殲血のドルヒ
EDA
プロローグ ~日常から非日常へ~
わたしは平凡な女子中学生でした。
いや、どちらかというと平凡をやや下回っていたぐらいでしょうか。
人並み外れて虚弱体質であり、学業の成績は下から数えたほうが早く、これといった特技も趣味もありません。友達らしい友達も持ってはおらず、性格も相応に歪んでおりますし、社会的には間違いなく弱者だとか底辺だとかに分類されてしまうことでしょう。
そんなわたしでありますから、非日常的な世界への憧憬というのは、それはもう生半可なものではありませんでした。
一時期は、こんな世界とっとと滅んじゃえよとか思っていたぐらいなのですが、それだと罪もない皆々様まで巻き込んでしまうことになるので、取りやめました。その代わりに、もっと楽しくて素っ頓狂な世界になればいいのにな、と心から願うようになっていたのです。
フィクションの世界なんかでは、よくあるパターンではないですか。世界中のあちこちで異能の力に目覚める人間が現れたりだとか、異界の住人が大挙して襲撃してきたりだとか、謎のモノリスが突如として出現したりだとか。とにかくわたしは現行の価値観を粉々に粉砕してくれるような、そういった大変転を切望していたわけなのです。
何せ十四歳の中学二年生、思春期のど真ん中です。妄想するだけなら誰の迷惑になるわけでもありませんし、それで何とか人生を踏み外すことなく、ようよう折り合いをつけられている状態なのですから、多少の現実逃避はご容赦願いたいところです。
で、現在です。
現在わたしは、生涯最大の危機的な状況に陥ってしまっております。
いつも通りに学校に登校して、いつも通りに授業を受けて、いつも通りに放課後を迎え、いつも通りに帰路を辿っていたら、突如として怪物の群れに取り囲まれてしまったのです。
いったいどうしたものでしょう。
わたしはまだ異能の能力に覚醒もしていないのに、先に世界が変質してしまったようです。
この怪物たちは、いったい何なのでしょうか。
大きさは人間ぐらいです。身長百五十二センチのわたしより大きいやつもいれば小さいやつもいます。
ただ、彼らがこの世の物理法則に則った存在であるならば、どの個体もわたしよりは重かったでしょう。誰も彼もがずんぐりしていて、とても図太い体格をされています。
外見的に一番近いのは、ヒキガエルあたりであったでしょうか。
平たい頭にぎょろりとした目玉が飛び出しており、口がとても大きいです。中にはその一文字に裂けた口からでろんと舌を垂らしている個体も見受けられます。後ろ足は折りたたまれており、お腹はぱんぱんに膨らんでいます。
でも、やっぱりカエルではありえません。
こんなに巨大なカエルが存在するなどとは寡聞にして存じあげませんし、それに彼らは、半透明でした。深海魚みたいに皮膚が透けていて、内側の骨格や臓物などがうっすら見えてしまっているのです。これはなかなかのおぞましさです。
なおかつ彼らには、腕というか前足が存在しませんでした。
でっぷりと肥えた半透明の胴体には巨大な頭と図太い後ろ足しか生えておらず、そんな奇怪な姿でわたしのほうににじり寄ってこようとしているのです。
その数は、およそ十体ほど。
あたりには、何やら生臭い異臭がたちこめております。
視神経まで見て取れるその眼球には、ひたすら邪悪な光が燃えています。
本当に、わたしはどうしたらいいのでしょう。
ここはさびれた裏通りで、わたしの背後は廃工場、向かいは雑木林です。人通りなんて期待できませんし、だいたい誰が通りかかったってこの怪物どもをどうにかできるとは思えません。明らかに、彼らは超自然的な存在であったのです。
だけどわたしの脳裏には(やっぱりな……)という思いが渦巻いておりました。
どんなに世界が愉快な変容を遂げたところで、わたしみたいな取り柄なしの小娘が活躍できるはずはないのです。わたしなんて、真っ先に殺されるモブ少女Aが分相応なのでしょう。それでも死ぬ寸前にこのような世界を垣間見ることができたのは、運命神だか何だかの粋な計らいというやつなのです、きっと。
だけどまあ、ことさらそれを喜ぶ気持ちにはなれなかったというのが、正直なところでありました。
(こういうときに貧血でも起こせば、苦しい思いをせずに済むのになあ)
そんなことをぼんやり思いながら、わたしはわたしという存在がこの世界から消失する瞬間を待ち受けました。
そのとき、先頭に陣取っていた怪物がぴょーんと跳躍いたしました。
巨大な口が、ぱっくりと空いています。
カエルのくせに、そこにはぞろりと鮫みたいな牙が生えそろっています。
これだけ巨大な口であったら、わたしの頭を一口で噛みちぎることも容易でありましょう。
もちろんわたしは足がすくんで、身じろぎひとつかないません。
というか、壁を背にして周囲を取り囲まれておりますので、どこに逃げようもありません。
これで終局。皆様、おさらばです。
情けないことに、わたしはぎゅうっと目をつぶってしまいました。
ぶげらっ、という奇怪なうめき声が暗黒の中で響きます。
だけどなかなか痛撃は襲ってきません。
これがいわゆる、時間がスローモーションに感じられる、という現象なのでしょうか。
まったく余計なお世話です。走馬灯とか勘弁です。どうせ脳裏を走るのはロクでもない思い出ばかりなのですから、憂鬱になる一方です。
「ようやく姿を現したな。まったく、さんざん焦らしやがって」
はて。
何でしょう、この声は。
まだ若い、殿方の声です。
あの半透明の腕なしガエルは、こんな耳に心地好い声音で喋るのでしょうか。
「とっとと主人を呼んでこい。使い魔を何匹ひねり潰したって、こっちは無駄に疲れるだけだ」
ふぎゅるっ、という奇怪なうめき声がその声にかぶさります。
わたしはおそるおそるまぶたを開けてみることにしました。
それで瞳に映ったのは、黒ずくめのしなやかな後ろ姿と、その足もとに横たわった怪物たちの屍骸です。
この人物は、何者でしょうか。
真っ黒のパーカーに真っ黒のズボンといういでたちで、身長はそんなに大きくありません。せいぜいわたしより十センチばかり大きいぐらいです。全体的にだぼっとした服装なので体型まではわかりませんが、肩幅などの感じからしてけっこう細身であるように思えます。
で、パーカーのフードを深々と下ろし、わたしに背を向けて立っているものですから、人相などはまったくわかりません。
ただその人物は、右手に奇妙なものを携えておりました。
とても凶悪な形状をした、刃渡り二十センチぐらいの短剣です。
きっと足もとの怪物たちは、この短剣で切り刻まれたのでしょう。一体は頭を割られ、一体は胴体を裂かれて、無念そうに空を見上げています。
「あ、あの……いったいあなたは、どなたですか?」
ほとんど無意識に呼びかけると、その人物がちらりとわたしを振り返りました。
とたんに、わたしの心臓はドキリと跳ね上がってしまいます。
その人物は、実に何というか───つくりものみたいに秀麗な顔立ちをしていたのです。
年齢はわたしよりも少し上なぐらいでしょうか。びっくりするほど色が白くて、女の子みたいに繊細な顔立ちです。それでいて、きりっと切れ上がった目をしているので、とても凛々しいです。こんなに綺麗な顔をした男性というものを、わたしは生まれて初めて目にすることになりました。
しかも、ただ秀麗というだけではありません。
その人物は、髪も瞳も妖しい銀灰色であったのです。
フードの陰からこぼれる長い前髪も、その隙間から覗く鋭い瞳も、まるで月の光を結晶化させたかのような銀灰色でありました。
それでいっそう、彼はこの世ならぬ存在のように見えてしまったのです。
「……自己紹介は後回しだ。こいつらを片付けるまで、ちょっと待っていろ」
不機嫌そうな声で言い捨てて、その人物は前方に踏み込みました。
その手の短剣が銀灰色の軌跡を描き、三体目の怪物を屠ります。
やや紫がかった半透明の体液が飛散して、あたりにはいっそう強く生臭い異臭が満ちました。
あとはもう無差別の殺戮です。
怪物たちにあらがうすべはありませんでした。
銀髪の彼が短剣をふるうたびに、体液がしぶき、臓物が弾けます。怪物たちの臓物はやっぱり半透明で、ぐちゃぐちゃにかきまぜたゼリーのような質感をしていました。
怪物たちも跳躍し、後ろ足や舌などを使って攻撃しようとしている様子でしたが、俊敏さに差がありすぎました。ことさら怪物たちが鈍重であったわけではなく、銀髪の彼が尋常ならざる身体能力を有していたのです。それはまるで、野生の肉食動物が獲物を蹂躙しているかのような有り様でした。
「醜い使い魔どもめ、とっととお前たちに相応しい常闇に帰れ!」
殺戮しながら、銀髪の彼は笑っています。
その美しい顔や髪がおぞましい粘液にまみれてしまうことなど気にもかけず、縦横無尽に短剣をふるっています。
銀灰色の瞳は、爛々と燃えていました。
まるで野獣のごとき眼光でありました。
彼はあんなに美しいのに、その美しさを拒絶するかのごとく、勇猛であり残酷でありました。
「さあ、あとはお前だけだな、
そのようにつぶやく彼の前に、最後の一体が立ちはだかります。
そいつはとりわけ巨大な図体をしており、そして何の冗談なのか、頭のてっぺんに一本の腕を生やしていました。
水かきと鋭い爪を持つ、四本指の巨大な腕です。
その腕のせいで顔の形状が歪んでしまい、不気味さもひとしおです。
一本腕の怪物は、超音波のように甲高い咆哮をあげるや、その腕を敵の頭上に振り下ろしました。
が、銀髪の彼は無造作に短剣を振り払い、その腕をぶつりと寸断してしまいます。
返す刀でさらなる一撃を加えると、今度は怪物の生首が宙に舞いました。
紫がかった体液が、どぼどぼと殺戮者の全身を汚します。
「ふん」と不敵に鼻を鳴らし、彼は怪物の土手っ腹を蹴りあげました。
怪物は、地響きをたてて地面に沈みます。
「待たせたな、サチ・タナカ。思うぞんぶん、お前の疑問に答えてやろう」
そのように言いながら、彼はわたしのほうに歩み寄ってきました。
その姿が、紫がかった蒸気のようなものに包まれています。
地に伏した怪物たちが融解し、蒸発し始めていたのです。
よく見れば、彼の全身を濡らした体液も同じように蒸発し、それでいっそう彼の姿は紫に煙っているように見えたのでした。
「俺の名前は、ドルヒだ。特にお前が覚える必要はないが、いちおう名乗っておく」
紫色の瘴気を纏った銀髪の殺戮者が、わたしの眼前に立ちはだかります。
いつのまにやら、わたしは地面にへたり込んでしまっていました。
そんなわたしに、彼は手を差しのべてきます。
指が長くて色の白い、ピアニストみたいに綺麗な指先でした。
だけどその指先もまた、じゅわじゅわと紫色の蒸気に包まれています。
わたしは茫然と自失したまま、その綺麗な指先を見つめるばかりでした。
こうしてわたしはドルヒさんと出会い、平和で退屈な日常を木端微塵に粉砕されることになったわけなのです。
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