顔見知り

one minute life

第1話 ゆるい空間

 和哉は八年前の夏、この地に居を移した。その時から勤めに出るのに路線バスを利用している。バス停にはT社とO社の車両が乗り入れているが、和哉が乗るのはT社の車両だった。彼の利用する時間の車中は、――と言うより、T社のこの系統の車中は、立って吊り革に掴まる者があるのが珍しかった。毎朝、徒歩では自宅から二十分かかる最寄駅までこの路線バスに乗った。終点は和哉が降りる駅のかなり先にある操車場である。が、乗客の大半はこの駅で降りてしまう。いつだったか、彼が午前中のみの、所謂半休を取った時のことである。――

 車中の十人余りの乗客は、いつもと違う顔ぶれであるはずにもかかわらず、和哉はそれを取り立てて感じる程ではなかった。寧ろ、車窓に映る景色が――もっとも、建ち並ぶカーポート付きの住宅や公苑の高いフェンス、長く真っ直ぐに伸びる車道や街路樹の欅の葉など、そこにあるものに変わりはないのだが、彼にはそれらがいつもと違って見えた。通り過ぎる人の動きによるものなのか、陽の高さによるものなのか、それともただ時間に余裕のある彼自身のせいなのか、いずれにせよ、何か穏やかで心地よいものに感じられた。朝ならば単行本の頁をめくるはずの右手は、そうした外の様子を追う彼の視線を保つよう、シートの肘掛を頼りにして頬骨にあてがわれていた。


 するといつの間にか、バスは駅前のターミナルへと舵が切られていた。しかし車内の降車ボタンは光っていない。和哉は停車位置の寸前の所でこれを赤紫に点灯させた。バスは止まり、降車扉が開くと、和哉は勿論、他の乗客も一人残らず降りてしまった。

 和哉は呆れた苦笑を一人漏らしながら、この緩い空気を文字どおり有り難く感じた。もっとも、バスは発車時刻を調整するため、その後暫くそこに留まったのではあるが。……

 いつもの朝はこうではない。何がこうではないのかと言えば、バスに時間調整の余裕があるかはいざ知らず、やはり乗客が、である。そして、それに対する和哉が、である。しつこく加えるならば、殊に、乗車する前の僅か五分足らずの間が、である。

 毎朝同じ時刻のバスを利用していれば、そのうち乗り合わせる人達は無意識にでも互いの顔が記憶に残る。これを「顔見知り」に含めるかは識らずとも、更に同じ停留所を利用するとなれば、月日を経るうちには顔見知りと思いたい人が出て来ても不思議ではない。

 和哉には転居後程なくそのような顔見知りが二人できていた。

 ――話はようやく本題に入るのである。(つづく)

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