宮藤未名みなは春の陽射しのような笑顔のできる、そんな性格の人だった。少し癖のかかった髪をしていて、その瞳はいつも朝の光を映したような、新鮮な輝きを宿していた。タンポポの綿毛のような、柔らかな屈託のなさを持っている。

 彼女はハルの、母親だった。

 そういうふうに見れば、ハルはどちらかといえば母親に似ていた。柔らかな目元や、鼻の形、そんなものがハルと彼女とではよく似ている。

 父親と母親と、ハル――

 それは三人の、ごく普通の家族だった。笑ったり、泣いたり、悲しんだり……家族であればどこでもそうであるような、他愛のない日常と繰り返される毎日。

 平凡で、ごく当たり前で、何の変哲もない――けれど確かな、幸せ。

 三人はそういうものの中で、暮らしていた。

 宮藤未名は、いつもそのことに満足していた。

 ――でもある時、彼女は死んでしまった。


 屋上の風は冷たく、空気は必要以上に透きとおっている感じがした。時折、凍てついた音が遠くから虚ろに響いている。

 放課後の時間、子供たちの声は聞こえず、世界は静かだった。誰もが温かい自分の家に向かって、足早に帰っていく。冬の孤独はいつまでも、空の上を漂っていた。

 屋上のうえに、一つの人影がある。

 その人影は、誰かを待っているようだった。薄着に見える格好をしているが、寒そうにしている様子はない。

 人影がじっとしていると、入口のところから一人の少女が姿を現している。

 首にマフラーを巻いて、黒いジャケットを羽織っていた。屋上の寒さに顔をしかめることもなく、彼女はすたすたとコンクリートの上を歩いてくる。

 そして人影の前で、彼女は立ちどまった。

「いったい何の用かしら、宮藤晴くん?」

 彼女は、いつもの無表情さで言った。

「君に話があったんだよ、志条芙夕さん」

 ハルは、いつものような穏やかさで答えている。

 二人は向かいあって、立っていた。色さえもが冷たい青空が、その上に広がっている。

「私には話なんて、別にないのだけれど」

 フユはにべもなく言った。冬の冷たい風のほうが、まだしも人間味にあふれているような口調である。

「ぼくのほうにはあるんだよ」

「面白いわね。いったい何の話かしら。前にも言ったけど、告白でもするつもり? それとも、今度こそ私をしめようっていうのかしら」

「どっちも違うよ」

「でしょうね」

 フユは面白くもなさそうに肩をすくめた。もっとも、この少女がいつ面白さを求めたりするのかはわからない。

「……でももし、ぼくが君のことを本当に好きだといったら、君はどうするつもりなんだい?」

「どうもしないわ」

 フユは笑いもせずに答えた。

「残念だけど、どう考えても私があなたを好きになることなんてないでしょうね」

「でもぼくは、君のことが好きだよ」

「…………」

「アキも、そうだしね。一年間同じクラスにいて、ろくに話もしてないけど、でもそれだけはわかるんだ。君は悪い人じゃないし、人を傷つけたりする人でもない」

 ハルは笑顔で言った。

「――君は十分、人に好かれてもいいひとだよ」

 フユの表情は、特に変わらない。ハルの言葉を聞いているのかどうかさえ、そこからはわからなかった。

 けれど――

 それでも、伝えるべきことはあるのだ。

 ……誰かが、それを伝えなくてはいけなかった。

 フユはけれど、やはり無表情のまま、

「そんなことはどうでもいいわ」

 と、どういう感情をこめることもなく言っている。

「いい加減に、〝話〟というやつを聞かせてもらえないかしら。それとも、本当にそんなことを言うためだけに私を呼んだの?」

「いや」

 ハルは仕方ない、というふうに首を振った。

「実は、君に頼みがあるんだ」

「頼み?」

「そう――」

「いったい、何を頼もうっていうのかしら?」

 ハルは一瞬、息をとめた。風の冷たさがどこかへ消え、かすかな耳鳴りが聞こえた。

「…………」

 風が冷たさを取り戻し、世界には再び静寂が訪れていた。フユはマフラーに首をうずめるようにしながら、じっとハルのことをうかがっている。

「それ、どういう意味なのかしら?」

「言ったとおりだよ。彼に会わせて欲しいんだ」

 フユの長い髪が、風を受けて小さく揺れる。

「わからないわね」

 と、彼女は言った。

「まず、どうして私に頼むのかしら?」

「結城季早と君がどういう関係なのかは知らない。けど君が彼の手伝いをしていることは、わかるんだ」

 フユはどういう表情もない目で、ハルのことを見ていた。ハルはじっと、それを見返している。

「理由はいくつもある。例えばだけど、君が転校してきた時なんかもそうなんだ。あの少し前に、ぼくに関わる事件が一つ起きていた。そして、君が転校してきた。少しタイミングがよすぎる」

「ただの偶然でしょうね。それで私とその人が関係あるだなんていうのは、強引すぎるようだけど」

「そうかもしれない。でもほかにも、理由はいくつかあるんだ。例えば、猫が捕まえられていたこととかね。あれをやってたのは、とりあえず君で間違いないと思う。問題なのはどうしてそんなことをしていたのか、なんだ。考えられることはいくつかあるけど、ぼくはそれが何かの実験に使われたんじゃないかと思ってる」

 フユは、今度は何も言わなかった。

「それがどんな内容のものかは知らない。たぶんぼくの知らないような魔法を使おうとしてるんだと思う。〝成功する見込みの少ない、とても難しい魔法〟をね」

 ハルはそう、いつか祖母に言われた言葉を口にした。

「どうかしらね。それだって、必ずしも私と関係があるとは言えないんじゃないかしら?」

「誰かが言ってたけど、偶然が一つで起こることはある。でも偶然が二つ重なったら、それは絶対に偶然じゃない。そこには必ず誰かの意志がある。そして偶然は、もう一つあるんだ」

「…………」

「学芸会のあの日、君はどうして魔術具を持っていたんだろう? 普通に考えれば、学校であんなものが必要になることはないはずだ。けど何の目的もなく魔術具を持ち歩くことも、可能性としては低い。ということは君には何か、目的があったんだ」

 ハルは少し、息をとめた。

「そしてあの場所には――

 フユはやはり、黙っている。

 けれど――

「ふふ……」

 かすかに、彼女は笑っていた。

「はは、ははは……」

 やがてフユは、身をよじるようにして、本当におかしそうに笑っている。何十年も壊れたままの機械が突然動きだしたような、それはぎこちない笑いかただった。

 ひとしきり笑い終えたところで、フユは真顔に戻り、けれどかすかな微笑を残しつつ、言った。

「そこまでわかっていて、どうしてあなたは彼に会いたいなんて思うのかしら?」

 それは彼女の、純粋な好奇心から出た言葉だった。笑ったことも、そんなふうに人に質問したことも、断絶領域で生きる彼女には絶えてなかったことである。

「聞きたいことがあるからだよ」

「……何をかしら?」

 ハルは少しだけ、息をすった。

「あなたはそれで、本当に世界を取り戻すつもりなのかって」

 そうだ――

 ハルにはどうしても、それを尋ねずにはいられなかった。

 尋ねずには、いられないのだ。

 フユはそんなハルのことを、おかしそうに見つめている。風がやんで、彼女の髪は線を引いたようにまっすぐ地面に落ちていた。

「いいわ――」

 フユはつぶやくように言う。

「彼に、結城季早に会わせてあげる。いつになるかはわからないけど、彼に話してみるから」

「そうしてもらえると助かるよ」

 ハルがそう言うと、フユはくっくっと笑って、

「あなたは本当に人が好すぎるみたいね、宮藤晴くん」

「…………」

「これはクラスメートのよしみとして、もう一度言っておこうかしら?」

 フユはかすかに笑いながら、

「宮藤晴くん、あなたはわよ。結城季早はそれを取り戻すためなら、何でもするでしょうからね。彼の失ったのは、そういうものよ。あなたにそれを、何とかすることができるのかしら?」

 ハルは黙ったまま、身動きもしない。

「いずれにせよ、これはあなたの問題ね。私にはとりあえず関係がない」

 そう、今のところは、とフユはつぶやきもせずに、心の中だけで口にした。

 フユはそれだけ言ってしまうと、用事は済んだとばかりに校舎のほうに戻ろうとした。

「…………」

 けれど不意に立ちどまって、くるりと振りむいている。

「彼女には言わなくていいのかしら?」

 と、フユは言った。

「彼女……?」

「水奈瀬陽よ」

「……どうして彼女に言わなくちゃいけないんだい?」

「友達なんじゃないかしら?」

 ハルは小さく首を振った。

「これは君の言ったとおり、ぼくの問題だよ。アキには関係ない」

「まあ、いいわ……ちょっとした気まぐれついでに聞いてみただけだから」

 フユはそう言って、今度こそ本当に去っていった。

 誰もいない屋上に、ハルはそれからしばらくのあいだ、一人でじっとしていた。

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