歯車の食性

朽犬

第1話 ~2012年~

2012年


電話で、撮影で近くまで来るから飲みに行こうよ、という義兄にいさんからの誘いを七月に受けたので、八月の頭に僕は個室のある適当な居酒屋を予約した。奢ってもらうことを前提に、静かな場所にある、学生の身分では入れなさそうな居酒屋を選んだ。

当日、ちょっと遅れるという連絡を受けて居酒屋の前で待っていると、午後九時過ぎに、頬を赤くした義兄さんがやってきた。

「ごめんごめん」

「ああ、飲み会だったんですか」

「うん、途中で抜けてきた」

「いいんです?」

「いいよ。本当はコウくんのほうが先約だし。遅れてごめんね」

義兄さんは変装用の黒縁の伊達眼鏡で店の看板を見上げた。「予約は大丈夫なの?」

「大丈夫です。電話したら融通は利きました」

「そっか。じゃあ入ろっか」

義兄さんはキャップを深く被りなおした。

店に入り、個室に通され、僕と義兄さんはビールで乾杯した。

「結婚式以来だっけ?」と、義兄さんがジョッキを置いて尋ねた。

「そう……ですね。連絡をもらったときはびっくりしました」

「ほんと? あんまり驚いてるようには聞こえなかったけど」

「まあ、僕なりにですよ。……ああそれと、去年のドラマ、観ました。レンタルですけど」

「おーありがとう。どうだった?」

「泣きました」

僕が真面目にそう言うと、義兄さんは大口を開けて笑った。「うそだあ」

「嘘じゃないですよ」

「どこで泣いたの? ラブコメだよ?」

「第一話のエンディングあたりです」

「いやいや、どこで泣くんだよ、ほんとに」

「本当ですって。『テレビドラマってこんなに面白いんだ』って感動しました」

僕がそう言っても義兄さんは信じなかったらしく、しかし面白そうにビールの二口目を含んでいた。

「あんまり、視聴率は取れなかったけどね」

「………視聴率って何ですか?」

「は?」ジョッキを置いた義兄さんはぽかんと口を開けた。「え? 知らない?」

決まりが悪くなって、僕は頭を掻いた。

「すみません。昔からテレビを、全然観なくて」

「まったく?」

「ほとんどまったく。テレビを点ける習慣もありません」

「……そういや、そうだったね。初対面のとき、俺のことも全然知らなかったしね」

義兄さんが苦笑を浮かべるのに対して、僕は申し訳なくなって、もう一度、すみませんと頭を下げた。

義兄さんが身を乗り出して尋ねた。「じゃあ、ドラマも全然観ないんだ?」

「というより、義兄さんが主役のドラマが、初めて観たドラマです」

「…………マジで?」

「はい。だから『テレビドラマってこんなに面白いんだ』って思ったんです」

「……言葉どおりか」

「言葉どおりですね」

義兄さんは、貴重な人間もいたもんだなあ、と言って、枝豆の莢を裂きはじめた。そういうリアクションは、大学に入ってから僕の周囲では当たり前のことになっていた。そもそもテレビを観たいと思ったことはほとんどなかったので、どうして周囲の人はテレビの中の世界についてこんなに詳しいのだろうと、逆に僕が驚くぐらいだった。

「夏休みでしょ? いつも何してんの?」

「……だいたい、家でじっとしてるか、勉強してます」

「じっとしてるって」

義兄さんがまた笑った。義兄さんが楽しそうなのでよかった。

「コウくん、テレビは観ないんでしょ? 音楽を聴くとか?」

「聴きません」

「じゃあマンガ?」

「買ったことないですね」

「わかった。ネットだ」

「からきしです。必要なときしかパソコンは触りません」

「…………じゃあ何してんの?」

「だから、ただ、家にいるだけです。アルバイトとエレメントの散歩に行く以外は」

エレメントとは、僕の自宅マンションで飼っているダックスフントの名前だ。

「………そういう生活、面白い? こんな言い方はどうかと思うけど」

「よく訊かれます。……特に、面白くはないです。だけど外に出たいわけでもないですし」

「女の子と遊んだりとかは?」

その質問には、僕はビールを一口飲んでから答えた。

「大学に入ってからは、ないですね。友達に酒本っていうのがいるんですけど、そいつに無理矢理連れ出される以外は」

「ふうん。……ん? 大学に入ってからは、ってことは、高校のときは違うの?」

「はい。彼女がいました。大学に入る前に別れましたけど」

「なんで? ふったの?」

「………ふられました。『やっぱり無理だった』って」

「無理って、なに? やっぱりコウくんのこと好きになれないって?」

 僕は、ずいぶん込み入った話になってしまったなと感じていた。しかし、ほかはともかく義兄さんとは―――山口凛(りん)さんとは、もう身内なのだから、こんな話もいいだろうと思って、話すことにした。

「逆です。僕が彼女に、恋ができなかったんです。それが彼女にとっては重要だったみたいで」

「……ってことは、告白したのは彼女のほうか。………そっか。好きになれなかったのか」

「好きは好きですよ。今だって。僕を好きだと言ってくれたので、大切でした。………けど、どうしても、恋はできませんでした」

恋ができない、という僕の表現を、咀嚼するように義兄さんは頷いていた。

「もうさ、使い古されてるけどさ」義兄さんが明るい口調になった。きっと話が暗くなりそうだったからだろう。「コウくんって、いわゆる『草食系』男子?」

同じ質問を、僕は大学に入ってから何度もされた。主にテレビから発信された言葉であるらしいけれど、テレビを観ない僕にも義兄さんの言うように使い古された感じがしていた。

「『草食系』が何かはよくわかりませんけど、僕は実際の草食動物ほど『野生』ではないと思うんです。………だけどあんまりよく言われるものだから、考えてみたんですよ」

僕は割り箸の袋を折り畳みながら言った。

「考えて……僕はこれかなっていうのを、思いつきました」

「なになに?」

「………『植物系』です」

その言葉を聞いた瞬間に、義兄さんは大笑いした。個室とはいえ店中に響き渡るような笑い声だった。

「……ごめんごめん。でもいいなあそれ。植物。『植物系』男子。時代先取りだよ」

「食われるばかりですよ。食物連鎖の最底辺です」

「そういやあ俺の周りにもいるよ。動物じゃなくて植物寄りのやつ」

 ひとしきり笑ったあとも、義兄さんは、くくくと含み笑いをしていた。

「あーおもしれー。今度監督に話そうっと」

「……僕もよく知りませんよ? でも、人間のタイプを肉食か草食かで分けるなんて、乱暴じゃないですか。血液型占いよりひどい」

「はいはい、雑食とかあるもんね」

「もっとありますよ。カブトムシみたいな樹液食とか、コウモリとか蚊みたいな血食とか。ほかにも調べたら花粉食とか蜜食とか菌食とかいろいろありましたよ」

そのとき義兄さんのジョッキが空になりそうだったので、僕は個室に据えられたボタンを押した。やがて店員さんが来て、義兄さんが芋の水割りを頼んで、僕はもう一杯ビールと、いくつかのつまみを頼んだ。

次の酒が来るのを待つ間に、義兄さんがテーブルに肘をついて、僕に尋ねた。

「弟の目から見て、きみのお姉ちゃんは、『何系』だと思う?」

その問いに僕は、首を傾げた。

「どの姉さんのことです?」

義兄さんは笑った。「まあ、聞きたいのは、俺の奥さんについてだけど」

照れくささがあるのか、義兄さんは、結婚した僕の姉のことを名前で呼びたがらない。家ではどんな風に呼び合っているのだろうと、ほんの少しだけ気になった。

「あいつ、昔のことはあんまり話したがらないからさ。どんな感じだったのか、一度聞きたいと思ってたんだよ」

義兄さんは鞄から煙草を取り出して火を点けた。

「うちは、特殊ですからね」

「そりゃあね。………なあコウくん」

義兄さんが、とろりとした酔眼の中に、好奇心の色を浮かべた。

「四人のお姉ちゃんと一緒に暮らすのって、どんな感じだった?」

「…………聞きたいですか?」

「もちろん。どんな環境であいつとコウくんが育ったのか、知りたいよ」

僕は煙草の煙が昇る天井を見上げた。

「………まあ、色々ありましたよ。それに僕たち姉弟は……なんというか……『体質』が、ほかの人とはちょっと違いましたから」

「聞いたよ」

義兄さんが煙を吐きつつ、煙草の灰を灰皿に落とした。

「みんなだって?」

僕は首を振った。「それは大げさです。僕たち姉弟は、『それ』を自由には使えませんから。生まれついた運命が、ちょっと特殊だったってだけです」

「………詳しく、聞かせてよ」

義兄さんは半分ほど吸っただけで、煙草を灰皿に押し付けて消した。芋の水割りとビールが運ばれてきた。

それを飲みつつ、僕は姉さんたちの話を始めた。

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