

「おっはよう、梶之助くん、学校行こう!」

「あのさ、千咲ちゃん。もうその名前で呼ぶの、いや、苗字も珍しいからなんか嫌だけど」

 この子の名前は西海千咲、俺んちから歩いて二分くらいのすぐ近所に住む、俺の幼馴染だ。俺が小学校に入学した頃からいつも一緒に登校している。ちなみに彼女の身長は144センチと俺よりもさらに低く痩せ型で華奢に見え、日本人形のようなサラサラした黒髪に三つ編み一つ結び、つぶらな瞳に丸い眼鏡をかけた、まさしく美少女ゲームなんか出てくる文学少女キャラそのもののとってもかわいらしい子なのだ。

 だが、その外見とは裏腹に俺とは天地真逆でスポーツ全般超万能。中でも特に信じられないのが、その体格で“相撲”をやっていることなのだ。しかもかなり強い。俺は昔から練習相手としていつも標的にされ、何度も何度も何度もぶん投げられた経験がある。読者の皆さん、どうか俺のことを情けないと思わないでくれ、お願いだ。

 あっ、さっき千咲の容姿のことあんな例え方したが俺、そういう系のゲームは一切やらねえぞ。じゃあ何で知っているのかというと、じつはここだけの話、五郎次爺ちゃんが筋金入りのゲーマーでな、特に美少女ゲームが大好きなのだそうだ。お年寄りがTVゲームしかもこのジャンル好んでするなんて珍しいだろ? ところが五郎次爺ちゃん、家電製品は全般的に大の音痴でな、まあこちらは八十過ぎのご老人にはごく普通のことだとは思うが、エアコンリモコンの操作方法とか全自動ドラム式洗濯機の使い方なんかも全く知らないのだ。ゲーム機についても当然のようにチンプンカンプンで、トースターと間違えたのかソフト投入口に食パンや冷凍ピザなどがセットされてあることがしばしばあるのだ。そんなわけで、俺がゲーム機にCD‐ROMをセットしたり、パソコンの無線LAN設定をしてあげたり、さらには老眼なものだから小さい字とか、俺が代わりに説明書読んだりなんかして手伝ってやってる過程で、知らず知らずのうちに目にそんな情報が飛び込んでくるだけなのだ。

 俺の親父と母さんは、この時間には既に出勤しているので、齢八五の五郎次爺ちゃん一人残し出発。俺と千咲は高校に入ってからは自転車通学だ。所要時間は十分ほど。それほど遠いわけでもないので雨の日は歩いていくこともある。

 実は俺、恥ずかしながら中学へ上がる頃までチャリには全く乗れなかった。俺がコマなしで乗れるようにまでなれたのも千咲が猛特訓してくれたおかげなのだ。俺は千咲にとても感謝している。


 いつも通り八時二十分頃に学校へ到着。俺と千咲は同じクラス、二組だ。

 二十五分の予鈴、次の半のチャイムで朝のホームルーム開始。そして四十分のチャイムが鳴ると一時限目の授業開始、今日は数学Ⅰ。

「それではこの問題を、鬼丸君」

 マッシュルームカット真四角メガネ小太り見た目オタク系教師に指名され、黒板へと向かう俺。白チョークですばやく解答を書く。

「答えは、x=±2、±√3i、です」

 出題されたのは四次方程式の解を求める問題だった。

「おう、見事正解ではないかあ! いじわるして数Ⅱの内容出したのに。やはり君はオイラァの見込んだ通りの秀才君だな」

 某数学者の名前のような一人称を使うのも彼の特徴だ。

 俺にとってはこんなものお茶の子さいさいである。俺は自慢ではないが入学式翌日にあった新入生テストで、国数英の総合得点はこの秀才ばかりが集う理系特進クラスでもトップを取得している。親父の期待は裏切らない。そして中学卒業する頃には既に数Ⅲまで高校数学全内容の知識が頭に入っていた。そのため今更授業を聞くまでも無いが、サボると当然卒業単位は取れないからな。

ちなみに千咲の成績はこのクラスでは中の下くらいだ。どちらかというと文系科目の方が得意みたい。

 二時限目に現国、三時限目に現代社会。そして四時限目数学Aの授業を受け終えて昼休みに入る。

「梶之助くん、お弁当分けてちょうだい」

 千咲からの要求、もちろん俺は快く了承。母さん手作りの弁当は俺を大きくしようとでもしてるのかとてつもなくドでかくてな、五人前はある。俺にはとてもじゃないが食いきれないんだ。驚くべきことに体に似合わず一人で四人前以上食っているんだぜ。小田切○葉並みの食欲だ。

 

お昼休みは一時間。五時限目開始は午後一時十分からだ。月曜日は化学基礎の授業が組まれてある。

「それでは、前回の復習からやりましょう」

化学担当の先生は、六十代前半のベテランお爺さん先生。亀のようにゆったりのんびりとした口調で講義しておられた。ちなみに苗字も亀村だ。本当に名前の通りで面白い。

「さっそくやけど、塩化ナトリウム分子は何結合になりますかな? えっと、西海さん」

「……」

 千咲は当てられたことにも気づかず、すやすやと眠っていた。

「おやおや? お休み中」

 亀村は千咲のもとへと、これまた亀のようなゆっくりとした速度で歩み寄り、

「おーい」

 と、一声かけた。

「……」

 千咲、まだ目を覚まさず。

すると亀村は、ある行動をとった。

「起きて下さいなー」

千咲のうなじを指示棒で軽くチョン、チョンとつつく。亀村先生、遠慮せずに頭思いっ切り叩いていいぞ。

「ひゃっ、ひゃう!」

 千咲はビクンと反応し、パチッと目を覚ました。上手くいったみたいだ。

「……あっ、私、いつの間にか寝ちゃってたんだ」

 垂れたよだれを制服の袖で慌ててふき取る。

「おはよう西海さん、季節もようなって、お昼ご飯食べて眠いところやけど、今授業中なんよう。ところでさっきから質問なんやけど、塩化ナトリウム分子は何結合になるかな?」

 亀村は優しく問いかけた。

「えっと…………あのう先生、塩化ナトリウムってナトリウムさんが演歌を歌うことですか? そんなこと絶対出来ないですよね?」

 千咲はお目覚め爽やかスマイルで意見した。

その瞬間、他のクラスメイトたちからドッと笑い声が起きる。

「西海さん、まだ寝ぼけてるね。えっと……この問題は……鬼丸くんに答えてもらおう」

「イオン結合です」

 代わりに指名された俺は即答してやった。

「はい正解。お見事」

亀村はそう褒めて、ゆっくりとした歩みで教卓のところへと戻っていく。

「梶之助くんすごーい! 天才だーっ」

 千咲はそう大声で叫び、パチパチと拍手した。恥ずかしいからやめろ。つーか常識だろ? 俺は小学生の頃から知ってたぞ。


六時限目、書道。

そして長い一日の授業の終わりを告げる七時限目。

「あっ、やっべえ!」

 普段はこの時限、世界史Aなのだが、今日は特別編成時間割で柔道があったのだ。俺は完璧に忘れていた。

「では、次からは気をつけるように」

「はい、分かりました」

 ホッ、柔道の先生優しくてよかった。さすが愛称仏様だ。きっとことわざ通り三回までは忘れても大丈夫だな。

 俺は制服姿で参加。二クラス合同合計四十名くらいの男子でやるのだが、俺含め十名近くは忘れていたようで特に際立って目立つことはなかった。今はまだ受身の練習だけなのだが、これから組み手とか技の練習とかになってくるかと思うと本当に先が思いやられる。

 こうして全ての授業を終え、部活に入ってない俺はさっさと帰宅。明日から五連休だ。休み中は何して遊ぼうかな? いや高校に入ってからの学習の総復習もやらないと。

「梶之助くん、一緒に帰ろう」

「うん、いいよ」

 意外なようだが千咲も俺と同じく帰宅部なのだ。なぜかっていうと、千咲は女子相撲部に入りたがっていたが俺達の高校にはそんなものはなかった。っていうかそんなのがある方が珍しいと俺は思うが。そこで千咲は新しく立ち上げようとしたのだが、この学校で普段から相撲をやっているのは男子含めても千咲一人しかいなかった。そして部活動として認可されるには五人以上のメンバーがいなければならなかったためである。

 ただ、柔道部や空手部、稀にラグビー部のやつら(しかも男子)と週二、三回相撲の稽古をしている。俺はこういう部に正式に入部すればと千咲に勧めたのだがどうしても相撲部が良いといって聞かなかったのだ。

「ねえ、これから梶之助くんのおウチ寄っていい? 私、久し振りに五郎次お爺様にお会いしたいのーっ」

「別にいいけどね……」

 五郎次爺ちゃんは毎朝千咲が訪れる時間には俺の例の行動によって寝込んでいる。

 

       ☆


「こんばんはーっ、五郎次お爺様」

「ぅおう、千咲ちゃんだぁーっ。ワッホホーッイ! ボクのガールフレンドーッ。グッイーブニン」

 こんな風に、俺が帰る頃にはいつものキャラに戻っている。五郎次爺ちゃんは、犬は喜び庭駆け回るように歓喜し、千咲にガバッと抱きついた。

「え~いっ!」

 その刹那、千咲は五郎次爺ちゃんを一本背負い(柔道の技ではなく、大相撲の決まり手の一つである)でいともあっさり空中へ投げ飛ばしたのだ。五郎次爺ちゃんクルリ一回転ズサッと着地、衝撃で入れ歯ふわり空中遊泳。

「もう、五郎次お爺様ったら。でもそこが素敵ング」

 吹っ飛んだ入れ歯キャッチし付け直す五郎次爺ちゃん。

「フォフォフォフォ、ボク嬉しいな、若い娘さんに投げ飛ばされてもらえて」

 何を隠そう五郎次爺ちゃんは相撲が恐るべきほど弱いのだ。この俺でも軽く押せば勝てるくらいである。俺以上のもやし体型でまさに紙相撲級なのだ。

「どうよ梶之助、相撲はめっちゃんこ楽しいぞ。こんなに可愛い子達にブンブンブンブン投げ飛ばしてもらえるんじゃからな」

「……」

 五郎次爺ちゃんはじつのこと言うとな、本当の大相撲の世界というのを知らないようなのだ。双葉山が大活躍していた幼少期こそ大相撲をラジオで熱心に聴いていたというが終戦直後、彼の引退と共に自分もぱったり見なくなり、次第にその存在すら忘れ去っていったらしい。

代わって見るようになったのがこの地域で六十数年続く伝統行事、年一回開催され、千咲も小学生の頃から毎年出場している“女相撲大会”だったのである。

「そうじゃ! ボクね、お二人の対戦が見てみたいのう」

「五郎次爺ちゃん、そっ、そんな急に……」

「OK! お見せしてあげるよ五郎次お爺さま。ちょうどお日様に干そうとマワシ持って帰ってたから」

「ちっ、千咲ちゃんも乗らないでーっ」

「まあいいじゃない。そういや最近、もう五ヶ月くらいかな、お正月の時に取って以来、私も受験勉強忙しくて相撲封印してたから、かなり久々に対戦することになるね。そうと決まれば早速マワシ、マワシ。梶之助くん、付けてあげるからおズボンとおパンツ脱いで!」

 藪から棒に大胆発言。誰がやるか!

「ちっ、千咲ちゃん。俺、マワシ姿になるなんて恥ずかしいよ。前にも言ったでしょ」

「もう、なっさけない。そんじゃあ今回も上半身裸トランクス一丁でいいよ」

 それもかなり恥ずかしいことだが仕方がない。もしここで対戦拒否って逆らおうものなら後で学校の運動場のど真ん中で『送り吊り落とし』の刑喰らわされるのだ。相撲勝負に限らずな、ノート写させてとか、お掃除当番代わってとかそういう場合も然りだ。

 幼稚園の頃から度々させられて、高校入学してからもこれまで七回させられた。しかも昼休み狙って「今から私、梶之助くんを公開処刑しまーっす♪」とかご丁寧にスピーカーなんか使って大声で叫んで宣言して全校生徒の注目を集めてな、さらに先生達までもが拍手喝采楽しみながら見物してるんだぜ。

 こんな状況を羨ましく思ったのか被執行希望者男子、先生も含め年追うごとに増加中だ。しかし俺以外には大人しく、か弱く清楚で真面目な女の子としてまあその容姿からイメージされる通りのキャラで接している。ただそのギャップが素晴らしく萌えという輩も多い。

「あーら、いらっしゃい。お久し振りね千咲さん」

「こんばんは、おじゃましてます、寿美おばさま」

 千咲が女相撲用桜色のマワシ(上半身はもちろんレオタード着ているぞ)に着替え終え、準備が整った頃、母さんが帰って来た。自慢じゃないが、御年五〇を越えているけど白髪や顔の小皺はほとんど目立っておらずまだ三〇代前半くらいの若々しさが感じられる。背丈も一七〇センチ近くあり、すらりと高い。皮肉なことに、俺の四人いる姉は皆、母さんの遺伝子が受け継がれ一七〇センチを超えているのだ。

「千咲さんのマワシ姿はいつ見てもさまになってるわね」

「そ、それほどでもないですよーっ」

 頬をポッと桜餅色に染める千咲。

「ふふふ、かわいい。その格好してるってことは、ひょっとして――」

「その通りです。私今から梶之助くんとお相撲取るんです♪」

「やっぱり。どんな攻防が繰り広げられるのか楽しみね」

そんなわけで俺は離れに建てられてある相撲道場へとやって来た、というか千咲に腕を引っ張られ無理やり連れてこられた。木造瓦葺平屋建ての小屋で、造られたのは一九〇七年(明治四〇年)。すでに創立百年以上が経過している。当然のようにこれまでに何度か改修工事がされてあるものの、外観は建立当時のままほとんど変わっていない。入口横にある『鬼丸相撲道場』と木版に縦書き行書体で肉合彫りにされた看板もかなり色あせていて、時代の流れを感じさせていた。

出入口を通ってすぐ目の前に直径十五尺(およそ四メートル五五センチ)の土俵、さらに奥側に見物用の座敷も設けられてある。

かつて、五〇年ほど前までは、この場所で毎日のように鬼丸家や近隣に住む力自慢の男共よる激しい稽古が流血も交えながら行われ、大勢の見物人で賑わっていたようだが、今ではそんな面影すら全く感じられない。

今回みたいに、俺が千咲と無理やり相撲を取らされる時に使用されるくらいである。

 俺と他のみんなも靴と、靴下も脱いで素足になり道場の中へ。土足厳禁なのだ。

「千咲ちゃん、やっぱ勝負はやめない?」

 俺は過去の経験から当然のように怖気付いてしまう。

「今さら何言ってるのよ梶之助くん、男の子でしょ?」

「そうじゃぞ梶之助。男たるもの度胸が必要なのじゃ。そんじゃ、ボクが行司さんやるねっ!」

「それじゃあ、わたしが呼出さんやろうかしら」

「よろしくお願いします五郎次お爺様、寿美おばさま」

 千咲に頼まれると五郎次爺ちゃんはすぐさま大喜びで行司服に着替えて来た。右手には軍配団扇。俺んちにはこんなマニアックな物まで置いてあるのだ。

「梶之助くんも早く準備して」

「分かった、分かった」

千咲に命令され、俺はしぶしぶ長袖ワイシャツを脱いで上半身裸となり、ジーパンも脱いでトランクス一枚だけの姿になってやった。俺のあまり筋肉のない細身の体が露になる。

 俺の四股名は『谷風』。千咲に名付けられた、というか三代横綱そのまんまだが。

 そして千咲は『千咲風』。

 母さんは息を大きく吸い込んだ。そして、

【ひがあああああああしいいいいいいい、ちさきいいいいいかあああぜえええええ、ちさきいいいいいかあああぜえええええ。にいいいいいいいしいいいいいいい、たあああにいいいかあああぜえええ、たあああにいいいかあああぜえええ】

 独特の節回しで四股名を呼び上げた。オペラ歌手のような美しいソプラノボイスだった。俺と千咲はそれを合図に土俵へと上がる。

「梶之助くん、もしかして緊張しちゃってる?」

 千咲は四股を踏みながら問い詰めてきやがる。

「しっ、してねえよ」

 いや内心していた。というかそれよりも本当に怖い。俺緊張の仕切りが続く。

 仕切りを四度繰り返したところで、母さんから制限時間いっぱいであることが告げられた。

「さあ、梶之助君、思いっきりドンッってぶつかって来てね!」

 そう言って、こぶしで胸元を叩く千咲。にっこり笑っている。

【お互い待った無しじゃ。はっきよーい、のこった!】

 五郎次爺ちゃんから軍配が返された。俺は千咲に言われたとおり渾身の力をこめて突進していった。すると千咲のマワシをいとも簡単にがっちり捕まえることが出来たのだ。

「梶之助くん今回超いい当たり。その調子でも~っと強く押してみてね」

「うっ、動かねえ……」

 千咲の体は、まるで巨大な岩のようだった。

「もう、私のペッタンコなおっぱいにこ~んなにお顔埋めちゃって、エッチね」

 いや千咲、俺決してそんなつもりは――。

「せっかくわざとマワシ取らせて梶之助くん有利にしてあげたのにな。とりゃあ!」

 千咲の掛け声。その瞬間俺は一瞬のうちに千咲の肩に担ぎ上げられ空中一回転。先ほどの五郎次爺ちゃんと同じ技をかけられてしまったのだ。

【ただいまの決まり手は一本背負い、一本背負いで千咲風の勝ち! どうじゃ梶之助、地球に居ながらにして無重力空間を漂っているような清清しい気分になれたじゃろ? 千咲ちゃんの一本背負いは五つ星じゃよ。この技でボクもアストロナウト気分が味わえるんだもん】

 ならねえよ全然。っていうか俺受身の取り方を知らねえから思いっ切り地面に腰打ち付けてめっちゃ痛え。後で青痣出来るぞ、こりゃ。

風対決。全く何も出来なかった俺の完敗だ。

「えっへん。どうだ梶之助くん、参ったか?」

 無様にうつ伏せに転がっている俺を容赦なく上から見下ろす千咲。しかもトランクスがずれて半ケツ状態になっている所を踏みつけやがった。さらには勝利のポーズVサインまでとりやがる。

「また負けちゃった。やっぱ千咲ちゃん強すぎるよ」

「んもう、情けないなあ」

 そう言い放ちこんな俺に手を貸してくれ優しく起こしてくれた。いつもこんな感じだ。千咲が鬼丸家の男だったらと思うことが何度あったことか。

「梶之助くん、ご協力ありがとう。私とってもいい運動になったよ。なんかお腹空いてきちゃった」

「千咲さん、良かったらお夕飯も食べてく? 今夜はスープカレーよ」

「スッ、スープカレーですと! もっ、もちろんいただきます。私の大好物ですからーっ」

 エサを目の前にして「待て!」の命令をかけられた犬のごとく涎を垂らしながら喜ぶ千咲。母さんは小学校の家庭科教師を勤めている。料理の腕前は天下一品なのだ。


「はーい、出来たわよ」

 二十分ほど待つと、母さんは四人分をテーブル席へと運んで来た。

「千咲ちゃんの分は虚空にしたのよ」

「わーい。ありがとう寿美おばさま」

 マグマのように真っ赤なスープがでで~んとご登場。千咲は筋金入りの辛党なのだ。俺はいつも千咲の食う料理に、俺はレンタルブルーレイで見た口だが一昔前のド○えもんの映画でパパの大好物として出て来た『とかげのスープ』よりも度肝を抜く強烈なインパクトを与えられる。味噌汁にタバスコ入れたり、食パンにコチュジャン塗りたくったり。

「あっ、相変わらず千咲ちゃんの……すごいよな。俺なんか覚醒でも辛くて食えないのに」

「もちろん甘い物も大好きよ。甘い物食べた直後に辛い物食べた時の爽快感といったらもう最高よ!」

 スイカに塩に代表される味の対比効果かよ。

「梶之助くん、まだまだお子様だもんね。辛いの無理だよね。あっかちゃーん」

 千咲は俺に指差してゲラゲラ笑って来た。俺よりちっこい千咲には言われたくない。さすがの性格穏やかな俺もこれにはちょっとだけカチンと来た。

「これくらい俺でも食える!」

「へえ、強気ね。じゃあさっそく食べてみてよ」

 やっちまった挑戦状。後戻りは香車の駒のごとくもう出来ない。

「わっ、分かったよ」

「はいどうぞ、召し上がれ」

 俺の前にススッと差し出されたその地獄皿。この赤いものは、例えるならえーと……そうだあれだ! ヨーグルトやアイスなんかに入ってる“つぶつぶいちご”だと思って食えばいいのだ。そう考えればこんなもの楽勝。楽勝。

「ぐっ……」

 俺は男らしく赤い部分が特に目立つ所目掛けてレンゲを振り下ろす。そして口の中へ一気に放り込み食す。

「……ん? あっ、あんまり、辛くないような……っ、うわあああああああ~っ!」

 俺の口内にスローインされてから約1.5秒後、俺の口元は一瞬にしてバーナーの点火口へと姿を化した。

 俺はすぐさま冷蔵庫へ光の速さで猛ダッシュ。五百ミリリットル入りアイスココアを取り出して一気にゴクゴク飲み干した。

「アハハハ、やっぱり無理じゃない」

 千咲は得意げになっているのかまたもや笑顔でVサイン。

「くっ、くそ……」

 これも俺の完敗だ。まだ舌がピリピリ痛む。

「そんじゃいただきまーす」

 千咲はそいつを平然と口の中へとベルトコンベアのように流れ作業的に運んでゆく。しかもこれ食う直前にチョコレートと鶏卵素麺食って口の中甘い物で満たしていたんだぜ。こいつは化け物だ。


「満腹、満腹♪ ごっちゃんでしたぁーっ♪」

 ちゃっかりお代わりまでいただいた千咲であった。

「千咲さん、ついでにお風呂も入ってかない?」

 母さんは強く勧めた。

「そうですねー。さっきの相撲と、このカレーでかなり汗かいちゃったし」

「お着替えはいっぱいあるからどれでも好きなのを使ってね」

 千咲はタンスの中から俺の姉たちが着ていたパジャマや下着を取り出した。

「このパンツ、ピンクのウサギさん柄で素敵ですね。これにしよう。そうだ梶之助くん、いっしょに入ろう!」

 そう言い、俺の手を引っ張ってきやがった。

「入るわけないだろ!」

「もう、梶之助くんったら大人びちゃって。下はまだまだお子様サイズのくせに」

 今度は俺の肩をパンパン叩いてきやがった。

 ああその通りだ。てかなんで知ってる。

 月に三、四回千咲が夕方以降に俺んちへ来る時は、百パーセントの確率でお湯をいただいていく。俺んちには、自慢じゃないが十人以上は一度に入れるとても広い檜風呂が備え付けられてあるのだ。千咲は他に何の用もなくそれだけが目当てでやって来ることもある。ちなみに借りた下着類を返しに来たことは一度もない。全てジャ○アンのように自分の所有物にしているのだ、やつのように無理やり奪ったわけではないが。

               ○

「あー、汗も引いてさっぱりしました。それではそろそろお暇しますね」

 千咲は、左肩に通学カバンをかけて、運動靴を履いた。

「またね千咲ちゃん」

「千咲さん、お夕飯ご馳走するからいつでもいらしてね」 

「グッバイ千咲ちゃーん。またボクを投げ飛ばしに来てねーっ」

 仄かにラベンダーセッケンの匂いを漂わせながら、チャリで数十秒の夜道を帰ってゆく千咲。俺は姿が見えなくなるまでじっと眺めていた。

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