四つめの事件

 彼女が死んだとき、彼には本当に言葉通り、何が起こったのかわからなかった。彼方の星がなくなってしまっても、その光だけはしばらく何の変化も示さないのと同じように。

 もちろん、彼は死んでしまってもうぴくりとも動かない彼女を見もしたし、冷たく温もりを失ってしまった手に触れもした。

 彼女は確かに死んでいた。

 けれど――

 それが、どうしたというのだろう。

 彼はそのことの意味を、うまく受けいれることができなかった。彼女が失われたとき、彼女の死の意味も失われてしまっていたのである。彼は一粒の涙さえ、流さなかった。

 かつて彼女が生きていた頃、こんなことを言ったことがある。

「時々、とても悲しくなることってないかな――?」

 彼女は大切な何かをそっと守ろうとするような、そんな笑顔を浮かべていた。彼女はよく、そんな表情を浮かべた。

「たいしたことじゃないの。考えてみれば何てことのないような、ちょっとしたこと。例えば、冷たい水の中に手を入れてみたり、不意に吹いてくる風に身を任せたり、朝になってゆっくり白くなっていく世界を眺めたり……」

 彼女はそう言って、自分でその言葉の感触を確かめるようにそっと手を動かした。

「そういう時、何故だか胸が締めつけられるくらい悲しくなることってないかな? 何かを祈りたくなるような――そんな感じ」

 小さく、笑う。

「そういうことって……ないかな?」

 彼女がそんな不思議な言葉を語るとき、彼はいつもじっと耳を澄ませていた。そこにはとても大切な何かがあるような気がした。誰も気づくことはない、けれど彼女は気づいている、大切な何かが。

 ある日、プロポーズをしていっしょになったあとも、彼女のそんなところは変わらなかった。

 洗濯物を干しているときや、アイロンをかけているときや、台所でぼんやりと座っているときなどに、彼女は不意に泣いていることがあった。

 彼女は自分でも、そのことに気づいていないらしい。

 偶然その場に居あわせたとき、彼はどうしたんだい、と不思議そうに尋ねてみたことがあった。

 彼女はそう言われて、はじめて自分が泣いていることに気づいたように、

「変な感じだね」

 と、いつもの笑顔を浮かべた。

「どうして私、泣いているんだろう……?」

 彼女は自分でも不思議そうに、そうつぶやいている。

 けれど本当は、わかっていた。

 言葉にする必要もないくらい、それははっきりとわかっていた。

 彼女は幸せだったのだ。

 ふと悲しくなってしまうくらいに、幸せだった。

 この世界を――

 この不完全な世界を――

 どうしようもなく、愛おしいと思っていた。

 そんな彼女を、彼は本当に愛していた。そして彼女がこの世界から失われたとき、彼は一粒の涙さえ、流すことはできずにいる。

 何を失ってしまったのかさえ、彼には正確に把握することはできなかった。

 地球がその重力によって人々をこの世界にとどめていることを、多くの人が気づかないでいるのと同じように。それはすぐ近くにあるのに、どうしても気づくことができないでいるのと同じように。

 だから彼はずっと、自分が何を失ったのかわからずにいた。

 それが何なのかわかったのは、ずいぶん時間がたってからである。

 彼はその時、世界の不完全さに再び思いを巡らすことになる。

 そして――

 〝完全世界〟を、彼は望んだのだ。

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