一章 男装始めます5



 初夏の昼下がり。

 六月は一年の中で最も気候のよい時期とはいえ、後半になると日差しは強い。隊長から手渡れた書簡を持ってレカルディーナはリエンアール宮を目指して歩いていた。広大な庭園をひたすら歩くこと約十五分。馬を使えばもっと時間を短縮することができるけれど、あいにくとレカルディーナに乗馬経験はない。


 そしてリエンアール宮にたどり着くと、五十に手が届くだろうという貴婦人がレカルディーナのことを出迎えてくれた。

 黒い髪に少し灰色が混じっている。瞳の色は緑色。上品な笑みを浮かべている。


「こんにちは。あなたが書簡を持ってきてくれた……ベルナルド殿下の新しい侍従かしら」

 女性はほがらかにレカルディーナに話しかけてきた。

「はい」


 レカルディーナはおずおずと書簡を差し出した。

 女性はその場で封を開けて中身を一瞥して、嘆息した。


 現在リエンアール宮には国王夫妻が滞在している。

 引きこもり中の息子のことが気になるようで、レカルディーナが入ったあと何回か国王夫妻から茶会やら昼食会や夕食の誘いが舞い込んできていたのだが、どれもすべて欠席の返事を出している。現在レカルディーナが運んでいる書簡もお茶会の誘いなのだが、中身はもちろん欠席だった。


「ああ、あなたがそんなにも悲しい顔をしなくてもいいのよ。大丈夫、国王夫妻にはわたくしから申し上げておきますからね」

「お力になれず申し訳ございません」

 レカルディーナは項垂れた。


「いいのよ。いつものことですから。ここだけの話、国王夫妻がリポト館を訪れた際もベルナルド殿下は門前払いをされてしまうのよ」

「ええっ。そうなんですか」

「そうなの。あの館に殿下が籠るようになって一年目は陛下も足繁く通っていたのですけれど。最近はこうして手紙ばかりで」


 婦人は頬に手を添えてため息をついた。

 その顔は憂いに満ちている。レカルディーナは、彼女の力になりたいと思った。

 しかし、レカルディーナの言葉だってベルナルドには届かない。


「あら、あなたまで落ち込まないで。あなたは殿下のそばに居て差し上げてね」

「はい。お心遣いありがとうございます」


 目の前の貴婦人の慈愛に満ちたまなざしが嬉しくてレカルディーナは元気よく答えた。

 はきはきとした答えに女性はころころと笑った。


「ずいぶん元気がいいのねえ。あなたのような子がいれば、そうねえ、なんだか大丈夫な気がしてきたわ。ああそうだ。少し前にリポト館へ向かった令嬢がいらっしゃるの。彼女のことをよろしく頼むわね」

「はい」


 王族付きの女官だからどんな厳格な人が現れるだろうと身構えていたけれど、この女性はとても親しげでレカルディーナの不安をすぐに取り払った。

 レカルディーナは彼女の役に立ちたくて早々にリエンアール宮から退出して、元来た道を戻った。広い庭園だから、行きにはすれ違わなかったのだ。




 庭園を歩いていると前方の方に明るい色のドレスをまとった女性の姿がみえた。パラソルをさしている。彼女が件の令嬢だろう。


 赤茶色の髪の毛をきれいに結いあげた少女だった。

 彼女は立ち止って、すぐ隣に生えている木を窺っていた。


「どうしたの?」


 レカルディーナはすぐそばまでやってきて少女に声をかけた。こちらを振り返った少女は勝ち気そうな顔立ちをしていた。白い肌にレエスの手袋をし、淡い黄色のドレスを身にまとっている。

 レカルディーナは目を瞬いた。どこか既視感がある気がする。


「あ、僕はその。ここに勤めている者というか、殿下の侍従をさせてもらっています」


 少女が口を開かなかったのでレカルディーナは慌てて弁解めいた言葉を口にした。いきなり声をかけられて不審者だと思われたのかもしれない。


「そ、その。ハンカチを飛ばされてしまいまして」


 思いのほか小さな声だった。

 少女はレカルディーナから視線を外して傍らに立つ大きな木の上の方に顔を向けた。レカルディーナもつられて見上げると確かにそこには白い布切れが引っかかっていた。どうやら少女のハンカチのようだ。風で飛ばされたのだろう。


「ああ本当だ。ちょっと待ってて」


 馬には乗れないが木のぼりなら得意である。小さいころからよく屋敷の庭の木に登っては母親が卒倒していたものである。ちなみにこの間の脱走未遂の時も屋敷の窓から木を伝って下に降りた。


 レカルディーナは今回もあっさりと木のぼりをして難なく目当てのハンカチを無事に確保した。するすると登って簡単に降りてきたレカルディーナに少女は呆気にとられていた。もしかしたら今までこういう場面に出くわしたことが無いのかもしれない。


「あ……」

「はい、これ。気をつけてね」


 レカルディーナはにっこり笑って少女の手の中にハンカチを収めた。ハンカチを彼女の手の平に置いた拍子に手が触れたのか少女の肩が不自然に持ちあがった。


「あ、ごめんなさい」


 つい女の子同士の感覚で気安く触れてしまったが、一応今の自分は男だ。見ず知らずの男性からいきなり触れられて少女は怖がったかもしれない。


「い、いえ……」

 少女はじっとレカルディーナのことを凝視している。

 しだいにその瞳がうるんできた。


(え、泣くほどいやだった……? うそ、どうしよう……。わたしクビかも)


 レカルディーナは内心うろたえた。


「そ、その。あなたは殿下に会いに来てくれた令嬢だと伺いました。よろしければ、案内します……よ?」


 その言葉に令嬢は目を見開いた。

 そして、次の瞬間。くるりと身をひるがえしてリエンアール宮の方へと引き返してしまった。

 置いてきぼりをくらったレカルディーナはしばしその場にたたずんだままだった。




 翌日は朝からベルナルドはずっと部屋にこもっていた。相変わらずカーテンを閉めた部屋で蜘蛛に手ずから餌をやっている。ガラスの箱が並んだ棚のあたりには近づきたくないレカルディーナだった。


 年代物の精緻な意匠の掘られた飾り棚もまさか蜘蛛の入ったガラスの箱が陳列されようとは、作った職人も思わなかったに違いない。

 感情のこもらない、無愛想と呼べるような顔で餌をやっている姿はある意味怖い。いや、笑顔で虫について語られてもそれはそれでついていけるかわからないが。


 そんなことを考えていると、なにやら外から騒がしい声が聞こえてきた。

 二階まで届くほどの音量でしゃべっているのだろう。一体何があったのか。レカルディーナは窓辺に寄ってカーテンを少しだけ引いて窓を開けた。


 男性と女性の声が聞こえてくる。男性はアドルフィートとシーロのもののようだ。女性の声は聞き覚えがないが、やたらと高い声が耳に届いた。さすがに内容までは聞き取れない。


「ルディオ、おまえちょっと追い返してこい」

「へっ? ええぇぇぇっ」


 すぐ後ろでベルナルドの声がした。ついでに初めて名前で呼ばれた気がするが感動している暇は無かった。続く文言が無茶ぶりすぎてつい大きな声をだしてしまった。アドルフィートが苦戦しているのを聞いていてそれを言うか、だ。


「うるさい」

 ベルナルドは煩わしそうにルディオを見下ろしていた。

「いや、でも。自分にできますか?」


「知るか、そんなこと。たまにああいうのが来るんだ。さっさと追い払ってこい」


 取りつく島も無くあっさりと部屋から追い出されてしまった。

 王子の侍従なのだから、それが仕事と言われればしょうがない。気乗りは全然しないながらもレカルディーナは階下へ向かった。当然のことながら足取りは重い。

 リポト館へと続く前庭で件の言い争いは勃発していた。


「いいですこと? わたくしはクラナドス家の者ですのよ。それをたかが近衛騎士風情が、何の権限があってそこに立ちふさがっていますの」


 いかにも命令をしなれている声音だった。近衛騎士風情といってもアドルフィートだって貴族の出なのだから、身分的には低くも無い。というかグラナドス家と言っただろうか、なんとなく聞き覚えのある家名だった。


「しかし、殿下は誰にもお会いになられません」

 アドルフィートは懸命に令嬢を説得している。

「別に殿下に用があって来ているのではありません」


 こういう身分を嵩にかかる者の相手をするのは骨が折れるし、一介の侍従が追い返そうとしようものなら烈火のごとく反抗されそうで早くも憂鬱になってきた。

 側までやってきて訪問者の顔を認識してレカルディーナはあっと口を開いた。昨日ハンカチを飛ばされてしまった少女だった。あのときよりも数倍元気そうで高圧的な態度である。


「あら、ルディオまで来たの」

 前庭に姿を見せたレカルディーナに気づいたのかダイラが小さな声で話しかけてきた。客人の対応も女官の仕事のひとつだ。


「うん、まあね。殿下に追い返して来いって言われた」

 レカルディーナは苦い顔をした。

「あら、会話するなんて進歩じゃない」

 ダイラは淡々と返した。そして声を潜めてレカルディーナのほうへ顔を寄せてきた。


「あなたにとってはあまりよい客人じゃないわよ。ファビレーアナ・グラナドス。覚えているかしら」


 その名前にレカルディーナの脳裏に幼いころの嫌な思い出の数々が蘇ってきた。なにか聞いたことあると思ったら、小さい頃母の出自のことでさんざん意地悪をしてきた家名だったのだ。グラナドス侯爵家は典型的な貴族主義の思想を持っており、隣国のブルジョワ層出身で年の離れたパニアグア侯爵家へ嫁いでいたオートリエのことを蔑んでいた。お金目当てだとか、所詮は平民だとか、そういうことを言っていた。何故分かるのかと言えば夫人の娘であるファビレーアナからそっくり同じ台詞でもって意地悪をされていたからである。実際母の実家はフラデニアで事業を成功させた屈指の実業家なのだが貴族ではない。


「ああ…あの」


 レカルディーナは遠い目をした。たしかにいい思い出は無い。女の子相手だと殴るわけにもいかないので、ぐっとこらえるしかなかったこととか思い出した。

 レカルディーナとダイラが過去に想いを寄せている間もずっと押し問答は続いていた。深窓の令嬢が一人、対する近衛騎士は訓練を積んだ立派な軍人であるが、さすがに身分の高い令嬢が相手だと強硬な手段に出るわけにもいかないらしく平行線をたどっていた。


 気乗りしないがここは王子の侍従として加勢しないわけにはいかないだろう。ちゃんと説明すれば分かってくれると思う。

 レカルディーナは覚悟を決めるとアドルフィートの隣に並んだ。


「あ、あの。本日ベルナルド殿下は体調があまり思わしくなくてですね」

 レカルディーナは当たり障りのないことを言ってこの場をやり過ごそうとした。

「ですから、殿下ではなく! ……あ、あなたは……」


 ファビレーアナは最初こそ勢いがあったが、レカルディーナの顔を見るなり急に声がか細くなった。そして頬を染めてそのまま下を向いてしまった。

 レカルディーナとアドルフィートは直近までの態度との違いにお互い顔を見合わせた。しかし二人とも原因などさっぱりわからない。


「ええと。グラナドス嬢?」


 先に我に返ったアドルフィートがファビレーアナに声をかけた。

 しかしその言葉にも彼女は無反応だった。


「昨日は助けていただいてありがとうございました」


 ファビレーアナはもじもじと体の前で両方の指をもてあそんだ。あまりの変わり身にレカルディーナは一歩後ずさった。これは新手の嫌がらせだろうか。なんだか嫌な予感しかない。


「いや、その……ついでだったし。別にいいよ、改めてそんな」


 一刻もこの場から立ち去りたいレカルディーナはファビレーアナを刺激しないように言い繕った。令嬢の手の平の返しようについていけないのか隣に立っているアドルフィートは放心していた。女性不審にならないことを祈るばかりである。


「あ、あなたのお名前をお聞きしたくて」

「ルディオといいます」

「あ、あの。改めてお礼を……させていただければと思うのですが」

「お構いなく! ほんと! 全然」


 ファビレーアナがずいっと一歩前に進み出たので、レカルディーナは反射的に一歩後ろへ下がった。

 気のせいか、彼女の瞳がまるで高熱に浮かされているかのように潤んでいる。もしかしたら、暑さにやられてしまったのかもしれない。


「そんな……。ルディオ様はわたくしのことお嫌いですか?」

 潤んだ瞳で物言いたげに見つめられて、さすがのレカルディーナもなにか閃くものがあった。


「えっと……グラナドス嬢?」

「いやですわルディオ様ったら、そんな他人行儀な。ファビレーアナって呼んでください」


 レカルディーナの背中に一筋の汗が流れた。


「わたくし、ルディオ様に一目ぼれをしてしまったのですわ」

「ええええぇぇっ」

 衝撃的な発言にレカルディーナは声を上げた。

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