3
宮藤
彼女はハルの、母親だった。
そういうふうに見れば、ハルはどちらかといえば母親に似ていた。柔らかな目元や、鼻の形、そんなものがハルと彼女とではよく似ている。
父親と母親と、ハル――
それは三人の、ごく普通の家族だった。笑ったり、泣いたり、悲しんだり……家族であればどこでもそうであるような、他愛のない日常と繰り返される毎日。
平凡で、ごく当たり前で、何の変哲もない――けれど確かな、幸せ。
三人はそういうものの中で、暮らしていた。
宮藤未名は、いつもそのことに満足していた。
――でもある時、彼女は死んでしまった。
屋上の風は冷たく、空気は必要以上に透きとおっている感じがした。時折、凍てついた音が遠くから虚ろに響いている。
放課後の時間、子供たちの声は聞こえず、世界は静かだった。誰もが温かい自分の家に向かって、足早に帰っていく。冬の孤独はいつまでも、空の上を漂っていた。
屋上のうえに、一つの人影がある。
その人影は、誰かを待っているようだった。薄着に見える格好をしているが、寒そうにしている様子はない。
人影がじっとしていると、入口のところから一人の少女が姿を現している。
首にマフラーを巻いて、黒いジャケットを羽織っていた。屋上の寒さに顔をしかめることもなく、彼女はすたすたとコンクリートの上を歩いてくる。
そして人影の前で、彼女は立ちどまった。
「いったい何の用かしら、宮藤晴くん?」
彼女は、いつもの無表情さで言った。
「君に話があったんだよ、志条芙夕さん」
ハルは、いつものような穏やかさで答えている。
二人は向かいあって、立っていた。色さえもが冷たい青空が、その上に広がっている。
「私には話なんて、別にないのだけれど」
フユはにべもなく言った。冬の冷たい風のほうが、まだしも人間味にあふれているような口調である。
「ぼくのほうにはあるんだよ」
「面白いわね。いったい何の話かしら。前にも言ったけど、告白でもするつもり? それとも、今度こそ私をしめようっていうのかしら」
「どっちも違うよ」
「でしょうね」
フユは面白くもなさそうに肩をすくめた。もっとも、この少女がいつ面白さを求めたりするのかはわからない。
「……でももし、ぼくが君のことを本当に好きだといったら、君はどうするつもりなんだい?」
「どうもしないわ」
フユは笑いもせずに答えた。
「残念だけど、どう考えても私があなたを好きになることなんてないでしょうね」
「でもぼくは、君のことが好きだよ」
「…………」
「アキも、そうだしね。一年間同じクラスにいて、ろくに話もしてないけど、でもそれだけはわかるんだ。君は悪い人じゃないし、人を傷つけたりする人でもない」
ハルは笑顔で言った。
「――君は十分、人に好かれてもいいひとだよ」
フユの表情は、特に変わらない。ハルの言葉を聞いているのかどうかさえ、そこからはわからなかった。
けれど――
それでも、伝えるべきことはあるのだ。
……誰かが、それを伝えなくてはいけなかった。
フユはけれど、やはり無表情のまま、
「そんなことはどうでもいいわ」
と、どういう感情をこめることもなく言っている。
「いい加減に、〝話〟というやつを聞かせてもらえないかしら。それとも、本当にそんなことを言うためだけに私を呼んだの?」
「いや」
ハルは仕方ない、というふうに首を振った。
「実は、君に頼みがあるんだ」
「頼み?」
「そう――」
「いったい、何を頼もうっていうのかしら?」
ハルは一瞬、息をとめた。風の冷たさがどこかへ消え、かすかな耳鳴りが聞こえた。
「結城季早に会わせて欲しいんだ」
「…………」
風が冷たさを取り戻し、世界には再び静寂が訪れていた。フユはマフラーに首をうずめるようにしながら、じっとハルのことをうかがっている。
「それ、どういう意味なのかしら?」
「言ったとおりだよ。彼に会わせて欲しいんだ」
フユの長い髪が、風を受けて小さく揺れる。
「わからないわね」
と、彼女は言った。
「まず、どうして私に頼むのかしら?」
「結城季早と君がどういう関係なのかは知らない。けど君が彼の手伝いをしていることは、わかるんだ」
フユはどういう表情もない目で、ハルのことを見ていた。ハルはじっと、それを見返している。
「理由はいくつもある。例えばだけど、君が転校してきた時なんかもそうなんだ。あの少し前に、ぼくに関わる事件が一つ起きていた。そして、君が転校してきた。少しタイミングがよすぎる」
「ただの偶然でしょうね。それで私とその人が関係あるだなんていうのは、強引すぎるようだけど」
「そうかもしれない。でもほかにも、理由はいくつかあるんだ。例えば、猫が捕まえられていたこととかね。あれをやってたのは、とりあえず君で間違いないと思う。問題なのはどうしてそんなことをしていたのか、なんだ。考えられることはいくつかあるけど、ぼくはそれが何かの実験に使われたんじゃないかと思ってる」
フユは、今度は何も言わなかった。
「それがどんな内容のものかは知らない。たぶんぼくの知らないような魔法を使おうとしてるんだと思う。〝成功する見込みの少ない、とても難しい魔法〟をね」
ハルはそう、いつか祖母に言われた言葉を口にした。
「どうかしらね。それだって、必ずしも私と関係があるとは言えないんじゃないかしら?」
「誰かが言ってたけど、偶然が一つで起こることはある。でも偶然が二つ重なったら、それは絶対に偶然じゃない。そこには必ず誰かの意志がある。そして偶然は、もう一つあるんだ」
「…………」
「学芸会のあの日、君はどうして魔術具を持っていたんだろう? 普通に考えれば、学校であんなものが必要になることはないはずだ。けど何の目的もなく魔術具を持ち歩くことも、可能性としては低い。ということは君には何か、目的があったんだ」
ハルは少し、息をとめた。
「そしてあの場所には――結城季早がいた」
フユはやはり、黙っている。
けれど――
「ふふ……」
かすかに、彼女は笑っていた。
「はは、ははは……」
やがてフユは、身をよじるようにして、本当におかしそうに笑っている。何十年も壊れたままの機械が突然動きだしたような、それはぎこちない笑いかただった。
ひとしきり笑い終えたところで、フユは真顔に戻り、けれどかすかな微笑を残しつつ、言った。
「そこまでわかっていて、どうしてあなたは彼に会いたいなんて思うのかしら?」
それは彼女の、純粋な好奇心から出た言葉だった。笑ったことも、そんなふうに人に質問したことも、断絶領域で生きる彼女には絶えてなかったことである。
「聞きたいことがあるからだよ」
「……何をかしら?」
ハルは少しだけ、息をすった。
「あなたはそれで、本当に世界を取り戻すつもりなのかって」
そうだ――
ハルにはどうしても、それを尋ねずにはいられなかった。
尋ねずには、いられないのだ。
フユはそんなハルのことを、おかしそうに見つめている。風がやんで、彼女の髪は線を引いたようにまっすぐ地面に落ちていた。
「いいわ――」
フユはつぶやくように言う。
「彼に、結城季早に会わせてあげる。いつになるかはわからないけど、彼に話してみるから」
「そうしてもらえると助かるよ」
ハルがそう言うと、フユはくっくっと笑って、
「あなたは本当に人が好すぎるみたいね、宮藤晴くん」
「…………」
「これはクラスメートのよしみとして、もう一度言っておこうかしら?」
フユはかすかに笑いながら、
「宮藤晴くん、あなたは気をつけたほうがいいわよ。結城季早はそれを取り戻すためなら、何でもするでしょうからね。彼の失ったのは、そういうものよ。あなたにそれを、何とかすることができるのかしら?」
ハルは黙ったまま、身動きもしない。
「いずれにせよ、これはあなたの問題ね。私にはとりあえず関係がない」
そう、今のところは、とフユはつぶやきもせずに、心の中だけで口にした。
フユはそれだけ言ってしまうと、用事は済んだとばかりに校舎のほうに戻ろうとした。
「…………」
けれど不意に立ちどまって、くるりと振りむいている。
「彼女には言わなくていいのかしら?」
と、フユは言った。
「彼女……?」
「水奈瀬陽よ」
「……どうして彼女に言わなくちゃいけないんだい?」
「友達なんじゃないかしら?」
ハルは小さく首を振った。
「これは君の言ったとおり、ぼくの問題だよ。アキには関係ない」
「まあ、いいわ……ちょっとした気まぐれついでに聞いてみただけだから」
フユはそう言って、今度こそ本当に去っていった。
誰もいない屋上に、ハルはそれからしばらくのあいだ、一人でじっとしていた。
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