日本人は無宗教ゆえに孤独なのか

龍眼喰 仁智

第1話 無宗教と信仰心

日本人であれば大抵の人が無宗教だという。それは本当のことなのだろう。自分の先祖やら爺さんやら婆さんが弔われている宗教の宗派は仏教であることはわかっても、それが浄土宗なのか、浄土真宗なのか、はたまた時宗なのか臨済宗なのかわかっていない。


キリスト教であったり、名前の言いづらいあの手この手の新興宗教であれば、自覚はあるものの、それを信仰しているかどうかであれば、それは疑問符だ。いや、してないだろう。極稀にガッツリと進行してきて、部屋を訪ねてきて「聖書の教えをなんたらかんたら」と押しかけてくるひとはいるが、あれは希少種だ。


希少種だからネタにされる。


それはいい。どうでもいい。だが、信仰心がないかといえば、それは大嘘になる。そもそも、信仰心がかけらもないのであれば、ホラーや怪談は流行らない。怖さを感じるはずがない。恐怖を感じている人間が「あたしー、無宗教だからー、怖くないんだよね」なんていっても滑稽でしかない。


例えば、墓石にドロップキックをしろと言われて、何の躊躇もなく出来るだろうか。廃墟で見つけたフランス人形をジャイアントスイングかませるだろうか。曰くつきのお菊人形の顔が跡形もなくなるまで殴り続けることができるだろうか。


「おれ?できるよ?」なんてやつは、まあ、ぼくの幼馴染のS氏か、爆笑問題の太田さんぐらいでいいだろう。無信仰な人間は存在するし、その手の人間の行動を見たら「サイコパスだよぉ」と怯えるのが一般人であり、言い換えれば、まともに信仰心のある人間の感覚だ。


S氏の無信仰エピソードは話せば長くなるので、ひとつだけ紹介するとすれば、彼は小学生のとき、猫の死骸を見つけたのだが、なにげなく小学校の隣の公園の砂場に埋めたのだそうだ。雑に扱えば、祟られるかもしれないと考えて、それをやったのだという。だが、彼に祟りは起きなかった。


だがこのエピソードには続きがある。このS氏の奇行をまったく知らない小学校クラスメイトの女子が、その日を境に、公園の砂場で遊ぶのを避けるようになったのだ。理由は、その砂場から猫の切なげな鳴き声が聞こえるようになったからだという。


不思議な話であるが、実話である。信仰心がなくとも、こういうことはリンクするという。なお、ぼくは、この両方の話を知ったのは小学校を卒業して12年後であり、それぞれをS氏と、とあるクラスメイトの女の子と、別々から聞いた。


ぼくの中では、この世には不思議な事があるものだなと、面白い話を聞いた気分で終わった。猫の供養がちゃんとされたのかどうかは、知らない。砂場の土になったのかもしれない。


さて、このように無宗教であっても、信仰心は存在している。ぼくの定義する信仰心はこれであり、学術的な信仰心の定義など微塵も興味が無い。ぼくの話を聞く上で、ぼく以外の定義を持ちだされても知ったこっちゃないので、それだけは明記しておく。


いや、だってこれエッセイですし。学術的な論文ではありませんし。

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