架空集 (2926字)
ところで、『架空集』という本をご存じですか? ひとによっては、『架空事典』と呼ぶ者もあるそうですが。聞いたこともない? まあそうかもしれません。流通量の少ない、大変稀少な本ですから。私も先日ようやく現物を手に入れたところなのです。作者不詳の小説集なのですがね、あんまり嬉しかったものだから、誰かに聞いてもらいたくって。大変興味深い本なのですよ。もう一度? 『架空集』です。やはり聞き覚えはありませんか。
え? 幽霊や怪獣? ああ、いえいえ、その「架空」ではないのですよ。そういう摩訶不思議な生き物が登場する冊子ではないのです。ええ、でも、摩訶不思議なお話ではあるのですけれども。
いえね、主人公は、ちょっと不思議な力を持った男なのです。仙人みたいなやつです。え? それも架空じゃないかって? まあまあ、それはそうなんですけれども、まあちょっと茶々入れずに聞いてくださいな。
でね、その仙人みたいな男がどんな不思議な力を持っているかと言うとですよ。不思議な形に手を組んで、ぼそぼそぼそっと呪文を唱えると、どんなものでも宙に浮いちゃうんです。なあんでも。で、男はその不思議な術で、ひたすらいろんな物を宙に浮かせるという。そういう小話ばっかり集めた本なのです。ね、だから、いろんな物を、空に、架ける、話で『架空集』というわけ。
え? それから? それからなんてありませんよ、それだけ。ええ、それだけですとも。ははは、本当にそれだけですってば。まあ淡々とした三人称の小説調子で、浮かす物やら、対象に応じた手の印の形やら、呪文やらを説明して、浮かせて、お終い。一番最後のお話では、ついに主人公は自分自身を宙に浮かせて、くるくる鳥のように空を飛ぶんですがね。
まあ、小説らしい、主人公の男の気持ちとか、どうして浮かすのかとか、浮かせた後どうなったのかとか、なァんにも書いてやしません。一話一話も非常に短くてねえ。そのくせ説明文章については実に詳細な癖に、妙にわかりやすくて、『事典』なんて言われ方も、まさに言い得て妙ってなものです。
おもしろいのかって? これが実に難しい質問だ。この本、小説として読むには、実に実につまらんでしょう。しかしね、しかし――ここからは、あまり大きな声では言えない話なのですけれども、そうそう、もうちょっとこちらに寄って。
……実はね、この小説の主人公、モデルは作者自身なのだそうです。つまりね、作者はどうやら、本物の仙人だったらしいというのです。そんな馬鹿な、と思われたでしょう? ところがね、証拠があるんです。その証拠というのが、この……、ああ、これが私が先日手に入れたその本なのですけれども、この『架空集』そのものなのです。つまりね、これ、小説としては駄作極まりない本ですが、教授本としては極めて優れた一冊であるのです。
おわかりになりました? ああ、あなたは勘がよろしい。そうですそうです、あなたの予期の通りですとも。この本の通りにすれば、この本の通りにその代物が宙に浮き出す、つまりはそういうことなのです。
例えばね、こういうこと――――。
ああっ、声が大きいっ。声が大きいですよっ。こんなこと、大衆に知られれば大変なことになります。特別な筋の者だけが知る、特別な話なのですから。ちょっと物を浮かせるなんて、大したことないとお思いかもしれませんが、それはあなたが肝の据わった人だからそう思えるだけで、心根の小さい大衆はそうは思えないのですから、声の大きさには気をつけていただかないと。
ええ? 銚子を浮かせたくらいでなんぼのものだって? ええまったくその通り! すぐにそんな返しをされるなんて、やはりあなたになら話しても大事にはなるまいと信じた私の目は正しかったようですね。
え、なんですか? ははあ、やっぱりそこが気になりますか? ええ、ええ、そりゃあ、もちろんですよ。この本を手に入れて、一番最後の話を試さないなんて手がありますか。
この本の通りにするならばね、ひとならば必ず死んでしまうほど高いところから、ぴょんと飛び降りなければならないのです。すでにこの本の真実を実感していた私でさえ、最初は足が竦みました。
初めての時は、死にかけの蝉のようでした。へろへろとゆっくりとではありましたが、ただ垂直に落ちただけでした。
何度か練習して、ようやくムササビの仔のようになれました。ひゅるひゅるひゅると斜めに滑空できるようになったのです。
そして今では、私は空を裂く鷹にも、悠々と空を征く白鳥にもなれます。
ああその時の気持ちだけは、うまく言葉にできません。人間の言葉では説明できない心地なのです。
……もうしわけありません。この本の中身を、お見せすることはできないのです。誰もが扱える秘術を載せる本だからこそ、特別な筋の人たちによって、この『架空集』はひっそりと世から隠されました。その説明できない特別によって、私もようやくこの本に手を触れることを許されただけの人間なのです。だから、この本を決して他人に渡すことはできません。ただただ、ひっそりとほんの少しだけ、その秘術の欠片を、世の不思議の喜びを、これと思う人間に、少ゥしだけ披露する。そうしているだけの人間なのです。
あなたもまた今、不可思議の喜びに触れました。そういうものが実在するのだ、と思うだけで、少しだけ世界が楽しく思えませんか? どうか、それだけで満足してください。私の知っているお話しならば、いくらでも披露いたしましょう。さあ、この夜に、出会いに、酒を楽しもうではありませんか。
――――う、うぅん。 おお、すまねえな、女将。ちょっと久しぶりに深酒しちまった。水を一杯くれるかい。おお、ありがてぇ。え? やだね、見てたのかよ。何言ってんのさあ。女将が見たのは、ほら、これだろ。はっはぁ、おれの職業なんだと思ってんだい? 大手品師様だぜ? こんなの糸繰り手品ちょちょいのちょいよ。なに、「大」は余計だって? うるせぇよ! ははは。いいのさいいのさ、おまんま食い上げは困るけど、今日の旦那みたいに、目ぇまん丸にしてくれんのが一番楽しいのよ。
……っと、旦那は? ああ、そうかい。何か調子の良いこと話すだけ話して、先に潰れちまって悪いことしたなあ……って、あー-! あの旦那! おれの商売道具持っていきやがった! 何って、小道具だよ小道具! 本! 『架空集』! 薄汚いって言うなよ。ああいう古臭い感じが真実味を増す隠し味なんだよ。ああー、なんで旦那、あんなもん持っていっちまったんだろ。自分の荷物と間違えたのかぁ……?
ええ? ……ええ? あっはは、流石にさあ、それはないだろうよ。いや、見せないとこまでこだわりたい派だからさ、俺。中身も説明してる通りの本よ。でもさあ、いやいや、そりゃあ、ないだろ。だって、あの旦那、どう見ても学のある賢げなひとだったじゃん。そおんなさあ? ないって、ないない。大体、誰が見るわけでもないけどさ、おもて表紙の裏にちゃんと種明かしもしてあるしな?
『架空集 ―― 架空、すなわち土台のない上に重ねた言葉ばかりを集めた本。つまりは、嘘。』
誰が考えたって、人間が鳥になんてなれるわけねぇだろ。
人間が高い所から飛んでも、冷たい地面と仲良しこよしするだけさ。
〈2014.11.16 題目「架空の小説が登場する小説」〉
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます