番外編8 オルドルと生誕の魔女と物語の中の戦い
触れさえすればすぐに、怨嗟の声がオーケストラとなって響きだす。
目を通せばたちまち運命の渦に飲み込んで離さない。
青海文書ほど、業と怨念に塗れた書は存在しない。
金鹿は心からそう感じる。
そう感じることさえ、彼にとっては青海文書に与えられた特権だった。
彼は金鹿の書に宿った魂の一部でしかなく、魂とは朝靄に不意にうつりこむ影のようなもので、意識は存在しなかった。
だが、青海文書の持ち主――椿という名の少年が手に取った瞬間、運命は変わった。何故なら金鹿のオルドルのおおもとは青海文書に封じられた哀れな魔術師の、幾多の魂のうちひとつなのだ。
その魂が青海文書に触れることによって、オルドルという人格を与えられた……それが金鹿のオルドルだ。
椿という読み手がいる限り、金鹿もまた例外なく師なるオルドルの物語を永劫になぞらう。
そしていま、揺らぐ湖面にうつる燃え盛るバスや殺し合う人間たちに見入っている。まるで湖面から血臭が立ちのぼるかのようで、半人半鹿のばけものは首を伸ばしてうっとりと幻臭を嗅ぎ、白い喉を鳴らした。
角を生やした頭の横に金杖が突きつけられる。
それが誰だかは問うまでもなかった。
「――やあ、蛟の私」
杖の先を辿っていくと自分とそっくりの姿をした魔術師がいた。顔かたちは瓜二つだが、魔術師は人のように衣服をまとい二本足で歩く。人との違いは額の角だけだ――が、今はその角の片側が傷つき、折れていた。
「ボロボロじゃないか、手酷くやられたみたいだね。何をされたのかすら覚えてもないんじゃない?」
物語の登場人物を傷つけることは、通常なら不可能だ。
人間が青海文書を燃やしたとしても、様々な媒体と人々の記憶のすべてから消え去らない限り、彼らは生き続ける。
そんなことが可能だとすれば、それはアイリーンだけだ。彼女は物語の管理者。全ての物語に干渉できる存在だ。
「フン。やあ、なんて言うと思ったかい、金鹿のボク。相変わらずその姿は醜いネ。吐き気が止まんないよ」
「強がりはやめたほうがいい。今の君は私には勝てないよ」
「どうかナ。試してみる?」
「死にもの狂いの私とはやりあいたくない、という意味だよ。仲良くやろうよ」
「ツバキクンにいろいろ吹き込んでくれたみたいじゃないか。そんな嘘つきとど~やって仲良くしろって言うんだバカバカしい。いいからキミが盗んだ記憶を返せ」
金鹿のオルドルは肩を竦めた。
人であるかぎり自分と話すことは不可能だ。だが登場人物という複製可能な存在だからこそ、ふたりは会話が可能になる。おまけに金鹿は、原典のオルドルとはまた別の存在だ。解釈違い、と表現してもいい。
だが――だからこそ、対話は退屈だった。同じ自分自身だからこそ、ここから先に何が起きるのかが読めてしまう。
「わからないなァ。何故、アイリーンに逆らう? 彼女に従ったほうがお得じゃない、青海文書の魔術的な素晴らしさが君にわからないはずはないよね? これは自分ひとりではたどり着けない至高の集合知なんだよ?」
金鹿はただ半月に似た笑みを浮かべながら人間の腕を湖に浸し、波紋をたててその湖面を撫で、無限の魔力を湛えた水を掬い上げる。
「物語の中でなら、私たちは何にでもなれる。どこへでも辿りつける。現実には存在し得ない地点に到達できる。真理も永遠もこの掌にある。究極の魔術の体現者、それこそが我らの望みだろう」
「ハッ、バカバカしぃ。可笑しくて笑っちゃうネ。な~~~にが集合知だ、最強至高の魔法使いはこのボクで、それ以外には存在しない。オマエはボクのニセモノ! 以上、おしまい!」
金鹿は不思議だった。目の前にいる蛟は、どう見ても自分以外の何者でもない。口調や見た目の問題ではない。魂が同じなのだ。だが、それをいとも容易く否定されると、金鹿は苦いものが胃の腑からこみ上げてくるのを感じた。
「なぜ私を認めないのだ。私の名は許し、選定の獣、森の王者にして勇者への父性と愛の化身だ」
蛟は初めて表情を変えた。
顎をわずかに持ち上げ、見下ろす紅色の瞳が翳る。
それはアリや鼠といった日々を生き抜くしか能がない小物を見つめるような、憐れみの結晶のような瞳だった。
「オマエの正体はアイリーンの手先だ。無論――そう思いたいなら思うがいい。でもボクからすれば、お前は愛を知らない獣だよ」
金鹿は何も口にはせずに、手の中の水滴を蛟に放った。
それは冷気をまとい、氷槍となって蛟の右半身を貫いた。
蛟の頬が、肩が、腹が、大腿部が、一瞬で血に染まる。
彼は左半身で溜息を吐いた。
「訂正しよう、ボクらは愛を知らない獣だ。二人ともに、どう望んだとしても人にはなれない」
そして左手を差し出し、《何かを掴み、捩じり切る》動作をした。
その瞬間、背景にしていた灰色の世界が蛟の中心線を割り切るように《ひしゃげ》、回転し、負傷した右半身は切り取られてグシャグシャに潰される。そのほかの世界も手の動きに従って万華鏡のように作り変えられる。
まるで彼こそが世界を支配する神であるかのように。
途方もない魔術の果てに、無傷の半身が複製され、右半身となり、そこに無傷の蛟と、反対に右半身を《切り取られた》金鹿の姿が現れた。
正確に半分となった金鹿の表情は憎悪の紅蓮に燃え上がり、断面をきれいに晒して脳漿や内臓や血を零す。
そして無限に複製された銀の茨がその半身に絡みついて苛み、何処からか垂れてきた金の首吊り縄が首と全ての腕と足と獣の体を縛り、八方から引き裂こうとしなっていた。
「――記憶を渡せ」
金鹿は血と糞便に塗れながらも、不敵な表情を止めなかった。
「何故そうまでして読み手にこだわる? まるで守ろうとしてるみたいに見えるよ。お前がそうまでして私に挑んだことなど、椿は知らないのに……」
「黙っててくれル? カッコ悪いカラ」
金鹿は半身のまま、容易く茨の拘束を抜けた。銀が灰色にくすみ、土くれとなって滅んでいく。
そして残された腕で《何かを掴んだ》。
次の刹那、驚愕の表情で半身の姿を晒していたのは蛟のほうだ。全くの逆の行程を辿ることで、術をそのままに相手に返したのだ。
「まだまだ楽しませてくれるね?」
金鹿の宣戦布告によって、ひそやかに途方もない戦端が開かれようとしていた。
そのとき、白いものが蛟の横を通り過ぎた。
輝く真珠だ。
「――――これは。」
瞬間、小さな真珠が種に変わる。種は芽吹き、記述のように蔓を伸ばす。
魔術の前提になっていた対称性が崩れ去り、反撃のキッカケが生まれた。
~~~~~
法則という法則を書き換え、それでもなお勝利は遠かった。登場人物としてはともかく、血と瞳を椿に捧げ、しかも管理者に嫌われた物語上のオルドルは金鹿の言う通り《弱って》いた。たとえ死なないにしても、圧倒され望みのものは得ることができないという事実は動かざるものだった。
だが、オルドルは金鹿の森を抜けだし、闇の中の道を駆けていた。
血塗れで、体のあちこちを食われながら。
道の両端には方角を示す道標が並び、そのどれもに《目次》と表示されている。
ふふ…………うふふふ。
ふふ……。めずらしいお客さん。
オルドルがきた。
森の主がやってきた。
すぐに読み手を殺してしまう問題児。
女のさざめく笑い声がする。あたりには蛍のそれに似た小さな丸い光が浮かび、その奥に明かりの灯った納屋がある。
オルドルはそこに飛び込み、倒れこんだ。
納屋には大勢の姿があり、酒杯を掲げていた。
「やあ、アイリーンの使い走りが騒がしいと思ったら。ほんとに珍しい客だ。獣の王に乾杯!」
入り口近く、木箱に腰かけている若い男が酒の入ったジョッキを掲げる。
男は狩人の身なりをして、片手に黒い弓を携えている。原典なのか、それとも複製、あるいは派生なのかは知らないが、彼は《デナク》なのである。
彼らが酒を酌み交わし、語らい、思い思いに過ごす――ここは《目次》である。青海文書のはじまりの頁であり、物語の存在しない場所。獣のオルドルにとっては、香水と魔術の匂いが判別のつかないほど練り合わさった地獄のような場所でもあった。
オルドルに気がついた者たちが熱っぽい囁き声をかわす。
――あれが師なるもの。
いまは読み手がいる。
もう勇者を選んだの?
物語の果ての鍵。
魔法使いたちはオルドルを囲み、酒に酔っているふりをしながら衣に、血に手を伸ばす。その手を押さえたのはデナクの弓である。
彼が間に入ると、皆素知らぬ顔をする。
「礼は言わないからな。遠慮はいらない、読み手をなんとかするがいイ。とっとと殺せという意味だ」
「俺の読み手はいつも優秀さ。ところで師なるオルドルとあろうものが、いったいどうしてそんな姿になった? 気の利いた冗談かい」
「さあネ。知らないヨ。そこの女に聞いてみたラ?」
「女だと?」
デナクは顔を上げる。彼が頭にかぶったフードの下に、白い影が見えた。
それは月のように朧げな娘であった。白い衣を頭からかぶり、絹糸のごとく輝く金色の髪と菫色の瞳を隠している。胸には真珠と十字の飾りが見えた。アイリーンを太陽の化身とすると、彼女は月光を編んで生まれた娘であった。
彼女の名をオルドルは知らないはずなのに知っていた。生誕のサナーリア。旅芸人一座の娘だ。
ついこの間までリブラとかいうヒーラーの養女を読み手にしていた。
だが……マリヤはオルドルとツバキが殺してしまった。
彼女は転がったオルドルをじっと見つめる。
「――愛ですわね」
「愛か。ならば仕方が無い」
デナクは頷いた。
「ちょっと、適当なこと言わないでくれル?」
サナーリアは手のひらに真珠を転がした。掌を伏せ、返すと、それは同じ形をした金剛石の結晶に変化する。もう一度同じことを繰り返し、《目には見えない何か》を摘まみ上げる。
それは金鹿が所持している《ツバキの記憶》そのものだった。
「これをツバキに返してあげればいいのでしょう」
「キミ、なんなの?」
目次だからこそ同じ空間に存在できるが、オルドルとサナーリアは交わらない物語だ。ここが目次だとはいえ、互いを認識できるのも、読み手を介して情報を得たからでしかない。
「ずっとそばにいたわ」
「知ってるヨ。どーしてボクを助ける? キミの読み手を殺したのはボクの読み手だロ」
登場人物はあくまでも紙とインクだ。だが、読み手が共感というパスを送り、それを受け取るとき……登場人物もまた、なんらかの感情を返しているのだ。
「自分でもわからない、でもマリヤを感じるの……ツバキから」
その言葉の意味するところを悟り、オルドルは眉を歪める。
「もしかして、それってそういうコトか?」
「ええ、それも愛ね」
「アリ得ない」
「ええ」
「お前たち、俺にも説明してくれよ」
サナーリアは満足そうにうなずく。
対照的にオルドルは苦い表情。
デナクは笑いをかみ殺す。
現実がそうであるように、虚構の世界もまた、三者三様に幕を引く。
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