霧生市所属神祇官水上春菜

五島七夫

プロローグ



「はっはっ……」


 何かに誘われるように、少年は石段を登っている。辺りは既に闇に包まれており、周りに生える雑木林が、その暗さを一層深いものにしており、明りになるのは石段の上から覗く星の輝きくらいのものであった。


「あと、どれくらいで着くんだよ……」


 少年は、息も絶え絶えに一人ごちた。ここのところ運動が不足していたため、体力が落ちているのかもしれない。


 時期は三月の末。しかし、今年は暖かくなるのが早かった。特に今日の昼間は暑かったため、この時期の夜にしては比較的気温が高かく、それ故に少年は、額にびっしりと汗を浮かべていた。

 だがこの汗は、何も石段を登り始めてから掻き始めたものではなかった。


「まだ……うん?」


 まだか、と言おうとして、少年が上を見上げた時、柱の根元が目に入った。柱の朱色が、儚い星の光でわずかに確認できた。


「やっと……やっと着いた」


 少しの安堵とともに、少年は最後の力を振り絞り、石段を一足飛びで駆け上がった。


 と、その時開けた場所に出た。


 少年の足元には石段から続く石畳が、その先まで続いている。更にその横には、白い何かが絨毯のように敷き詰められ、それを月明かりが照らしていた。


「これ、桜……か?」


 白い絨毯は、散った桜の花びらであった。周りを見れば、桜の木々が今も少しずつ、その花びらを散らせている。


「っと、見惚れてる場合じゃないな」


 そして、少年が石畳の上に歩を進ませようとした時――少年が登ってきた後ろの雑木林から、風に乗って低い音が聞こえてきた。


『――見ツケタゾ』


 その低音は、少年の鼓膜にそのように響いた。この音から、少年は逃げていたのだ。


「……くそっ! あと一歩って所で……!」


 少年の顔に、恐怖の色がありありと浮かぶ。その恐ろしさから一歩でも逃れるために、石畳の上を少年は走り出した。


『逃サンゾ……!』

(逃さんぞと言われて逃げない奴があるか!?)


 そんな風に思いながら、少年は最後の気力を振り絞って走る。しかし、ここまで走ってきた無理がたたったのか、足をもつらせて壮大にこけてしまった。しかも、転んでしまうことなど予想していなかったためか、碌に受け身も取れず、石畳の上にその身を投げ出されてしまう。


「っつぅ……あっ……?」


 少年の足元に、闇が集まっている――それは、夜の闇とは比べ物にならないほどの、強いていえば黒い、影のような塊だった。その塊は、何やら人の手のような形をしていた。


『――我ガ後胤こういんヨ、ツカマエ……』

「そのまま! 伏せていてください!」


 闇を裂くように、凛とした声が鳴り響いた。


「えっ……?」

「いいから、そのまま!」


 少年が見上げようとするのも、そのまま制止されてしまった。と同時に、石畳の奥から何かが飛んでくるのを少年は感じた。それは少年の上をかすめた直後、足元の闇にそれは刺さり――見れば、お札のようなものであった。


『グッ……』


 狼狽するような低音が響いて後、少年を追いまわしていたものの気配は消えた。どうやら助かったらしいと、少年は安堵の息を漏らす。確認のため辺りを見渡しても、もう不穏な気配を感じない。その代わりに、先ほど札のようなものが鋭く投げつけられた時に生じた風で、辺りの花びらが舞いあがっているのが見えた。と同時に、少年は今しがたこけて打った体の痛みを感じ始めた。


「いっつっ……」

「……大丈夫ですか?」


 痛みをこらえて立ち上がろうとしたその瞬間、石畳の先から声が聞こえた。しかし、今度の声は、先ほどの凛とした声と違って、とても優しげであった。


「あっ、おかげ様で……」


 そう、礼を言いながら立ち上がり、少年は自分を救ってくれたらしい声の主の方に向き直った。

 そこには、自分とそう歳の変わらない少女が、社の勾配に立っていた。上半身には巫女らしい服を着ているが、下の袴は赤ではなく、青色だった。しかし、その色合いは返って、少女の肩まで揃った黒い――というより、少し青みがかった髪に映えるように思えた。月明かりから覗くその顔は、あどけなさを残しつつも、少し大人びた、端正な顔立ちをしている。


 少年は、そのまま声を失っていた。別に、体の痛みで声をあげられなかった訳ではない。ただ、眼の前の光景が、あまりにも幻想的で――ただ、見つめることしかできなかったのである。


「えっと……大丈夫ですか? どこか、痛んだり……」


 それに対し少女は少々間の抜けた調子で少年に声をかけてくる。だが、それも無理もないのだろう。少女から見たら、自分が声をかけた少年は、何も言わずに呆けて立っているだけなのだ。


「あっ、大丈夫、大丈夫っす!」


 少年もふと我を取り戻し、やや大げさに声を上げた。本当はまだ体が痛むのだが、少女に心配をかけるのが、なんだか憚られたのだ。


「……でも、先ほど思いっきりこけてましたよね?」


 そこは見られていたのか、と少年は落胆した。次いで、先ほどまで恐怖で精いっぱい逃げていたのに、いざ脅威が去ればこんなことを考えるなんて、我ながら少々呑気なものだな、と自嘲した。


「いやぁ、頑丈さだけが取り柄みたいなもんで……ほら、この通り!」


 そう言いながら、少年は大げさに手をグルグル回してみせた。すると少女は訝しげだった表情を、いっぱいの笑顔に変えた。


「そうですか。無事なようなら、良かったです」


 ハッキリとした大きな眼の目じりを下げた少女の顔が、また一段と可愛らしく、優しげであった。そして、少女は勾配を下り、少年の方へ近づいてきた。


 辺りは先ほど少女が巻き起こした風で、まだ花びらが舞っていて――。


「私は、水上春菜みなかみはるなです。貴方は?」


 少し開けたこの場所を、満点の星空が見下ろしていて――。


「俺は……上野、上野純一郎こうずけじゅんいちろう


 そして、星空に浮かぶ三日月が、春菜と一緒に純一郎を見つめていた。


「それでは、ようこそ水上神社へ。貴方を狙う悪い者は、私がどうにかしますから……安心してくださいね」




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