第32話 悲恋
領主が一人で馬に乗って駆けて行く姿を見て、俺の頭にある恐ろしい考えが浮かんだ。
正直、未だかつて、それについて考えたことがない訳ではなかったが、到底無理とあきらめていた発想だ。
ところが、「今の状況なら、もしかしたら可能かもしれない。」と思ったとたん、考えずにはいられなくなった。
岩影もどこにいるかわからなかったが、今この場にも誰かがいるはずだから、俺の考えが可能かどうか聞いて見たくなった。
俺は「落ち着け、落ち着け」と心の中で自分に話しかけ、必死で自分を律しようとした。
何にしろ、岩影のそれなりの者と相談しないことには、どうにもならない。
そう考え、必死に、逸る心を抑えた。
岩影と言えば、秋山風見と青柳新右衛門を探らせていたが、風見は確かに短気で猪武者の様なところがあるとの報告を受けた。
ただ、自分から先陣をきるし、部下思いで、病気になると自ら見舞いに訪れたり、何かあると親身に相談にのったりすることもあるらしい。
更に、恩賞もかなり気前良く配るので、部下からの信頼はあついとのことであった。
又、後で後悔するかもしれないが、俺は今度こそ、風見の性格がわかったような気がした。
それと同時に、麻生辰則のことをあれだけ嫌っているのも、彼の家柄を馬鹿にしてというわけでなく、単純にあの優柔不断な性格が嫌いということなのではないかとも思った。
青柳新右衛門は常に、他人に表情を見せない様にしており、普段から微かなほほえみをたたえている感じとの報告だった。
それだけに何を考えているかわからないとの報告であり、俺はますます彼に興味を持った。
怒っている時も、殆ど表情を変えないという話だから、それで怒られた方は返って怖いかもしれない。
青柳勝間にそれとなく聞いて見たが、彼も新右衛門についてはかすかに笑っているような顔以外、見たことがないという返事だった。
「正直、あのお方は何を考えておられるかわからない。」というのが勝間の感想だった。
そこで更に岩影に調査を命じると、かなり興味深いことがわかった。
どうも、西の方と新右衛門はかつて恋人どうしだったことがあるらしい。
青柳家の有力な家臣の娘だった西の方は、小さい頃から青柳家嫡男である新右衛門とはよく遊ぶ幼友達だった。
もしかすると、西の方の実家では、娘を通じて、当主とより親しくなろうという下心があったのかもしれない。
いずれにしろ、若い男女にはそうした思わくは関係なく、いつしか互いに恋心を抱き、誰もが認める恋仲になっていったそうだ。
ところが、領主の葛川隆明が、たまたま西の方を見かけ、殊の外気に入り「側室に。」という話が出て、二人の仲は切り裂かれてしまったらしい。
当時は誰もが知っていた悲恋で、どうも新右衛門は表情を表に出さなくなったのは、そのことがきっかけらしいというのだ。
話を聞いて、何とも言えない感じが俺を襲った。
新右衛門程の者となると、領主に会う機会は数限りなくあろう、その時「自分の恋人を奪った憎い相手」などと領主のことを見るわけにもいかない以上、彼には表情を失くすという以外の選択肢はなかったのであろう。
今の信三を溺愛する西の方からは、とてもかつてのそうした悲恋の跡を見つけることはできないというのが俺の正直な感慨だった。
これが男女の差というものかとも、勝手に思ったりもした。
ただ、この話を聞いたとき、俺の中で、これまで「絶対無理。」と思っていたある考えが「もしかしたら?」という具合に変わったのは事実である。
俺は、逸る気持ちを抑えるのが精一杯だった。
こういう具合に気持ちが高まっている時、俺はいつも十蔵に相談し、心を落ち着かせてきた。
しかし、今回ばかりは、まだ話をすることができない。
俺自身、荒唐無稽と思わずにはいられない発想で、実現させることが可能かどうか、岩影に確認したうえでないと、とても他人に相談する気にはなれないものだった。
そして、新右衛門の報告を受けたその夜、以前鷹狩りの時以来取りつかれている発想の実現可能性を確認すべく、小夜に岩影党首、岩影玄悟との面談を申し入れた。
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