Mr.ハードボイルド ~バカスギル家の犬

@kkb

第1話 ஜ۩۞۩ஜ 1 ஜ۩۞۩ஜ

「若杉さんのところだけ、散髪代高くない?」

 帳簿をチェックしていた響子は俺に聞いた。小顔で足が長く、スタイルが良さそうに見えるが、小さめのタイトスカートスーツに身を包んでも、肥満気味なのは隠しようがない。

 俺は応接用のソファに腰掛け、ゴルフクラブをみがきながら、

「若杉某が床屋でいくら使おうと、俺には関係ないけど」

 と言った。窓の外は相変わらず陰鬱な天気だった。


 俺には散髪について、嫌な思い出がある。行きつけの床屋に、跡継ぎの練習台になってくれと頼まれ、二時間五千円で引き受けた。ちょうど髪を切ろうかと思っていた矢先で、多少技術は劣るとはいえ、カットやシャンプーをしてもらって金をいただけるのだから、これほどおいしい話はない。

 だが、その考えは甘かった。俺はいろいろな髪型を試され、最終的にスキンヘッドにされた。

 帽子をかぶるようになったのはそれからだった。ところで、アシスタントの彼女はなぜ、若杉家の散髪代などということを俺に聞くのだろう。


「私は散髪ではなく散歩と言いました。自分が聞き違えたのを、私が悪いみたいに言わないでよ」

 と、彼女は無気になって怒鳴った。

 俺は聞き違えてはいない。彼女ははっきりと散髪と言った。だが、水掛け論になるのも無駄なので、大人な対応をした。

「この歳になると、耳も遠くなってね」

「あっそう。で、散歩代が高い理由は?」


 若杉家の散歩代……。なぜ、彼女はそんなことを俺に聞くのだろう。第一、散歩するのに金がかかるなんて聞いたことはない。

「いちいち面倒な人ね。わかりました。省略せずに言います。犬の散歩代が他は一回千円なのに、若杉さんのところだけ二千円の理由はどうしてですか」

「その理由は簡単だ。二匹同時だから、単純に倍にしただけのことさ」

 と俺は正直に答えた。

「あそこ、一匹しかいなかったはずよね」


 そういえば、そうだった。俺は正直に言うことにした。

「あそこの大将が、代行運転料を値引きしてくれとうるさくて、思い切って半額にしてやった。その代わり、犬の散歩代を倍にするという条件でな。片方を半分にして、もう片方を倍にする。これで差し引きゼロだ。賢いだろう」

 と、俺は複雑きわまる諸事情を説明した。

 代行運転とは、アルコールが入った客の代わりに、客の車を運転して自宅まで送り届けるサービスだ。探偵業のようないい加減な職業と異なり、行政の認可を必要としている。俺は以前、タクシーの運転手をしていて、第2種免許は持っている。ときには、俺自身の車で送り届けることがある。代行運転とはいえず、もぐりのタクシーと同じだが、警察にはいろいろと付け届けをしているので、大目に見てもらっている。


 この近所に店を構える居酒屋若杉は、俺の得意客だ。通常、代行運転といえば、客を送り届けた本人が帰る必要から、別途、車と人員を用意しなければならず、費用もかなり高い。ところが若杉の場合すぐ近所で、近場の客が多いので、客を送り届けた後、徒歩で帰る場合が多い。だから、若杉についてはあまり費用がかからない。それで半額にしたわけだ。


 俺の提案に店主は大喜びしてくれた。代行運転料が半額になり、犬の散歩代が倍になる。ギブアンドテイク、持ちつ持たれつ。

 我ながら素晴らしい発想だ。凡人には決して思いつかない。天才のみがなしえる偉業だ。俺は自分のアイデアに酔いしれた。

 それなのに響子の顔色は曇っている。


「たしかに普通の人はそんなことしないわね~。どんぶり勘定以前の問題」

「いやしくも公認会計士の資格を持つ俺が、どんぶり勘定のわけないだろう」と俺は声を荒げた。

「片方を半分にして、もう片方を倍にすれば、差し引きゼロ? あなたの頭の中はいったいどうなってるんですか。そうなる条件は、元の値段が同じで、回数も同じ場合です。いいですか。仮に回数が同じとします。代行運転代が五千円で、散歩代が千円。足せば六千円ですよね。運転代が半分の二千五百円、散歩代が倍の二千円になれば四千五百円。いくら、損してますか?」

 物理学者ブレーズ・パスカルにちなんで名探偵パスカルと呼ばれた俺だ。そのくらいの計算は朝飯前だ。

 (√3√x√y)+(x^2+2x+2)+5000i…………


「小学生でもできる問題に、わけのわからない数式を持ち出すな!」

 大学院レベルの数学の知識を持つ俺が、小学校で習う算数もわからないのにはれっきとした理由があった。三重県育ちの俺は、小学校一年の夏、伊賀忍者にさらわれ、五年間忍術の修行をさせられたのだ。小学校を卒業した時点では、幼稚園レベルの頭だった。その後、一念発起して、独学で勉学に励んだ。だが、基礎となる小学校の部分が欠落しているため、複雑な難問はとけても、簡単な問題にてこずるのだ。


「ああ、あきれた」

 響子はぐったりとした様子でいった。

 その程度で根を上げてもらっては困る。

 実は犬の散歩代も、倍にしてようやく一般的な料金になる。散歩一回三十分で二千円という料金は、この業界の相場だ。業界の価格破壊をモットーとする俺は、普通の犬はその半分の千円で仕事を引き受けているが、ここの犬の場合だけ、倍にしたのだ。


 なぜなら、若杉家の犬ハインリッヒはとんでもない馬鹿だったからだ。すぐに人にかみつこうとするし、誰彼かまわずほえまくる。雄犬と遭遇しようものなら、相手がセントバーナードだろうが、土佐犬だろうが、勇敢に向かっていく。犬は長女以外にはなついていない。朝や夕方以降は、通行人や周囲に迷惑をかけるので、散歩は日中行う。長女は土日は勘弁ということで、俺に依頼が来たというわけだ。


「要するになにもかも半額というわけね。その割に仕事が少ないのは、独り言が原因?」

 俺は自分でも気づかないうちに、心の声を口に出している。それでいろいろと問題が起きるが、その点については他人からとやかく言われる筋合いはない。そこで、

「最近、競争相手が増えてね。値下げしないとやっていけないんだ」

 と、その場で思いついた嘘でごまかした。

「へえ、そうなの。便利屋さんも競争が激しくて大変ね」

 その便利屋で働きながら、彼女は人ごとのように言った。

「私は便利屋さんとオフィスを共同で使っている私立探偵です」

 彼女はきっぱりとそう言い切った。


 彼女の言っていることは嘘とも本当ともいえない。このあたりの説明は大変ややこしい。大手探偵事務所を退職した彼女は、便利屋だった俺のもとに転がり込んだ。若い女がすぐに独立できるほど甘い世の中ではない。個人事業主である俺に、従業員として雇われる形で探偵業を行う。便利屋に浮気調査などの業務が加わるということだ。こうして便利屋らあちゃんは、ラーチャー&スミスバーニー探偵社に生まれ変わった。

 宣伝文句は、何でもおまかせ便利屋探偵。一般雑用、害虫駆除、清掃全般、不要品回収、浮気調査、人探し、不可能犯罪解決等々。

 ちなみにスミスバーニーなる人物は存在しない。


 彼女は便利屋の仕事はしないと言い張ったが、そんなわがままは通用しない。かくいう俺も探偵業に関わるようになり、今ではほぼ立場が逆転し、彼女は所長である俺の調査を手伝うアシスタントに収まった。


「あなたが探偵なのは見た目だけでしょう。調査は私ひとりで行っています。雇われの身だから報告だけはします。ときどき手伝ってもらうこともあるけど、一度も役に立ったことはありません。むしろ迷惑ばかりかけられています」

 女の嫉妬ほど見苦しいものはない。彼女は現実を見ようとはせずに、自分の妄想に引きこもり、日本全国にその名をとどろかせた俺という名探偵を認めようとしない。


「あなたの妄想はいいから、今後は私の邪魔をしないでください。今も何件か抱えているけど、一切、タッチしないでください。もう当分は報告すらしません。探偵ごっこがしたければ、自分で事件を探してください」


 それで、俺一人でバカスギル家の犬事件に関わることになった。

 シャーロック・ホームズの活躍する「バスカビル家の犬」は、バスカビル家に伝わる伝説の魔犬で、バスカビル家で飼われているわけではない。バカスギル家の犬は若杉家で飼われているただの柴犬だ。ちなみに、バカスギル家というのは若杉家と似ているからではない。犬がとんでもなくバカなのだ。


 若杉家は、笠松ビルのすぐ近くで、若杉という居酒屋を営んでいる。二階建てで、一階は店、二階に主人、妻、長女の三人が暮らしている。

 もともと夫婦はあまり犬が好きではないが、以前裏口から泥棒に入られたことがあり、番犬を飼うことになった。長女以外にはなついておらず、平日は長女が散歩に連れていくが、土日は習い事があるので俺に頼む。


 土曜日、いつものように三時頃、そこに行った。

 犬は裏庭にいるが、表から店内に入る。その理由は代行運転の件で交渉するからだ。大切な得意客なので、手ぶらで行くわけにはいかない。それなりの贈り物は用意している。

 和風の店構えは高級感に乏しく、庶民の通う大衆居酒屋だ。休憩中の札が貼ってあるが、俺はかまうことなく、左手で店の引き戸を開ける。ガラガラと音がした。


 太い眉毛のすぐ上にはちまきをした店の大将が

「今、休憩中だよ」と威勢のいい声で言った。俺だと気づくと、

「なんだ、あんたか。犬の散歩なら裏から来てよ」


「今日は、バレンタインデーってことお忘れかな?」

「あんたにチョコもらって、どうしろと言うんだい?」

 俺は、右手を後ろに回し、泡盛の一升瓶を隠し持っていた。それをカウンターにおくと、

「いつもお世話になっています。お歳暮です」

 瓶にはわざわざお中元と書かれたのし紙が張ってあるが、今はお歳暮でもお中元でもバレンタインの時期でもない。

「それならなんだい、この酒は?」

「沖縄名物AWAMORI」

 俺はあえてローマ字を使った。

「いいねえ、あのきれいなねえちゃんと沖縄旅行かい」

「まあ、そんなところさ」と俺は言ったが、ビルの管理人兼オーナーからもらった土産物だった。

「なんだ、あんたが旅行に行ったんじゃないのかい。まあ、そんなことどうでもいいや。ありがたくもらっとくよ」


 店主はもらいものを売り物として客に出すのだろうか。仕入れ代ゼロなのに、一杯あたり千円をぼったくる。おいしい商売だ。


「そっちこそ、もらいものをお中元ですってインチキするなよな」

 俺からしてみれば相手は客だ。引き下がるしかない。

「すいません、もらいものなんですが、よろしかったらそちらで使ってください」

「そういうことは、これを渡すときに言うもんだ」

 店主のいうことももっともだった。それ以外にも、他に何か言い忘れているような気がした。

「他に言うことなんかあったっけ?」


 そうだ。思い出した。


「で、何?」

 俺ともあろうものが、大変重要なことを忘れていた。


 ……。


「早く言えよ」

「つまらないものですが」

 本当につまらないものだった。

「ああ、それね。普通は言うみたいだけど、その習慣なくしたほうがいいな。本当につまらないものに見えてきた」

 店主は包装された瓶を眺めて言った。「あんまり旨くないかもな。せっかく自分で飲もうと思ったけど、一杯二千円で客に出すことにしたよ」



 それから俺は店の裏口から外に出た。

 居酒屋若杉は、客商売なので通りに面しているが、裏は狭い路地で、犬小屋は裏側にある。

 ハインリッヒは俺が来たことを知ると、しっぽをふってほえだした。

「バウー、ワン、ばうー、ワン」

 人間の言葉に翻訳すると、「三時に来るって話だったよな。五分も遅刻してるぜ」となる。


「こっちもなにかと忙しくてね。あんたも人間になれば、俺の言うことがわかるさ。そのときまで地球が持つかどうかしらないけど」

「ギャオー、バウー、(能書きはいいから早く散歩に連れて行け)」

「わかったよ」



 犬小屋には「ポチ」というミドルネームが記されている。フルネームはハインリッヒ・ポッチ・ビルヘンバッハだ。

 俺は、地面に打ち込んだアンカーからリードを外し、ハインリッヒを引っ張った。

「わうー(もっとそっとやれ)」


 そのとき、「ねえ」という女の声がした。振り向くと、この家の娘が立っていた。俺が散歩を担当する土日は習い事に出かけているので、二、三度みかけたことがあるだけだ。高校一年と聞いている。

「そうだよ」

 切りそろえた前髪の下には、父親譲りの太い眉毛と二重の大きな目があった。

 いわゆるファニーフェイスで、お世辞にも美人とはいえないが、ウーパールーパーを思わせる童顔は好む男も探せばいるはずだ。

「探さなくてもいるよ。だって、私、アイドルになるんだから」

「バワーワウーワンンッ(おまえがアイドルだって、笑わせんな)」と犬が吠えた。

「犬の鳴き声も通訳もおかしいし。と犬が吠えたって何?」


「ところで俺に何のようだ?」と俺は少女に聞いた。

「今日と明日、散歩に行かなくていいから、明日、一緒にオーディションに行って欲しいんだけど」

「俺がオーディションを受けるのか?」

「おじさんじゃなくて、私が受けるの!」


 ブロードウェイ時代、俺は採用率の高さからオーディション荒らしと恐れられた。ミスターヒューと同じ役は避けろ、という噂がミュージカル業界で囁かれた。


「へえ、すごいね。便利屋さん、昔ミュージカルの人だったんだ」

「それより、散歩に行かないことと、明日のオーディションがどうつながるんだ」

 この二つに因果関係はない。

「散歩代二回で四千円だよね。散歩しなくて四千円あげるから、そのお金で、明日オーディションに付いてきて欲しいんだけど」

 自分で四千円という金を都合できない彼女は、散歩代をあてようとしているのだ。

「そうだよ」

「俺のほうはそれで構わないが、おいぬ様にとっては、はた迷惑な話だよな」

「私が代わりに散歩に連れていくから大丈夫だよ」


 すると、ハインリッヒはしっぽを振って、

「ワウーワウーバアアウー(おい騙されるな。その女は散歩にいくつもりなんかない。四千円ねこばばするつもりだ)」

「俺にとっては、散歩だろうが、オーディションだろうが、金さえもらえれば同じことだ」

「キタネーゾ、ウラギーリモノ(なんだ、それなら問題ない)」

 と、ハインリッヒも納得したので、彼女の申し出を受けることにした。

「ハインリッヒも納得したので、君の申し出を受けることにした」


「二回も言わなくても、わかってる」

「君もようやくわかってくれる年頃になったようだな」

「おじさん、ありがとう、じゃあ、明日の二時に車で迎えに来て」

 そう言って彼女は、家の中に入っていった。


「ワウー、わ、ワン(おい、早くいくぞ)」

 ハインリッヒが俺を急かしたので、俺はいつものコースに彼を連れていった。

 ハインリッヒと名付けられるだけあって、ドイツ人気質のところがあって、なにかと論理的で口うるさい。


「ワウー、ギャッ、ウー、ワン(どうして地球が丸いとわかったのかね)」

「誰も本気でそんなこと信じていないさ」

「ワン、ワン、ワン、ワブー(散歩が健康にいいと誰が言い出したのかね)」

「たぶん、ガリレオかパスカルあたりだろうね」

「わん(君が警視庁からパスカルと呼ばれているのは、物理に精通してると考えていいのかね)」

「かなり近いが正確にはそうじゃない。あなたのおかげで助かりましたのタスカルがなまってパスカルになったと、最近物理学会から発表があった」

「ワウーーーー(早く人間になりたい)」

「そんなにいいもんじゃないぜ」


 いつもの電柱のところに来た。ハインリッヒは片足をあげて、小便をかける。彼は無言で語りかけてきた。

「おい、人が小便するところを見てうれしいのか?」

 人? どう見てもただの犬なのだが、その点は突っ込まずにしておこう。

「条例で立ちション禁止のところを見逃してやってるだろう?」

「頼むから、警察には言わないでくれ」

「君の場合、管轄は警察じゃなくて、保健所になりそうだがね」

「おい、人様を犬畜生扱いするのか?」

 その犬畜生そのものだよと、俺は言い出せなかった。


 公園の前を通っているとき、前方からポメラニアンを連れた老婆が歩いてきた。すれ違うとき、向こうから会釈してきたので、

「ごきげんよろしゅう」と俺は挨拶した。

 しかし、犬畜生は「ここは俺様のなわばりだ。ペット風情の出る幕じゃねえ」といって、相手を威嚇した。

 そういうおまえこそペットだよ、と俺は告げることができなかった。

 ポメラニアンのほうはといえば、「まあ、お下品なこと」といって柴犬を見下した。

 幸い、犬同士の衝突は避けられた。特に大きなトラブルもなく、いつものコースを通り、二十分ほどで俺は散歩から戻った。

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