under the heaven

嵩冬亘

episode

「ねぇ、道隆。このプロジェクトが終わったら────…どこか、どこか遠くに行きたいな。貴方と二人で、誰にも汚されない世界に─────…」



 『あの日』の出来事を、俺は今でも夢に見る。

 鮮明に飛び散る赤。そして、動かなくなった亜由美。黒く、ただ黒く塗り潰されて行くだけの憎悪。憎悪。憎悪。憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪、絶望。…慟哭。

 そこでいつも目が覚める。そして、『すべて』は夢であり現実なんだと何度も何度も悲痛なまでに思い知らされる。いっそ狂ってしまえれば楽になれたかも知れない。だけども壊れることしかできなかった俺に救いなんてものはまるでなかった。────救い? 俺は『そんなもの』なんて微塵も求めてやしない。彼女のことも彼女の願いも、何ひとつ叶えることができなかった自分が受けるべきはそう、罰以外にありえるはずがないのだから。


「────昨晩もあまり寝てないですよね?、稜家さん」

 椎名や茂野たちと別れ、幾日か過ぎたある日の朝、嶺月は稜家にあたたかいコーヒーを差し出しながらそう問うていた。あれから特に目的地を告げられぬまま、だけども何かを目指すようにひたすら砂地と化した廃墟の中を歩き続けていた。そして、夜になると横になれそうな場所を探し、ひと時の休息を得る────。幸い食料は持参していたし、男二人だけなら簡素なもので全然ことは足りていた。

 そうした野営のような生活を続けている中で嶺月は、先の言葉通り稜家があまり睡眠をとっていないことに気が付いた。最初の内は周囲を警戒してのことか?とも思ったが、そうするくらいならあらかじめトラップを仕掛けておく方が安全かつ得策であることを知っている。

 その問いに稜家はコーヒーを受け取りながら、『んー?』と声をあげる。

「僕、夜中に目を覚ました時に何度か起きている稜家さんの姿を見てるんです。…何か心配事でもあるんですか?」

「いや?、別に何もないよ? もともと俺はショートスリーパーだから、たくさん寝ると逆に頭が痛くなっちゃうし」

「……………………」

「────それと、俺のことは『稜家さん』じゃなくて『道隆さん』だからね?」

 二人だけの時はそう呼ぶように、と昔から何度もいっているし、今はもう周りの目を気にする必要もない訳だ。眉間に皺を寄せたまま子どもを叱るような口調をみせる稜家に、とりあえず嶺月は『すみません…』と謝罪の言葉を口にする。

(…何だか上手くはぐらかされてるような気がするなぁ…)

 稜家が本音をみせようとしないのは今に始まったことではないが、あきらかに立ち入れまいとされているような気がする。だからといって再度問い直してみたところで彼からの返答は何も変わらない。すでにそうと分かりきっていた嶺月はただ諦めたように仕方なく小さな溜息をこぼすだけだった。



 軽く朝食を済ませると、それからまたいつものように廃墟と化した瓦礫の中をただただ歩き続けていた。昨日までと変化があったのは、この旅の終わりがそろそろ近づいているということ。

「あ、そうそう。もうすぐ目的地に着く予定だから」

 自分たちがどこに向かっているのかを何ひとつ明かすことも、触れることもなかった稜家から、ふいにそう歩きながら告げられた。ようやく彼が何を考え、何を望んでいるのかが分かるのかと思うと、嶺月は何だかいつもより足取りが軽く感じられた。自分にとって何よりも大切なのは稜家のことだから。だから、そんな彼の真意を知れるかもしれないことが純粋に嬉しかった。

(…あぁ、でも────…『そこ』にたどり着いたら次はどうするんだろう?)

 このまま稜家と二人でその目的地で暮らすのか。

 それとも、また別の目的地を目指して歩き続けるのか。

 どちらにせよ、自分はただ稜家とともに在るだけだ。嶺月はふと、頭の片隅に浮かんだ『この先のこと』を払うように、改めてそう強く心に誓っていた。

 しばらくすると砂の大地しか見えなかった風景のなかにいくつもの崩れた建造物が目に付くようになり、かつてこの場所に街があったのだと窺い知ることができた。これだけ雨風を凌げそうな場所が点在していれば、今でも身を潜めながら暮らしている人たちがいるかも知れない。

(…そういえば、祐ちゃんたちは元気にしてるかな…)

 そうして何となく別れを告げた友人たちのことを思い出し、嶺月は厚い雲に覆われた灰色の空を見上げる。────と、前を歩いていた稜家の足が止まり、その様子を察した嶺月も空から視線を戻して立ち止まる。

「はいはい、そこのお二人さーん。持ってる食料出してもらえるかなー?」

 その数秒後、いかにも頭が緩いと分かる口調とともに、建物の陰から三人の男が姿を現した。手にはライフルが握られ、見せつけるかのようにもう片方の手にと小気味よく叩き付けている。こちらを丸腰と見ているのだろう。まるで余裕と云った風に男たちはにやにやと品のない笑みを浮かべており、嶺月はちらり、と稜家の様子を窺った。

 正直『この程度』の輩など相手にもならないが、稜家は一体どう出るつもりでいるのだろう。念の為、いつでも銃を抜けるようにと、指先に神経を集中させることにする。

 そんな慎重な構えをみせる嶺月に対し稜家はと云うと────無防備なまでににこり、と笑みを浮かべ、逆に男たちへと問いかける。

「どうして出さなきゃいけないのか教えて欲しいんだけど」

「…はぁ?」

「そうでしょ? なんで俺らが見ず知らずの人間の前に自分の食料を出さなきゃいけない訳?」

 まさかそんなことを問われるとは思ってもみなかった男たちは互いに顔を見合わせ、ふいに中の一人が溜息交じりにこう云った。

「見て分からないようだから説明してやるけど、俺らはあの政府殺しで有名な『稜家道隆』の手下なんだぜ? …死にたくなかったら大人しく従っといた方が賢明だぞ??」

 『稜家道隆』。その名前を口にすれば誰もが恐れるものと思っての発言なのだろう。思わぬ展開に若干動揺してしまう嶺月と、たまらず吹き出してしまいそうになる当人と。本当に組織の人間であるならば、トップに立つ人間の顔を知らない訳がないだろうに。

 あまりの間抜けさ加減につい緩んでしまう口元もそのままに、稜家は男たちの顔を見詰める。

「あれーっ?、可笑しいなぁ。その組織なら潰れたって噂だけど??」

「あぁっ?! 何だおまえ、俺らのこと疑ってんのかぁ?!」

 小馬鹿にしているかのようにも聞こえなくはない台詞に思わず声を荒げ、ライフルを持つ手に自然と力を込める男に対し、稜家はふっと、背筋が凍るような微笑を浮かべてみせる。


「────そりゃあだって、俺がその組織を潰した張本人だからな」

「なっ…!」


 次の瞬間、男たちは引き金に指をかける時間すら与えられぬまま、ともに眉間を撃ち抜かれ即座に沈黙していた。銃の師匠である稜家の腕前は十分過ぎる程知っていたつもりだが、あまりの動作の速さに思わず言葉を失い、嶺月は暫しそのままで身動きひとつ取れなかった。

「…ったく、顔も知らない相手の名前を利用するとかありえないよなー?、建ちゃん」

「えっ?!…あ、はいっ、そうですね。僕も信じられないです…」

 ふいに銃を収めたかと思うと本気かどうかも分からない口調で振られ、嶺月は一瞬遅れながらもそう言葉を返した。男らも稜家の顔を知っていたならばこんな形で人生を終えずに済んでいたかも知れないというのに。

(…でも、こうして直接関係のないところでまで道隆さんは悪く思われているんだ────…)

 実際に組織の人間から被害を受けたと云うのなら分からなくもないが、知らない土地で知らない人にまで『悪人』だと決めつけられ、恐れられているだなど正直納得がいかない。まるですべての悪を稜家になすりつけて、この世の元凶に仕立て上げているかのような気すらしてきて嫌になる。

 本当は彼も最愛の人を政府に殺された『被害者』の一人にすぎないと云うのに────…。

「とりあえず通行の邪魔になるから端にでも寄せとこうかねーっ」

 云って稜家は肉の塊と化した男たちをその場から足で転がし、瓦礫の脇へと片付ける。そして、絶命した拍子に転がった男のリュックを何の気もなしに手に取ると、突如背後から『手を上げろ!』と荒々しい声が聞こえた。

 振り向かずともその声色からまだ幼い子どもだと分かり、稜家と嶺月は一旦、顔を見合わせる。告げられた台詞からするに相手はこちらに銃を向けている。たとえ相手が子どもだろうが稜家が『殺れ』と云うのなら、嶺月は迷わず引き金を引くつもりだった。

「────良いよ、建ちゃん。相手は俺がするから」

 そんな嶺月の心を読んだかのように稜家はそう云うと、要求通り手を上げることもなく声のする方へと振り向いた。すると、やはりそこに立っていたのは12歳くらいの少年で、その背中には妹と思われる女の子がぎゅ…っとしがみ付いている姿が見えた。

 稜家はその光景に一瞬目を細めたがすぐに表情を戻すと、無言のままに一歩、彼らの方へと足を踏み出した。

「うっ、動くな! それ以上動いたら撃つぞ!」

 最早常套文句とも云える台詞を口にしてくる少年に、だけどもまた一歩、一歩と足を進ませる。

「撃ちたいならいつでも撃って良いよ? 別に俺、死ぬの怖くないし」

「! そっ、そんなの嘘だ! 本当に撃つからな?!」

「────だから『撃って良いよ』? 本当にその覚悟があるならね」

 そう告げるとともに発せられた底冷えするかのような威圧感は、慣れている筈の嶺月ですらたまらず怯んでしまいそうになる。そんな純度の高い畏怖を前にして少年が気丈にふるまえる筈もなく、知らず銃を持つ手に震えが走り出す。

 そのまま臆することなく彼らの元へと歩を刻み続けた稜家は、結局目の前まできても火を噴かずカタカタと震えているだけの銃口に自らの体を押し当てる。そこでようやく少年ははっと正気を取り戻し、慌てて顔を上向け、手元の引き金を引こうとした。────が、

「俺なら、この状態からでもおまえを先に殺せるよ?」

「!」

「喧嘩を吹っかける相手は選んだ方が良い。…守りたいものがあるなら余計にな」

 少年にとって何よりも守りたいものは、自分よりも幼い妹であることは間違いない。その妹を一人にさせてしまうようなリスクを犯してまでも銃を手に取る理由など、少年のなかにあっていい筈がなかった。

 そう告げる稜家の言葉に少年はふいに銃を落とすと、力なくその場にと膝を付いてしまっていた。

「お兄ちゃん…っ…」

 後ろに隠れていた妹が同じように膝を付き、今にも泣き出しそうな表情で少年を見詰めている。稜家は暫しそのままで二人の姿を見下ろしていたが、ふと足を進めると、男たちが持っていたリュックを再び手に取った。そしてそれを二人の足元へと放り、驚いてはっと顔を上向けた少年に先程とは異なる笑みを乗せて云う。

「俺らには必要ないものだから、好きにすると良いよ」

 さすがに自分たちの食料や持ち物を恵んでやる程の優しさを見せることはできないが、不要な物を与える分には構わない。それだけ云うと稜家は無言のままに歩き出し、嶺月も小走りにその後ろを着いて行く。

(…子ども相手に心配はしてなかったけど────…結構ドキッとしたな…)

 今のような一見無謀ともいえる行動は圧倒的な余裕の表れなのかもしれない。だけども普段ならばけして口にしないような台詞の数々や、ある意味らしからぬ行動に嶺月は一瞬、稜家が自ら命を投げ出そうとしているのではないか、と思ってしまった。

 もちろん彼が本当は心の優しい人間だと云うことは、他の誰が理解できなくとも自分だけはしている。それでも言い知れぬ不安が胸に押し寄せて、思わず嶺月は眉根を強く寄せてしまっていた。

 ────もうすぐ、もうすぐ稜家の真意がわかるというのに。

 目的地に近付けば近づく程に何故か、嫌な予感ばかりが脳裏を掠め続けていた。




 何となくかける言葉が見当たらず、結局無言のままでただひたすらに砂の大地を歩き続けていると、瓦礫の跡も何もない、剥き出しの地面が広がるだけの世界が見えてきた。

 それは嶺月が初めて目にする光景で、ここまで何も────…今まで散々踏みしめていた砂地すら存在しない場所があるだなど想像したこともなかった。

 そんな『死滅』したかのような景色の先に、天を貫くような形でそびえ立つ建物がひとつ。『あの日』、世界の大半が壊滅したという状況下においてその姿は、奇跡と云うよりも最早『ありえない』としか思えなかった。

「……道隆さん、あの建物は────…」

 とてもじゃないが信じられないような光景を目の前にして思わず問うてしまう嶺月に、稜家は依然足を進めたまま振り向くでもなしに答えを返す。

「────あぁ、『あれ』が俺たちの目的地だ」




 近付いた建物の周りには、数えきれないほどの人骨や死体が無造作に転がっていた。年月による劣化はあるもののそれ以外は無傷とも云える建物は、住むところをなくした人々にとっては希望の光に見えたに違いない。

 だけども入口はもちろん、すべての窓には分厚い鉄のシャッターが下りていて、嶺月でもこれが人の手で開けられるようなものではないことは十分過ぎる程理解できた。つまり、ここまでたどり着いた人間はこのシャッターの存在に怒り、縋り、絶望し、逃れられない死を受け入れたと云うことだ。

(…どう見ても『普通』の建物じゃない────よね…?)

 『そんな』場所を『目的地』だと云う稜家の背中を眺めつつも、訝しそうに眉を顰めていると────ゴゴゴゴゴ…ッと大きな音とともに、目の前のシャッターが一部だけ開いて行くのが分かった。

「えっ?!、…あっ…道隆さん…??」

 身を屈めれば入れるくらいの高さでシャッターは止まり、稜家はそのままするり、と先を行ってしまう。まさか絶望の象徴にも見えた重厚なシャッターがいとも簡単に開くとは思わずに、一瞬遅れた嶺月が建物の中に入ると、再びシャッターは音をたてて外の世界を遮断した。

 足を踏み入れたその建物のなかは、まるで『あの日』など存在しなかったかのように明るく整然したものだった。まさかここまで何の影響も受けていない場所があるだなどまるで予想もしなかっただけに驚きを隠すことができず、ただただ辺りを何度も見回してしまう。

「────ほらほら建ちゃーん!、こっちこっちー!」

 呼ばれ、はっと声のする方に視線を向けてみると、エレベーターの入口を押さえながら手招きする稜家の姿があった。

「…動くんですね、このエレベーター…」

「そうだね、この建物だけは無傷だったから」

「…………………」

「―────訊きたいことがあるなら何でも訊いて良いよ?」

 思わず黙り込んでしまう嶺月の胸中を察して声をかけるも、彼からの問いかけはなかった。いや、嶺月とて本音を云えば訊きたいことなど山のようにあった。でも、何故かそれをこの場で稜家に問い質す勇気をどうしても持つことができなかった。

 そうして沈黙のままにエレベーターは回数表示の数字を増やして行き、『42』を記したところで止まると、静かにドアが開いた。目の前に広がる室内には無数のパネルや端末が並べられており、遅れてエレベーターから降りた嶺月は一通り辺りを見渡した後、改めて稜家の背中を見詰めた。

 稜家は一歩、また一歩と足を踏み出し一台の端末へと向かうと、ゆっくりと嶺月の方を振り返り、にこり、と笑ってみせた。

「『ここ』はね、俺の彼女が働いていた政府直轄の研究所だったところだよ。────そして、『あの日』を引き起こした場所であり、彼女が亡くなった場所でもあるんだ」

 云って稜家は『その場所』へと視線を移し、静かに瞼を閉じる。

 どれだけ長い年月が過ぎようが、赤い血の海に力なく倒れ込んでいた彼女の姿を自分は今でも鮮明なまでに記憶している。

「誰よりも平和を望んだ彼女を殺しただけでなく、彼女の研究までもを殺戮道具に使おうとした政府の連中を俺は憎んだよ。しかも、殺してまで奪い取った研究を失敗させて『こんな』世界にするだなんてね────…殺しても、殺しても、殺しても、とても満たしきれないくらいの憎悪が俺のなかに生まれたよ。その憎悪が俺の心を黒く塗り潰しきったとき────…俺はこの世の『すべて』を殺してやろうと思った。もとより政府は『それ』を望んで、その願いを叶えるために彼女を殺したんだ。…だったら俺がこんな中途半端な形でなく、完全にこの世界を殺してやろうって────…そのことだけを考えて俺は今まで生きてきたんだ」

 彼女を殺した政府の人間をすべて始末すれば、少なからず心は晴れるものと思っていた。彼女を失った孤独や絶望を抱えたままでも仇を討てたことを糧に、いくらかは一人でも生きて行けるだろうと思っていた。

 ────だけども『あの日』、政府の人間を皆殺しにした後でこの部屋の窓からすっかり変わり果てた世界を目にした瞬間、連中の死『ごとき』で贖いきれるものではないことを悟った。それほどまでに彼女の愛した世界はまったくもって見る影もなかった。


「ねぇ、道隆。このプロジェクトが終わったら────…どこか、どこか遠くに行きたいな。貴方と二人で、誰にも穢されない世界に─────…」


 そう云った彼女の願いはもう、叶わない。

 何故ならそう、世界は『こんなにも』穢れてしまった。

 そう思うと可笑しくもないのにただただ笑いが込み上げてきて、いくつもの死体が転がるなか、気が触れたかのようにいつまでも一人で笑い続けていた。あのときからずっと、ずっと俺は正気を保ちつつも狂い続けていたに違いない。

 その場にただ立ち尽くすことしかできない嶺月に向け、なおも稜家は言葉の先を続ける。

「いつしか俺が政府の人間をすべて始末したって噂が広まって────…ロクでもない連中が集まり出したときは正直笑ったよ。『本当にこの世界はクソなんだなぁ』って。…でも、一番クソなのはこの俺だった。ロクでもない連中を利用して生き延びられた人たちを平然と死に追いやっていたんだからね…」

 それでも初めのうちは本当に生き残った人たちを、森野とともに助けようとしていた。彼らには何の罪もなく、ただの被害者でしかなかったからだ。

 なのに、いつから人を思う気持ちよりも人を憎む気持ちの方が勝って行ったのだろうか。自分にはその境目がどこにあったかさえも思い出すことはできない。

 もちろん、これまで自分がしてきたすべてのことを今更、間違いだっただなどとはけして思わない。後になって罪の意識を感じたり悔いたりするくらいなら、そもそも彼女のいないこの世界で生き続けたりなどしていない。

 それでもこんな風に己のしてきたことを客観的に振り返れるようになったのは、世界中を敵に回したとしても理解者であり続けると云ってくれた嶺月の存在があったからだと思う。自らの命を投げ出してでも信じ抜こうとしてくれた、そんな彼の存在があったからこそ、自分のなかにも少なからず人を思う気持ちがあったことに気付くことができた。

 稜家はそう言った後暫し口を噤み、らしくもない自分自身を吐露してしまったことを自嘲するかのように歪な笑みを浮かばせた。

 これから自分が果たそうとしている本来の目的は、何も贖罪の気持ちからしようと考えたわけではない。ただ、自分の愛した女性が命を賭してでも守ろうとした本来の世界を取り戻してやりたい────…。ようやくそう思える人間になれただけのことだった。

「これは、森野にも黙っていたことなんだけど────…彼女は人殺しの兵器を作らされているなかで、万が一のための保険を用意していたんだ。たとえ政府の人間らの手によって穢されたとしても、再びこの世界が生まれ変われるようにとね────…」

 言い終えると同時に端末のキーボードを叩くと、一瞬、建物を大きく揺らすような衝撃波が起こった。その憶えのある振動に『あの日』の惨劇を予感した嶺月は思わず後ろを振り返り外の様子を目にしたが、そこにあったのは先程と何も変わらない、瓦礫の跡も何もない、剥き出しの地面が広がるだけの世界だった。

 だけども剥き出しの地面の上には何故か、眩いほどの光の粒が降り注いでいるのが分かる。嶺月はそれを陽の光に照らされた雨かと思ったが、雲の様子を見るにそうではないことを察する。

「…道隆さん、これは…一体…?」

 『万が一のための保険』という言葉から危険なものではないだろうことは明白だったが、それ以上のことはまるで判断がつかない。ここにきてようやく口を開くことができた嶺月は何が起こっているのかまったくわからずに、ただただ酷く困惑した表情を浮かべてしまうだけだった。

 それも無理のない話だ。稜家は先程の歪な笑みを口元から消して、安心させるような声色でこう告げる。

「今の衝撃波によって死滅した大地の再生を促す養分を散布した。そこまで広範囲に行き渡るものではないけど、1ヵ月もすれば草木が実り出し、作物も育てられるようになる」

「!」

「これで少しはマシになるだろうね、このクソみたいな世界もさ────…」

 一見すると信じ難い、夢のような話に聞こえなくもなかったが、稜家がそんなありもしない現実を口にするような人間ではないことを知っている。し、そう話す表情がいつになく人間味を感じさせるもので────…初めて本当の彼の内面というものを目にすることができたような気がした。

(…あぁ、ようやく道隆さんは救われたのかも知れない────…)

 砂と乾いた大地だけが広がるこの世界に草木が実り、作物が育つようになれば、少ない食料を巡って人々が奪い、争う必要もなくなる。争いが減れば治安も良くなり、大人も子供も安心して暮らせる世界に変わって行けると思う。

 ここにきてそう、世界は確実に希望の光を手に入れられた訳だ。徐々にそう実感が湧いてきた嶺月は自然と顔を綻ばせ、思わず浮かんでしまう嬉し涙をどうすることもできなかった。

 そんな嶺月の様子を黙って見守っていた稜家は一度、ゆっくりと瞼を閉じると、ここに来たら云おうと決めていた言葉を告げる。


「ここで俺たちの旅も終わりだ。────建ちゃんはこのことを伝えに森野たちのところに行ってくれ」


 それは、ごく普通に納得できる内容だった。一刻も早くこのことを伝えることが森野や自分の友人たちにとって大きな安心材料になることは重々承知もしていた。

 ────だけども嶺月は『それ』を素直に受け取ることができない。ここを離れるということはすなわち、稜家との別れを意味すると察しているからだ。

「…道隆さ…僕は…っ…」

 思わず言葉に詰まってしまう彼の様子に、稜家は努めて明るい声で云う。

「なんて顔してるんだよ、建ちゃんはぁーっ。ただお使いに行って帰ってくるだけだろう?」

「あ…っ…ですよね!、そう…ですよね!」

 稜家の口から出た『帰ってくるだけ』という言葉に、嶺月は途端ぱっと笑顔を浮かばせる。ここに来るまでに嫌な予感ばかりが積もっていたせいか、悪い方向に考え過ぎていたみたいだ。彼の云う通りそう、伝い終えたらまた稜家の元に帰ってくれば良い。そして今度は旅ではなく、ひとつの場所に留まって二人で新しい生活を始めよう。

「それじゃあ僕、森野さんたちのところに行ってきます。なるべく早く帰りますので、待っていてくださいね」

 先程までの不安を露わにした様子もどこへやら、嶺月は笑顔でそう云うと足早にこの場を去って行った。その背を暫し同じように笑顔で見送っていた稜家は彼の乗ったエレベーターの表示が『1F』になるのを確認すると、まるで肩の荷が降りたかのように大きく息を吐いていた。

「…ごめんね、建ちゃん。最後の約束は守れそうにないや────…」

 だからこそ返事をすることができなかったけれど、そのことに気付かれずに済んで良かった。稜家は端末から静かに足を進め、最愛の彼女が倒れていた場所にゆっくりと膝を付く。今の自分は何もかもすべてをやり終えて、実に清々しい気分だった。あれだけ黒く塗り潰されていた心も至極穏やかで、まるで一点の曇りもない青空のようだった。

 口元に浮かぶのは満ち足りた笑みばかりで、最後の最後に本当の自分を取り戻せたことを居もしない神に、そして嶺月に感謝した。


「…ようやく君の元に逝けるよ、亜由美──────…」


 今度こそ二人でどこか遠くに行こう。君と二人で、誰にも穢されない世界に─────…。


 ふと、何かに弾かれたかのように嶺月ははっと顔を上げていた。

 そして後ろを振り返り、歩き続けたことで幾分小さくなった建物を見詰める。だけども不安に思うことは何もない。少しでも早く稜家の元へと帰れるよう、嶺月は再び前を向き急ぐように歩き出す。

 希望の光に満ちた未来を二人で紡ぐために────。






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