第4話 暗転する未来

  四


「で、結局どうするの。ここに長くこの子を置いとくわけにはいかないよ」

 『解體屋』の女主人、照屋アキが、エモンに問うた。

 その言葉に、モモはびくっと体を震わせ、アキを振り返る。

 アキは厳しい顔で腕を組み、モモをじっと見つめていた。

 生まれてこの方、一度も食べたことがないおいしい食事で満腹になり、すっかりいい気持ちになっていたモモは、その視線で一気に現実に引き戻される。

 アキは決して気配りのできない人間ではない。むしろその逆だ。つまり、モモがいるここで話を切り出したのは、考えがあってのこと。どうするの、と聞いてはいるが、自分は妥協しない、この店でその子は引き取らない、という意思表示だった。

 その強い意志を感じて、モモは小さな肩を落として、うつむいた。屋台での食い逃げも、わざわざ客が食べ残したものを狙うぐらいだ。相手がこれだけ強くだめだと言っているのに強引に頼み込むなんて、できない性格だった。

「そんなこと言ったって、このまま放り出したら、獣子ショウツで、しかもどうせ戸籍のない黒孩子ヘイハイツだろ。行くとこなんてあるはずないだろ。結局それこそ水商売に堕ちていくだけじゃんか」

 エモンの言葉に、モモはまたびくりと体を震わせた。その通り、自分にはそれぐらいしか道はない。それがいやで逃げ出してきたのだけれど……。

 その小さな体をますます小さくして、モモはうつむいていた。

「ここに置いてやればいい」

 けろっとエモンはそう言った。

 モモは驚いてエモンを見上げた。絶望の暗闇に一筋の希望の光が、あまりにあっさり、それこそ「そこの醤油取って」ぐらいの軽い感じで差し込まれたのだ。エモンの表情もまったく変わっていないので、空耳かなと思ったぐらいだった。

「は? だから、それは無理だって……」

 アキの抗議の声を聞かず、エモンはぐいぐい話を進める。

「真面目そうだし、仕事覚えさせればいいだろ。耳と尻尾が気になるなら、隠せばいい。そうだな……」

 厨房の奥へ向かって、そこでなにやらがさごそと探る。

 何か布を持ってきた。広げると、一枚はエプロンだった。白地で、胸元に黄色い花が一つプリントしてある。厨房で使うプロっぽいものではなく、家庭で使われているようなもの。

「ほい、立て」

 モモを立たせて、エプロンを頭からかぶせ、腰ひもを後ろでしばる。

「サイズがでかいからまくし上げないと、位置が合わないな……。こうしてリボンみたいに大きく結び目作れば……。ほら、尻尾のふくらみは目立たなくなるだろ。そして、と」

 もう一枚はスカーフだった。こちらは赤地に、細かい花柄。それを頭に巻く。

「ほらこうして、耳も隠せる。どうだ」

 エモンは自慢げに、みんなの前にモモを立たせた。肩を押して、くるりと振り向かせる。ローブとエプロンが、ふわりと浮き上がった。よたよたとよろめいたところを、またエモンが受け止める。

「おお、似合ってる」

「なかなか、かわいいじゃないか」

 みんなの感想通り、サイズの合わない大き目の白いエプロンに、赤い花柄のスカーフを巻いてちょこんと立っているモモは、かわいらしかった。

「ほれ、モモ。これをお客様のところに持っていきな」

 エモンはトレイにビールを乗せて、モモに渡した。モモはあわててバランスを取る。

 エモンを見上げると、ハシシの方を指している。モモはビールを落っことさないようによたよたと、そちらのテーブルに向かった。

 店で働くどころか、外に出たこともなかったので、どうしたらいいのかよく分かっていなかったが、とにかくテーブルへ着くと、ぺこりと頭を下げて、テーブルにビールを置いた。

「ど、どうぞ」

 このけなげで愛らしい様子に、人のいいハシシはすっかり目尻が下がっている。他の者も同様だ。

 ただ、アキだけが、腕を組み眉をひそめて、見つめていた。そんなパフォーマンスでは情はほだされないよと、その表情は言っている。だが、同時にひそめた眉の辺りがぴくぴくと、苦しい胸の内を語っていた。アキは姉御肌で、本来は面倒見のいいタイプなのだ。

 巨大なダムが蟻の一穴から決壊することもある。その内心の葛藤を見て取ったエモンは、ここぞとばかりたたみ掛けた。

「どうだ、かわいいだろ? けなげだろ? 置いときたくなっただろ? ほら、お前からもお願いしな。このおばちゃん、本当は優しいんだから。ちゃんとお願いすれば、雇ってくれると思うぞ」

 そう言われて、モモは急いで頭を下げた。絶望の淵に垂らされた一筋の希望の糸。これにすがらないと後がないことは分かっていた。緊張のあまり、声を上ずらせながら、なけなしの勇気をしぼり出す。

「お願い、します。ちゃんとがんばり、ます。ここに、置いてください」

「ほら、こう言ってるよ? 店的にも看板娘がいた方がいいだろ?」

「くっ……」

 アキはますます険しい顔になる。

「姐さん、もういいんじゃないかな、置いてやっても」

「かわいいし、華やぐし、いいよなあ」

 周りもモモの援護射撃に回る。アキは苦りきった顔で、うめくようにつぶやく。

「あんた達まで……。できないの、分かってるくせに……。ちょっと来な!」

 そしてエモンの袖を引っ張って、厨房の奥へと連れていった。今度はモモに聞こえないように、小声で詰め寄る。

「ちょっと、本気なの? 客ならともかく、ここに関係者以外置いとけないのは、分かってるだろ? 私だって、あの子をかわいそうだと思っていないわけじゃない。でも、ここは、んだよ」

「分かってるさ。でもその心配はないだろ。例え事情を知ったって通報なんてしないだろ、自分も逃げ出してきてるんだから。いっそのこと、全部、打ち明けたら?」

「エモン?」

 アキは驚いて、エモンを見つめた。そこまで言うとは思っていなかったのだ。

「あの子はむしろ、俺達とだと思うぜ?」

 見つめられても、エモンは表情を変えず、ひょうひょうと続けた。

 アキはエモンの真意を測りかねて、つぶやく。

「……あんた、自分の料理を食べてくれそうな子を、手元に置いておきたいだけなんだろ」

「それは否定しない」

 エモンは悪びれず、にやりと笑った。

 カウンターの向こうでは、モモと常連達が、じっとこちらをうかがっている。その瞳には、すがるような、希望を求める声が宿っているようだった。

 エモンはともかく、他の連中まで、すっかりモモの味方だ。をみんな分かっているはずなのに。

「まったく……。今夜は忙しいってのに……」

 アキは深くため息をついた。

 その時。

 店の外に車の止まる気配がした。

 モモは、車の音だと、単純に思っただけだったが、店内の他の人間の反応は少し違った。みんな急に、ピリッとした緊張感をほとばしらせていた。前傾姿勢で少し腰を浮かせるようにし、即応体勢をとっている。

「……車が三台。降りた人間は、二、三、四……六人か。車の中にも何人かいるな」

 厨房からは、あの通りに面した大きな窓から外が見える。黒塗りのワゴンが店の前に止まり、そこから降りた男達が入り口前にたまっているのが見て取れた。

 ぱっと見て分かる、かたぎでない様子。そして、大陸系の集団だ。車三台で乗り付けて、普通に食事に来たのではないことは明白だった。

「とりあえず、解放軍じゃないな……」

 エモンのその一言に、みんなの緊張の度合いが一段下がる。それでも、警戒は解いていない。物騒な雰囲気であることに変わりはない。

 店の扉が勢いよく開いた。

「ごめんよ」

 まず若い男が中の様子を見渡して、次いで大柄でかっぷくのよい、見るからに筋者の男が入ってきた。

 普通の客でないことは一目瞭然だが、一応アキが、営業用の顔で対応する。あでやかな笑顔で、切り出した。

「すいません、お客さん。札がかかってたと思うんですけど、今は貸し切りになっているんですよー。お席はご用意できないんです。すいません」

 男はその言葉を気にせず、鷹揚に手を振った。

「ああ、すまねえな。それは分かってんだ。ちょいと用があるんだよ。おい、そこののっぽの兄ちゃん」

 エモンに声をかける。

「お前さんがここに連れ込んだって娘な、それはおれんとこのなんだわ。返してもらえるか?」

 男の顔を見たとたん、モモは席を立ち、エモンの陰に隠れていた。ぶるぶると震え、エモンのシャツのすそをぎゅっとつかんでいる。確かに、この男の元から逃げてきたことに、間違いはなさそうだ。

 そのモモを見つけて、男は下卑た笑みを口角に浮かべた。

「おう、やっぱりここにいたか。兄ちゃん、見た通り、その娘は獣子ショウツだ。お察しの通りの生い立ちさ。どういうつもりで連れ帰ったのかは知らんが、そこに首突っ込むのが利口じゃないことぐらいは、分かってくれると思うがね?」

「あ……」

 モモがエモンを見上げる。その目には涙がたまっている。無言の懇願が、その瞳に浮かんでいる。

 エモンの腕が、ぴくり、と動いた。

 その腕を、アキが抑えた。

 エモンの耳元で、小声でつぶやく。

「だめだよ、エモン。ここではだめだ」

 エモンは不満げにアキを見返したが、アキが譲る様子はない。

 しばし視線を交わし、やがて一つため息をついて、エモンは力を抜いた。

「いいよ、連れてっとくれ」

 アキが男に告げる。

 モモは絶望的な表情で、アキを見上げた。アキは硬い顔のまま、眼を合わせようとはしなかった。

「おら、来い! 手間取らせやがって!」

 若いチンピラが、手荒くモモを引き立てる。

 すっかりあきらめた様子で、モモはおとなしく連れていかれる。最後に扉のところで振り返ると、食事のお礼のつもりなのだろうか、ちょこんと頭を下げた。

 エモンは表情を変えぬまま、ぐっとこぶしに力を込めた。大なり小なり、周りの者も、同じような気持ちでいるのは明らかだった。

「じゃあ、じゃましたな。……ここは何の店だい。定食屋か。今度このわびがてら寄らせてもらうよ」

「そんなことは気にしなくていいから、さっさと出てっとくれ」

 はねつけるように、アキは答えた。そうした冷たい態度だと、涼やかな顔立ちが引き立って見える。男はそんなアキを上から下まで見回すと、にたりと下品な笑みを浮かべ、店を出ていった。

 車の走り去る音が、遠く小さくなり、やがて聞こえなくなる。

「仕方ないよ。ここで暴れて、正体気取られるわけにはいかない。警察沙汰になるのも勘弁だ。今晩は仕事が入っているからね。さあ、そろそろ準備にかかろうか」

 アキはため息とともにそう言って、ぽんとエモンの肩をたたく。

 エモンはそれでもじっと、扉の方を見つめていた。

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